第60話 算盤の外側
伊勢・関、徳川本陣。
陣幕を真っ二つに引き裂き、真田幸村の長槍が徳川秀忠の喉元を目指して一直線に突き出された。
至近距離。死の刃が目と鼻の先に迫る。
秀忠の額を幸村の槍風が叩き、一筋の紅い血が頬を伝った。誰もが徳川の総大将の討ち死にを確信した——まさにその刹那であった。
「——報せッ! 報せでございますッ!」
本陣外の喧噪を突き破り、凄まじい叫びとともに馬ごと陣幕へと突っこんでくる一騎の騎兵があった。
豊臣の伝令である。甲冑は血と汗に塗れ、乗馬は泡を吹いてその場に崩れ落ちた。
「大坂城より……大坂城よりの悲報にございますッ!」
喉元数寸で、幸村の長槍の動きがピタリと止まった。
「何をたわけたことを! 破竹の勢いなるこの時に、どのような戯れ言かッ!」
幸村の喝破を遮るように、伝令兵は血の混じった唾を吐き出しながら叫んだ。
「志摩の海路より紀伊の山道を抜け……徳川忠輝、ならびに伊達政宗の軍勢二千が、手薄となった大坂城下へと突入! 二の丸が破られましたッ!」
「……な、何だと……!?」
豊臣軍の前衛で指揮を執っていた浅野幸長、そして後方の本陣にいた清正の配下たちが、一瞬にして凍りついた。
「なぜだ……! 浅野の防衛網はどうしたッ!」
「……裏切りにございます! 長安の手の者が膨大な銀を握らせ、留守居の者どもは戦わずして道を明け渡しました! 大坂城には、御袋様(淀殿)と千姫様しかおられませぬッ!」
戦場全体から、一切の音が消え去った。
徳川十万を挟み撃ちにし、追い詰めていたはずの豊臣の軍勢。だが、彼らが踏み荒らしていたのは、徳川が最初から差し出していた「空の箱」に過ぎなかったのだ。関ヶ原と桑名に豊臣の全精鋭を引きつけること自体が、秀忠の描いた巨大な罠であった。
「騙されるなッ! 騙されますな秀頼様ッ!」
幸村が真っ赤な目を血走らせ、秀忠の首筋に槍の穂先を押し当てて叫んだ。
「これは敵の狂言! たとえ真実であろうとも、ここで徳川秀忠の首をあげれば豊臣の勝ちにございます! この槍一突きで、徳川の息の根は止まるのだッ!」
「左様だ! 首を取れ! 秀忠を討てッ!」
豊臣の将たちが狂乱の怒号を上げる。幸村の槍の穂先が、秀忠の皮膚を小刻みに震わせた。
だが——。
後方の本陣、白馬の上で金瓢箪の馬印を背負う十四歳の豊臣秀頼は、ゆっくりと目を閉じた。
(……忠輝……政宗。軍勢わずか二千で大坂城の首筋を刺したか。……父上の威光も、蔵入地の米も関係ない。……秀忠殿、貴殿ははじめから、己の命すら盤上の駒として投げ打っていたのだな……)
秀頼の脳裏に、大坂城に残してきた母・淀殿の顔、そして城下に暮らす何十万もの領民の姿が過った。
もしここで秀忠の首を取ったところで、大坂城が焼け落ち、母や領民が殺されれば、残るのは焦土と果てしない泥沼の乱世のみ。秀忠の「算盤」は、最初から豊臣の命脈とその未来を人質に取っていたのだ。
「全軍……槍を引け」
秀頼の声は小さく、だが澄み渡って戦場に響いた。
「秀頼様ッ!? なぜにございますか! あと一寸……あと一寸で徳川を滅ぼせるのですぞッ!」
幸村が振り返り、血を吐くような叫びを上げた。
「……引くのだ、左衛門佐」
秀頼は目を開けた。その瞳には、十四歳の少年のものではない、凄絶なまでの覚悟と静かな涙が浮かんでいた。
「我が目指すは、太閤の遺せし平和の世。母上と城下を見捨てて得た勝利に、何の意味があろうか。……大坂へ戻る。急ぎ、大坂へ引き返せ!」
「う……うおおおおおッ!」
真田幸村は天を仰ぎ、胸をかきむしるような咆哮を上げた。あと一寸で届くはずだった徳川総大将の首。それを前にして槍を引かざるを得ない屈辱と絶望。
豊臣の数万の大軍が、怒涛の引き潮のように大坂へ向けて引き返していく。
静寂を取り戻した桑名口。秀忠は、去り際にこちらを一瞥した十四歳の「王」の瞳を焼き付けながら、震える手で首筋の血を拭った。
「……秀頼殿が真の『覇者』であったなら、わしの首を跳ね、大坂を見捨てて天下を取っただろう」
傍らに歩み寄ってきた本多正信に、秀忠は低く呟いた。
「だが、あのお方は『王』であった。その情ゆえに……わしの算盤に負けたのだ」
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