幕間 二つの帳場
慶長十年(一六〇五年)十月 東海道・小田原宿
相模屋の朝は、荷を降ろす音で始まる。
「女将さん、今日は江戸まで。荷は預けて参ります」
旅の商人が、風呂敷包みを土間に置いた。おふさは、算盤も使わず、帳面に手早く筆を走らせる。
「四貫目、確かに。宿賃と預り賃は、いつものとおりで」
「へい、札で払います。いや、身軽なもんだ。重い銭を担いで歩かずに済むんだから」
商人が懐から取り出したのは、朱印の押された薄い和紙――公儀の米札であった。おふさは、それを両手で丁寧に受け取った。
三年前の秋、この紙の前身を、この手で一日だけ断ったことがある。
蔵の米が尽きるという噂に怯え、預り証を突き返した。相手は泣きそうな顔で帰っていった。翌日、噂は嘘のように消え、公儀の蔵は一粒も欠かさず払い切ったと知った。
(あの人たちを、信じきれなかった)
以来、相模屋は、東海道で誰より熱心に米札を使う店になった。
「女将さん、表に」
小女のおまさが、戸口を指した。
道端に、上方訛りの母子が座り込んでいる。母親の着物は擦り切れ、子の頬はこけていた。
「……大坂から、歩いて参りました。米が、もう買えのうて」
おふさは、黙って奥へ引っ込み、湯気の立つ粥の椀を二つ、盆に載せて戻ってきた。
「お食べ。話は、それからでいい」
椀を抱えた子供の手が、震えていた。
おふさは、その小さな手から、そっと目を逸らした。
嫁いで七年。大坂の米屋にいる娘のお糸も、あの町のどこかで、同じ空を見上げているはずだった。
同じ朝 大坂・米屋河内屋
河内屋の店先には、朝から行列ができていた。
並んでいるのは、いずれも金銀を握りしめた客である。だが棚の米俵は、あと三日分しかない。値札の墨は、ひと月前の三倍に書き換えられていた。
「これで、ある分だけ売ってくれ」
浪人風の男が、大判を一枚、帳場の台に叩きつけた。
黄金が、朝日に光る。
主の三郎兵衛は、それを見もしなかった。
「お断りいたします」
「何だと。大判だぞ。これ一枚で、米が何俵買えると思うておる」
「大判では、お売りできまへん」
三郎兵衛は、静かに首を横に振った。
「今日この大判を受け取って米を出したら、明日、わてが仕入れに行った時、この大判で米が買えるやろか。……買えまへん。米屋が金を断る世が来るやなんて、思うてもみまへなんだが」
「貴様、太閤殿下の金を愚弄する気か!」
浪人の手が、刀の柄にかかった。番頭が青ざめる。
三郎兵衛は、動かなかった。
「抜かはるなら、どうぞ。けど、斬っても米は出まへんで」
沈黙。
やがて浪人は舌打ちをして大判を掴み、店を出ていった。
三郎兵衛は、膝が震えているのを悟られぬよう、帳場の柱に手をついた。
(わては、大坂の米屋や。金銀のお陰で、代々商いをして来た)
その金銀が、腹を満たさぬ日が来た。
昼 二つの帳場
相模屋の帳場では、おふさが、蔵の数を聞いていた。
「米、二百四十俵。米札の引換の控えも、二百四十」
「合うてるね」
おふさは、ふっと息を吐いた。
帳面の数と、蔵の米と、手元の札。三つが一つに重なる。それだけのことが、この三年、彼女のいちばんの楽しみであった。
河内屋の帳場では、三郎兵衛が、金銀の箱を前にしていた。
大判、小判、丁銀が、山のように積まれている。数えても、数えても、指は虚しく動くだけだった。その横に置いた米の帳面は、日ごとに数字が細っていく。
「……腹は、膨れへんな」
「旦那様」
奥から、妻のお糸が顔を出した。
「太吉が、お粥が薄いと申しまして」
「堪忍してや。これ以上、米は減らされへんのや」
お糸は、黙って頭を下げ、奥の小部屋で筆を取った。
『母上様。お変わりなく、お過ごしでしょうか。米屋の嫁が米の心配を書くなど、笑い話にもなりませぬが――』
書きかけた文を、お糸は途中で、握りつぶした。
書き直しては、また、握りつぶす。
日が暮れる頃、ようやく、たった三行の文が仕上がった。
夕 小田原・相模屋
粥を食べ終えた母子は、日暮れ前に、宿場の施し小屋へ案内されていった。
その背中を見送ったおふさは、奥の蔵へ入り、しばらく出てこなかった。
やがて筆を取り、一気に書いた。
『お糸へ。大坂は、米が乏しいと聞きます。この紙を、太吉と二人で持って、小田原へおいで。相模屋の蔵で、いつでも米に替えてあげます。
あんたが大坂を離れられない事情は、母も知っています。けれど、子の腹は待ってくれません』
一枚の米札を、文に添える。米一石と引き換えられる、公儀の紙である。
おふさは、それを飛脚問屋へ預け、宿場の夕空を見上げた。
その同じ頃、大坂から出た飛脚の懐にも、一通の文が収められていた。
東海道のどこか、名も知らぬ宿場の外れで、二人の飛脚が、すれ違った。
互いの文を、互いの方角へ運びながら。
十日後の夜 大坂・河内屋
「お糸。文や」
戸口で、飛脚が、一通の包みを差し出した。
お糸は、震える手で封を切った。中から、薄い朱印の紙が、はらりと落ちる。
「……それは」
灯の下で、姑のお滝が、眉をひそめた。
「東の紙やないか。徳川の紙なぞ、大坂で何の役に立つ」
「使えまへん。……けど」
三郎兵衛が、その札を、じっと見つめていた。
「お袋さま、河内屋の棚には、もう米がおまへん」
「豊臣の金銀が紙屑になるはずがない。あれは太閤様のお金や。ほんに、辛抱が足らん」
「お袋さま」
三郎兵衛の声は、静かだった。
「金は、食えまへん」
お滝は、口を開きかけ、そして、閉じた。
囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
その夜
太吉が眠ったあと、お糸は、一人、窓辺に立っていた。
手の中の米札は、驚くほど軽かった。
これ一枚で、米一石。だが、これを使うには、この町を捨てなければならない。
夫と、姑と、河内屋の暖簾を。
お糸は、母の文を、もう一度読み返した。
『けれど、子の腹は待ってくれません』
窓の外に、大坂の町が広がっていた。
灯は、ひと月前より、少なかった。
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