第59話 誤算と勝機
伊勢国・関の本陣は、もはや戦場というよりは修羅の辻であった。
北からは、結城秀康率いる一万の越前衆が、浅野幸長らを先頭とする豊臣軍の側面を殴りつけ、乱戦の沼へと引きずり込んでいる。長安が北陸道に仕込んでいた米札の兵糧調達網によって駆けつけた秀康の突撃は、西からの押し潰しを確実に食い止めていた。
しかし、東の桑名口から切り込んできた真田幸村の赤備え五百は、もはや数字の概念を超えた「怪物」と化していた。
「徳川の陣など、紙細工も同然! 前へ出よ!」
朱塗りの甲冑を返り血で黒く染めた幸村が、長槍を振るうたびに徳川の儀仗兵がなぎ倒される。
秀忠の十万の軍勢は、その大半が数合わせの人夫や示威のための譜代・旗本である。死線を幾度も越えてきた武田・真田の老兵たちの死狂いの気迫に気圧され、陣列は崩壊の一途をたどっていた。
一番の陣が破られ、二番の陣が瓦解する。
すでに秀忠の陣屋を囲む幕は引き裂かれ、黒煙と血の匂いが陣内に渦巻いていた。
「上様! 真田の突撃勢、もはや留まりませぬ! ここはお引き囲いを!」
大久保長安が声を枯らして叫ぶ。側近たちが秀忠を担ぎ出そうと駆け寄るが、秀忠は手にした茶碗を静かに床へ置き、その手を払いのけた。
「動くなと言っている」
秀忠の声は、恐ろしいほどに低く、静かであった。
「わしがここで一歩でも引き、陣が崩れ去れば、西の秀頼は追撃を削ぎ、大坂へと戻ってしまう。……わしの首という極上の撒き餌を、秀頼の目の前に叩きつけ続けねばならんのだ」
「し、しかし上様! 真田は算盤の弾けぬ死兵にございます! このままでは本当に首を跳ねられますぞ!」
「……わかっておる」
秀忠の指先が、着物の袖の中で固く握り締められた。
秀忠の脳裏に、五年前の記憶が閃光のように過ぎった。
――関ヶ原へ急ぐ道中、上田城で仕掛けられた昌幸の罠。降伏を装う書状を、秀忠は迷わず炎にくべ、罠と見切って一顧もせず素通りした。老獪な昌幸は、まんまと出し抜かれ、無人の城下で呆然と立ち尽くしたという。
あの日、秀忠は「父」を、知略で完全に打ち破った。
だが、目の前でなぎ倒される旗本たちの骸を見つめながら、秀忠は歯を食いしばった。
(……昌幸には勝った。書状の裏を読み、罠を見切ることができた。……だが、この男は違う)
幸村。理も利も、算盤の目もない。ただ「上田の借りを返す」という、一片の意地と武だけを研ぎ澄ませて突っ込んでくる、純粋な死兵。
それは、秀忠がこれまで積み上げてきた経済と信用のロジックが、最初から通用しない、死角からの刃であった。
その時、爆音と共に本陣の最後方をつかさどる木柵が吹き飛んだ。
「徳川秀忠——ッ!!」
雷鳴のような咆哮。
朱塗りの馬に跨がり、血飛沫を浴びた六文銭の旗印を掲げた真田幸村が、数騎の側近とともに、ついに秀忠の陣屋へと突入してきた。
「上様をお守りせよッ!」
徳川の旗本たちが槍を揃えて群がるが、幸村の一撃によって薙ぎ払われる。跳ね飛ぶ首、舞い散る血煙。幸村の鋭い眼光が、陣幕の奥に佇む秀忠の姿を真っ直ぐに捉えた。
「上田の借りを返す! 徳川の将軍、その首頂戴するッ!」
幸村の長槍が、風を切り、秀忠の喉元を目指して一直線に突き出された。
至近距離。死の刃が目と鼻の先に迫る。
死を前にしながら、徳川秀忠は逃げなかった。ただ真っ直ぐに幸村の目を睨み返し、牙を剥く「戦場」という怪物に、己の命のすべてを賭けて立ち向かっていた。




