幕間 堂島の火花
お待ち頂く間の幕間としてお楽しみください
慶長十年(一六〇五年)秋 大坂城・大保木
黄金の山の前から、豊臣秀頼はまだ動けずにいた。
握りしめた大判の跡が、掌に赤く残っている。
「……常安」
「はっ」
闇の奥に控えていた淀屋常安が、音もなく進み出た。
「余は、一度だけ秀忠に勝ったことがあると聞いた。如水が、そう申しておった」
「……お耳に入っておりましたか」
常安は少し黙り、懐から一冊の帳面を取り出した。
表紙は擦り切れ、墨で「壬寅 堂島」とだけ記されている。角ばった癖の強い筆――黒田如水の手であった。
「三年前の秋にございます。ただ……あの方は、この勝ち戦をお喜びになりませなんだ」
慶長七年(一六〇二年)秋 江戸城・勘定所
「預り証の取扱高、この三月で倍にございます」
大久保長安が、声を弾ませて帳面を差し出した。
「東海道の宿場は、どこも問屋が笑いを止められぬ有様。東北からの荷も、大坂を通さず江戸へ流れ始めております」
「上々にございますな、若様」
本多正信が、干し柿のような顔をほころばせる。
徳川秀忠は、黙って帳面をめくっていた。その指が、ふと止まる。
「……引換の数も、伸びているな」
「は。近頃は上方訛りの客が増えたと、蔵の手代が申しておりました」
「上方の商人が、預り証を認め始めたか」
秀忠の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
大坂の金銀に頼らぬ紙の信用が、敵地の商人にまで及び始めている。算盤の目は、そう読めた。
帳面の端に小さな違和感が残っていた。引換に持ち込まれた預り証の出どころが、大津と京の宿場ばかりに偏っているのだ。
だが秀忠は、それを「浸透」の二文字で片づけた。
後に彼が、幾度も思い返すことになる一行であった。
同 大坂・堂島
米俵の山と、算盤の音と、商人たちの怒号。
開かれて一年になる堂島の米市は、熱に浮かされたような喧噪の只中にあった。
「来月渡し、もう一千石買いや!」
「二千や! 言い値でええ!」
淀屋の番頭たちが札を振るたび、米の値が音を立てて跳ね上がっていく。
その喧噪を、黒衣の老人が高みから見下ろしていた。片足を引きずり、胸には小さな十字架。黒田如水である。
「……上がりましたな。江戸との値の開き、二割を超えました」
隣で、常安が囁いた。如水は、満足そうでもない顔で頷く。
「常安。大津の宿に人をやれ。江戸の預り証を、額面の一分増しで買い取るとな。払いは銀札でよい」
「徳川の手形を、でございますか。買うて何になりましょう」
「あの紙は、江戸の蔵へ持ち込めば米に替わる。銭の持ち合わせのない徳川は、引換の実を米で払うておる」
如水は、指を一本立てた。
「大坂の米は高い。江戸の米は安い。廻船の運賃と日数を引いても、なお、いかほど残る」
常安の頭の中で、算盤が弾かれた。
「……一割。一割の利は、確かに残りまする」
「一割あれば、商人は親の顔も忘れる。紙一枚を江戸へ運び、米に替え、船で戻せば銀が増える。欲に駆られた者どもが、勝手に江戸の蔵へ押し寄せよう。わしは誰の背も押さぬ。ただ、値の開きを作ってやるだけだ」
「……お人が悪い」
「切支丹に向かって申す言葉か」
如水はくつくつと喉を鳴らし、東の空を仰いだ。
「秀忠殿の仕組みは美しい。美しいがゆえに、出口が一つしかない。……一点に力を掛ければ、折れるのだ」
同 江戸・公儀米蔵
蔵手代の平助が異変を悟ったのは、朝の門を開けた瞬間であった。
門前に、行列ができている。
一人や二人ではない。堀端まで続く長い列の全員が預り証を握りしめ、聞き慣れぬ上方の言葉で囁き合っていた。
「今日は、何石までや」
「あるだけ出してもらわな、話にならん」
昼には蔵の前の空き地が俵で埋まり、夕には人足が足りなくなった。積み出された米は、江戸の誰の腹にも入らぬまま、品川の廻船へと吸い込まれていく。
(米が……出ていく)
平助は、日ごとに空いていく蔵の棚を見つめて立ち尽くした。
三日目には、蔵の半分が消えた。
四日目の朝、東海道から早馬が着いた。
「小田原の問屋が、今朝、預り証の受け取りを断りました! 蔵の米がもたぬという噂が、宿場を走っております!」
その夜 江戸城・勘定所
灯火の下で、長安が震える声で数字を読み上げた。
「常備の米十二万石のうち、四万石が失われました。このままでは……」
「引換を止めましょう、若様」
正信が、静かに、しかし迷いなく言った。
「一時止め、日を改めて再開する。戦場で言えば、退き時にございます」
「止めれば、どうなる」
「……噂は、止まりましょう」
「止まらぬ。信用は、噂が止まる前に死ぬ」
秀忠の声は低かった。右手の親指の爪が、いつの間にか掌に深く食い込んでいる。血が、うっすらと滲んでいた。
(上方訛りの客。……あれは、浸透などではなかった)
自分は、あれを喜んだのだ。喜んで、算盤を置いた。
前世で嫌というほど見た光景が、脳裏に蘇る。銀行の前に並ぶ人々。あれを、何と呼んだか。
――取り付け。
「……出口が一つしかない仕組みは、そこを塞がれれば終わる。わしは、それを知っていたはずだった」
「若様……」
「引換は止めぬ。すべて払え」
長安と正信が、息を呑んだ。
「直轄領の年貢米を、明日から江戸へ急送させろ。奥州、出羽の諸大名へ、米の前納を頼む書状を出せ。預り証を使うてきた者どもには、今こそ恩を返してもらう」
「それでは、蔵は空になりますぞ」
「空になる。だが払い切れば、負けは我らの傷で済む。止めれば、信用そのものが死ぬ」
その時、伏見の家康から返書が届いた。
秀忠が開くと、たった一行であった。
『負けは、高くとも、早いうちに買え』
秀忠は文をしばし見つめ、小さく息を吐いた。
「……父上には、すべてお見通しか」
書状は、翌朝には諸国へ飛んだ。直江兼続からは、米の前納を約す返書が、誰よりも早く届いたという。
五日目。蔵の前の行列は変わらなかった。
だが、俵は尽きなかった。
同 大坂城
「秀忠に、勝ったのか」
九歳の秀頼が、目を輝かせて如水を見上げた。
淀屋の使いが持ち込んだ知らせは、大坂城を沸かせていた。江戸の引換が滞り、小田原の宿場が預り証を拒んだ。徳川の紙が、一日とはいえ揺らいだのだ。
「見事な仕掛けにございました、如水殿! 淀屋は、この十日で三年分を稼いだと申しております」
増田長盛が、上機嫌で祝いを述べる。
如水だけは、笑わなかった。
「勝ちは、一度きりにございます、秀頼様」
「一度でも勝ちは勝ちだ」
「……はい。ですが」
そこへ、常安が新たな報告を携えて入ってきた。
「江戸は、引換を止めませなんだ。払い続け、五日目には持ち直したと」
大広間が、静まり返った。
如水は、胸の十字架をそっと握った。
「……止めなんだか」
止めていれば、徳川の紙は死んでいた。だが秀忠は止めず、蔵を空にしてまで払い切った。その瞬間、江戸の預り証は「一度試され、それでも払った紙」になったのだ。
(負けたと知った日に、負けを買い取りおった)
「如水?」
秀頼が、不安げに袖を引く。
「……あの男は、傷を制度に変えて参ります。今日の傷を、明日の鎧にする。あの男を倒す者が、もし現れるなら――」
如水は言葉を切り、静かに首を振った。
「いえ。今は、この一勝をお喜びくだされ」
同じ夜 江戸城・勘定所
深夜の勘定所で、秀忠は一人、筆を走らせていた。
一、引換は、公儀の蔵に限る。
二、預り証の発行は、蔵米の見合いを超えてはならぬ。
三、西国へ米を持ち出すには、公儀の許しを要す。
書き終えて、筆を置く。
昼間の疲れが、指先の震えになって残っていた。右の親指の傷は、まだ乾いていない。
「若様。傷のお手当てを」
障子の陰から、正信が薬を差し出した。
「いらぬ。この傷は、しばらく持っておく」
秀忠は、書付をじっと見つめる。
出口を一つに絞った仕組みは、そこを狙われて折れた。ならば、出口を管理する仕組みに作り替える。米の量と紙の量を釣り合わせ、持ち出しを縛る。
後に「米札」と呼ばれる仕組みの、それが最初の骨組みであった。
「一度負けた仕組みだけが、本物になる」
誰にともなく呟くと、正信が、干し柿のような顔を少しだけほころばせた。
「……大坂の老狐に、礼を申さねばなりませぬな」
「ああ。いつか、必ず」
慶長十年 大坂城・大保木
「……如水は、笑わなかったのか」
「はい。一度も」
常安は、帳面の最後の頁を開き、秀頼へ差し出した。
如水の筆で、短い一文が記されている。
『勝ちは一度。二度目は通じぬ。あの男は、傷を制度に変える』
その下は、白紙であった。
秀頼は、長いあいだ頁を見つめていた。黄金は、もう眩しくない。だが目の前の白い頁だけは、不思議と目が離せなかった。
「常安。この先は、如水が残さなんだのだな」
「……お書きになる方が、まだ現れなんだのでございましょう」
秀頼は帳面を閉じ、胸に抱えた。
「ならば、余が書く」
数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。
続きが読んでみたいと思えましたらブックマークやイイネをお願いします。
また気に入ってくださいましたら評価★★★★★を宜しくお願い致します。
執筆のモチベーションが大いに高まります!




