第56話 死せる官兵衛
慶長十年(一六〇五年)十一月。大坂城、表御殿。
秀頼の上洛を促す使者として現れたのは、秀忠の弟にして、軍勢に随行する若武者だった。
「松平忠輝にござる。将軍家は京にて参内を終えられた。秀頼殿にも、京へ出向いて礼を尽くされたい」
まだ少年の面影を残しながら、鋭い目つきの若者だった。丁寧な口上とは裏腹に、値踏みするように広間を見回している。天井、柱、庭の水路。
「お断りいたします」
淀殿が、扇を握りしめて言い放った。
「秀頼は太閤殿下の子。徳川の家来ではございませぬ。どうしても連れて行くと仰せなら、この母と秀頼、城に火を放って自害いたしましょう」
広間が凍りついた。忠輝は一瞬目を見開き、そして、ふっと笑った。
「……ははっ、面白い。よく分かり申した。持ち帰りましょう」
去り際、忠輝は城の水堀を振り返り、その脇に控える独眼の将--伊達政宗と視線を交わすと、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
「水門の多い城だ。守るには手間がかかりそうだな」
十一月末。奥御殿。
「徳川秀忠、京を発ち、東へ帰途につきましてございます」
十四歳の豊臣秀頼は、静かに『史記』をパタンと閉じた。
迷いは、最後まであった。
如水の策は、秀忠がこの罠を読んでいれば、そのまま豊臣の自滅になる。黄金は米を買えず、南蛮の海も塞がれた今、これが最後の一手だった。使えば、二度と次はない。
(だが、待てば干からびるだけだ)
秀頼は筆を取り、檄文をしたためた。
『太閤の遺せし貿易の法を私し、豊臣の蔵入地を干し殺さんとする秀忠の専横、断じて許すまじ。忠義の士は今こそ立て』
二年近く前、黒田如水が命と引き換えに遺した言葉が、脳裏に蘇る。
――十万の大軍が東海道に長く伸びきる、その帰路こそ、唯一の勝機。
その日のために、秀頼は黄金を送り続けてきた。米は買えぬ。だが黄金は、槍にも馬にも、在地の者への恩賞にもなる。彼らは長い間、息を潜めてこの合図を待っていたのだ。
「――動け、戦国の兵どもよ」
檄文を託された使者たちが、闇に散った。
肥後・熊本城。
「待たせおって、大坂の若君……!」
檄文を読み終えた加藤清正は、不敵に笑って立ち上がった。
秀忠が差し出した米札の低利融資を、清正は、ただ一人、突き返していた。豊臣恩顧の誇りが、徳川の借金を許さなかったのだ。その代償に領内は飢える寸前だった。だが、清正は数ヶ月前から、演習と称して数千の精鋭を天草に集めていた。狙いは、海の向こうの長崎奉行所である。
「朱印状など、わしの槍で叩き割ってくれるわ! 船を出せ! 目指すは長崎じゃ!」
冬の夜の海を、軍船が滑り出した。
同じ頃、信濃・上田。
真田信之の屋敷の奥座敷で、幽閉の身にあるはずの昌幸が、喉の奥で笑った。
「ククク……時が来たぞ、信繁」
「はっ」
傍らに控える次男・信繁が、大坂からの黄金の入った袋を静かに置く。
「信之が寝ておる間に発つ。……あれは、律儀な男だ。追わせては可哀想じゃ」
夜明け前、屋敷の裏門から、赤備えの一団が雪の闇に溶けた。木曽の険しい山道へ。道々、甲斐・信濃の蔵入地の地侍たちが、黄金を受け取り、次々と後に続いていく。
翌朝。空になった座敷に立ち尽くす信之の手には、昌幸が残した一枚の紙があった。
『すまぬ。だが、これが真田の生き方よ』
「……父上」
信之は紙を握りしめ、唇を噛んだ。徳川に忠義を尽くす兄として、追うべきか。父の息子として、追うべきではないのか。答えは、まだ出なかった。
十二月。伊勢、関の陣中。
京を発って半月。鈴鹿を越え、東海道をゆるゆると帰途につく徳川秀忠は、朝廷を米札の網に取り込み、泰平の完成を確信していた。十万の軍勢が、長い列をなして道を進んでいる。
その陣屋に、無作法な足音が響いた。
「上様! 上様ッ!」
息を切らした大久保長安が、幕を蹴り上げて転がり込んでくる。烏帽子は乱れ、顔は土気色だった。
「無作法ぞ、長安。算盤の音が乱れる」
「長崎が……加藤清正の手に落ちました!十日前のことにございます。長崎から逃げ出した南蛮船と大坂の商人の商船の報が、瀬戸内を早船で駆け抜け、今朝方にその報を運んでまいりました!奉行所は豊臣の手中にございます!」
秀忠の指が、止まった。
「何……?」
「さらに、信濃の真田昌幸が蔵入地の兵を率い、木曽路を降って美濃・尾張へ入り、昨夜、桑名と熱田の渡しを押さえました!我らの前方で東海道は断たれ、江戸との飛脚も、米札の往来も、途絶えましてございます……!」
「桑名……熱田だと……」
陣屋の空気が凍りついた。
パチン、と乾いた音が響く。秀忠の手から算盤が滑り落ち、床に転がった。
長安は、主君の顔を見た。動揺している。確かに動揺しているはずだった。
だが――算盤を見下ろす秀忠の目の奥に、一瞬だけ、冷えた光が走った気がした。
「……長安」
「は、はっ」
「紀伊は、どうなっておる」
長安の顔から、恐れが消えた。代わりに、薄い笑みが浮かぶ。
「……手は、打ってございます」
秀忠は無言で算盤を拾い上げた。壊れた玉を、指で一つずつ弾き直していく。
「そうか。ならば、わしは急ぐまい」
その声は、静かだった。
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