第58話 越前の鬼神
包囲されて三日目の朝。伊勢国・関の宿場町は、まさに阿鼻叫喚の坩堝と化していた。
東の桑名口からは真田幸村率いる五百の赤備えが、刃の如き鋭さで徳川十万の先鋒を食い破り、秀忠の本陣へと肉薄する。西の美濃路からは、十四歳の豊臣秀頼を奉じた数万の豊臣軍勢が押し寄せていた。
豊臣方の兵たちの士気は異様に高い。秀忠の貿易停止と米札凍結により、「ここで徳川を討たねば飢え死にする」という背水の経済的絶望が、彼らを死兵へと変えていたのだ。
「上様! 陣が持ちませぬ! お引き囲いを!」
大久保長安が叫ぶ。だが、拳を握りしめた徳川秀忠は動じずに座したままであった。
「……退くな」
秀忠の短い声が、混乱の渦中で鋭く響く。
秀忠はただ静かに算盤の玉を指先で弄び、西から押し寄せる巨大な『金瓢箪の馬印』を見つめていた。その瞳には、敗北を恐れる色など微塵もなく、不気味なまでの静寂だけが宿っていた。
だが、西国の大軍の圧力は凄まじい。このまま押し潰されれば、秀忠の算盤もろとも徳川の本陣は跡形もなく消し飛ぶ。
まさにその時であった。
北側の美濃路を降りてくる街道から、地揺らしのような馬蹄の音が轟いた。
「——案ずるな、秀忠ッ!」
黒糸威しの重甲冑を纏った巨漢が、黒馬を駆って西の豊臣軍の左側面(横合い)へ突入した。
黒地に『三つ葵』と『結城の紋』。
徳川家康の次男——結城秀康であった。
越前北ノ庄から伊勢まで、本来なら一週間を要する道のりである。それをわずか四日で駆け抜けられたのは、大久保長安が北陸道沿いに張り巡らせていた「米札」による兵糧と馬匹の即時調達網が機能したからに他ならない。
「豊臣の先鋒、浅野勢とお見受けする! 徳川、いや将軍家には、この結城秀康が立ち塞がるぞッ!」
秀康の一万の騎馬隊が、豊臣の先陣を切る浅野幸長勢と激突した。
かつて秀吉の養子として「秀」の名を与えられた武勇随一の鬼神・秀康。その圧倒的な突撃力により、西からの圧迫が一瞬にして押し止められた。
遥か後方の本陣。白馬に跨がる十四歳の豊臣秀頼は、浅野勢と激突する結城の葵紋を、冷徹な瞳で見つめていた。
(……結城秀康。父上の名を継ぐ『もう一人の秀』か。……だが、我が途を遮ることはできぬ)
秀頼は刀を抜くことなく、ただ悠然と金瓢箪の馬印の下に立ち続け、自軍の指揮を執った。
一方、伊勢湾を臨む松坂の陣。
家康の六男・徳川忠輝と伊達政宗のもとへ、志摩水軍を介した大御所・家康からの極密の書状が届いていた。
文面に目を通した政宗の細い目が、怪しく光った。
「……ほう。大御所様も、実におそろしい手をお打ちになられる」
「伊達殿! 父上は何とおっしゃっておられるのだ! 秀忠兄上を助けに向かえとの仰せか!」
身を乗り出す忠輝に対し、政宗は書状を静かに懐へしまうと、独眼をギラりと光らせて笑った。
「……大御所様の真意は、じきに分かります。忠輝様、全軍に即時出陣の触れを。……目的地は、西ではなく南だ」
「南……? 伊勢の奥深く、紀伊へ続く山道ではないか! なぜそちらへ向かうのだ!?」
「案ずるには及びませぬ」
政宗は不気味な笑みを浮かべたまま、馬頭を返した。
忠輝と政宗率いる二千の軍勢は、暗雲立ち込める紀伊の険しい山道へと、影のように消えていった。
伊勢・関の本陣。
北から現れた結城秀康の越前衆が浅野軍と泥沼の激戦を繰り広げ、西の豊臣本隊の進撃は止まった。
伊勢・関の本陣。
北から現れた結城秀康の越前衆が浅野軍と泥沼の激戦を繰り広げ、西の豊臣本隊の進撃は止まった。
だが——東の桑名口では、なおも幸村の猛攻が続いていた。徳川の先陣は次々と食い破られ、陣列は音を立てて崩れていく。その刃は、なおも本陣の奥深くへと迫り続けていた。
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