第57話 太閤の馬印
慶長十年(一六〇五年)十二月上旬。伊勢国・桑名の手前。
長崎落城と桑名・熱田の渡し遮断の報を受け、東海道を東へ帰途についていた徳川秀忠の十万の軍勢は、突如として足を止められた。
十万——数字の上では圧巻の大軍である。だが、その実態は朝廷に二代将軍の威光を示すための示威の軍勢に過ぎなかった。色とりどりの幟旗を掲げ、豪華絢爛な甲冑を纏った東国の譜代や旗本たち。兵卒の半分以上は荷物持ちの人夫であり、戦の緊張感など皆無のまま、長々と街道に伸び切っていた。
「陣を立て直せ! 雑兵を下げ、鉄砲隊を前に出せ!」
「引き返せ! 桑名の渡しが落ちたぞ!」
混乱は、水面に落ちた一滴の油のように一瞬で広がった。東への進路を熱田の押さえに残った真田昌幸に断たれ、海路を閉ざされた巨体は、自らの重みに耐えかねて悲鳴を上げている。
秀忠は関の宿場近くに張られた陣屋の中で、冷たい茶を啜っていた。
「……長安」
「はっ」
「越前の秀康兄上、彦根の井伊へ早馬を飛ばせ。……尾張の忠吉は病床から動けず、熱田も封鎖された。もはや頼れるのは東国・北陸の兵のみだ」
大久保長安は、土気色の顔で深々と頭を下げた。
「御意。……して、上様。この示威の軍勢、幾日保ちますでしょうか」
「五日だ」
秀忠は短く答え、算盤の玉を弾いた。
「雑兵が逃げ惑い、街道を塞げば、豊臣の進撃も鈍る。五日保てば、兄上たちの援軍が届く」
その時、陣屋の外で地鳴りのような叫びが上がった。
「赤備えだッ! 前方の桑名口から真田が襲いかかってきたぞッ!」
陣幕が激しく揺れた。
熱田の遮断に本陣を残した父・昌幸に代わり、息子の幸村が率いてきたのは、わずか五百——だが、その五百はことごとく武田・真田の修羅場を潜り抜けてきた、白髪混じりの老兵や歴戦の猛者たちであった。
数で勝ろうとも、戦慣れしていない徳川の儀仗兵など彼らの敵ではない。老練な五百の騎馬鉄砲隊は、長蛇の列の隙を正確に見抜き、研ぎ澄まされた刃のように、東海道を塞ぐ徳川の先鋒へ容赦なく突き刺さった。
「徳川秀忠に伝えよ! 上田の借りを返しに来たとな!」
朱塗りの甲冑に身を包んだ幸村を先頭に、歴戦の猛者たちが一糸乱れぬ連携で徳川の陣列を引き裂いていく。示威のための兵たちは、死線を超えてきた老兵たちの圧倒的な気迫に気圧され、槍を捨てて逃げ惑った。
だが、真の絶望は、背後——西の大坂方面から訪れた。
「う、後ろだ! 背後から大軍が押し寄せてくるぞッ!」
西の街道を埋め尽くすように、無数の旗印が立ち上る。
秀忠の貿易停止措置で干上がった西国の大名たちや、米札融資を突っぱねた清正の配下、さらには旧豊臣蔵入地の地侍や浪人衆——秀忠の経済制裁に鬱屈していた者たちが、激文から十日足らずの間に雪崩を打って集結していた。
紀伊の浅野幸長もまた、長安の米札工作で裏から手を回された家臣たちに突き上げられる形で、手薄な和歌山城にわずかな留守居を残し、数千を率いて駆けつけていた。その和歌山城の留守を守っているのは、わずかな兵と紀伊の国人衆である。
東を真田の五百に塞がれ、西を豊臣の大軍に追われ、徳川十万は完全に挟撃されていた。
そして、西の軍勢の中央に、燦然と輝く巨大な『金瓢箪の馬印』が高々と掲げられた。
「……太閤殿下の、馬印……!?」
徳川陣営の老将たちが、息を呑み、ガタガタと膝を震わせた。
かつて天下を平定し、日ノ本中の武士をひれ伏させた絶対者の象徴。それが今、冬の伊勢路の風に翻っている。
金の甲冑に身を包み、白馬に跨がる若武者がいた。
十四歳の豊臣秀頼である。
幼さを残す顔立ちでありながら、その瞳には太閤秀吉の冷徹な覇気と、如水の遺言を抱いた覚悟が宿っていた。
「徳川将軍家、秀忠殿とお見受けする!」
秀頼の声は、澄み渡り、戦場全体に響き渡った。
「太閤の遺せし平和の法を乱し、豊臣の蔵を干し殺さんとする不義の算盤、もはや看過できぬ。……天下の正道、これより豊臣が正す!」
「おおおっ……!」
集まった数万の豊臣軍勢から、天を突くような勝鬨が上がった。
陣屋の中で、秀忠は立ち上がった。
東からの赤備え、西からの太閤の旗。前後に押し寄せる「武」と「権威」の挟撃の波に、冷や汗が秀忠の額を伝い、床に落ちた。
同じ頃、駿府城。
伊勢路で秀忠が豊臣軍に包囲されたとの急報が届くより先、大御所・徳川家康の手元には、伏見出立の際に長安からあらかじめ持たされていた極密の書状があった。
そこには、秀忠が不測の事態に陥った際、いかにして盤面をひっくり返すかという、暗澹たる企ての一端が記されていた。
「秀忠の奴……自らの身を追い込んでまで、大坂の腹を空にする気か……!」
家康は震える手で算盤を弾き、冷徹な将棋の指し手へと顔を変えた。
家康は志摩の水兵へ一刻を争う密書を託した。
同じ頃、伊勢・関の本陣。
「上様! 東からは真田の突撃、西からは秀頼の本陣……徳川十万、完全に包囲されてございます!」
長安の悲鳴のような報告の中、陣屋の外からは東西双方の勝鬨と絶望の怒号が響いていた。秀忠の額から冷や汗が頬を伝い、床に落ちる。
だが、冷たい茶を飲み干した秀忠の唇は、微かに釣り上がっていた。
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