第55話 黄金の棺
大坂城の金庫——「大保木」の重い扉が開かれた。
松明の火に照らされた蔵の奥には、太閤秀吉が遺した巨万の黄金が壁のように聳え立っていた。
「……見よ、治長。徳川の小僧がいくら米札や普請で小細工を弄しようと、この黄金がある限り豊臣は揺るぎませぬ」
淀殿は眩い光の山を見つめ、静かに、しかし力強く言い放った。城下の米価暴騰に揺れていた大野治長も、深く頷く。
「はっ。大坂の商人が怯えるなら、堺に南蛮船を引き入れれば済むこと。南蛮人や唐人にとって、徳川の米札などただの紙片。彼らが求めるのは、太閤様が築かれたこの『本物の黄金』のみにございます」
「うむ。この金でポルトガルやイスパニアから、山のような米と硝石、最新式の大砲を買い集めよ!」
堺の商人を通じた極秘の交渉により、数日後、大坂城の裏手へ極秘に数百俵の米と硝石が運び込まれた。
「勝てる! 黄金さえあれば徳川の算盤など打ち破れる!」と湧き立つ奥御殿。
だが、その歓喜から離れた場所で、十四歳の豊臣秀頼だけは冷や汗を拭い、激しい胸騒ぎに震えていた。
(おかしい……これほど見え透いた『抜け穴』を放置するはずがない……)
同時刻。江戸城本丸、奥書院。
「上様。大坂城が堺の商人を通じ、南蛮船から米と硝石を調達いたしました」
勘定奉行・大久保長安の報告に、算盤を弾いていた徳川秀忠は静かに手を止めた。
「秀頼殿も追い詰められたか。……だが長安、直ちに長崎奉行へ命じよ。南蛮船・唐人船の寄港を『長崎』と『平戸』の二港のみに限定する。大坂や堺への寄港は一切認めん」
「はっ。……しかし上様、強引に寄港を制限し、大坂との商いを禁じれば、公儀が南蛮貿易から得る関税も激減いたします。長崎の商人や、関わりを持つ諸大名からの不満も小さくはございませぬが……」
長安の忠告に、秀忠の目が冷たく冴え渡る。
「骨を折らずに肉は斬れん。公儀の腹を痛めてでも、今ここで豊臣の息の根を止める。……長崎の南蛮商館へ伝えよ。『大坂城(豊臣)の金銀を一度でも受け取った船は、将軍の“朱印状”を即座に剥奪する』とな」
長安は息を呑んだ。
武力で船を沈めるのではない。日本での貿易許可(朱印状)というライセンスそのものを盾に取り、世界最強の貿易網を「対豊臣の制裁網」へと変えたのだ。
数日後。大坂城の奥御殿に、顔を蒼白にした南蛮商人が駆け込んできた。
「秀頼様! 平にお許しくだされ! 先日の取引、すべて取り消させてくだされ!」
商人はガタガタと震えながら、千両箱を床へ押し返した。
「な、何を戯言を!」治長が怒号を上げる。
「金ならいくらでもある! 足りぬと言うなら倍払うと言っておるのだ!」
「金の問題ではないのです!」南蛮商人は泣き叫んだ。
「公儀より厳命が下りました! 大坂城の黄金を一文でも受け取れば、我らは“朱印状”を奪われ、長崎を追い出されます! 朱印状がなければ、我が国の船は明(中国)の港へも入れず、海賊として捕縛されるのです! どれほど黄金を積まれようと、将軍家を敵に回せば我らは世界中で生きていけませぬ……!」
「馬鹿な……!」
淀殿が金縛りに遭ったように凝視する。
「徳川とて金がなければ兵も動かせぬはず! なぜそこまで金そのものを拒むのだ……! 太閤様の黄金ぞ!?」
淀殿の悲鳴のような叫びを背に、南蛮商人たちは黄金を「恐ろしい毒物」であるかのように置いて、一目散に逃げ去っていった。
静まり返った大保木(金庫)。
秀頼は、一人で暗がりの中に立っていた。
目の前には、眩いばかりの黄金の山。
「嫌だ……」
秀頼は黄金を握りしめ、ぽつりと呟いた。
「嫌だ……こんなことで終わってたまるか……! 兵もいる、金もある! 何か……何か手はないのか! 私に、豊臣に打てる手は……!」
14歳の少年としての必死の抗い。何か破綻の口実を探そうと、秀頼は大判を爪が食い込むほど強く握りしめた。
……だが、何も浮かばない。
どれほど智恵を絞ろうと、秀忠の作った「公儀の信用」が壁となって立ちはだかる。
金そのものに価値があったのではない。
「この金で買い物ができ、取引ができる」という、公儀の信用にこそ価値があったのだ。
秀忠は豊臣から金を奪わなかった。ただ、豊臣の金が使える「世界そのもの」を消し去ったのだ。
「……ふ」
握りしめた大判が手からこぼれ落ちた。
カツン、と虚しい音が暗闇に響く。
「……ハハ……ハハハ……! 見事だ……見事すぎるぞ、秀忠……!」
秀頼の目から、溢れ出た涙が黄金の表面を濡らした。
抗おうとしたからこそ、秀忠の網の目の隙のなさが痛烈に理解できてしまう。太閤の黄金は今や、買い物が一粒もできない「ただの重い黄色い石ころ」に変えられていた。
自室へ戻った秀頼は、机の上の『史記』を開いた。
垓下の戦いで追い詰められ、項羽が絶望した記述。
『軍糧すでに尽き、諸侯の兵も来たらず……』
秀頼は涙を拭い、静かに、しかし奥底に激しい炎を宿した目で江戸の空を睨みつけた。
(兵糧は絶えた。黄金は紙くずとなった。味方となるべき諸侯は徳川の借金に縛られ、海の道も閉ざされた。……まさに、四面楚歌)
秀頼は『史記』をパタンと強く閉じた。
「……ならば、城の中で飢えて死ぬつもりはない。秀忠、貴殿の算盤を……我が豊臣の刃で叩き割って見せる!」
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