第54話 終わりの始まり
慶長十年(一六〇五年)秋。
征夷大将軍となった徳川秀忠から、西国の大名たちへ一通の命が下された。
『江戸と駿府の大普請(天下普請)を命ずる。西国諸大名は割当てに従い、人夫と資材を立てて石垣および掘割の工事を急ぎ執り行え』
福島正則や加藤清正ら豊臣恩顧の西国大名たちは、その報せを聞いた当初、高をくくっていた。
「ふん、土木工事か。武力を奪えぬからと、そうやって我らの蔵の金を削る気だな、秀忠様も」
関ヶ原以降、幕府が大名に巨額の工事費を負担させて財力を削るのは世の常であった。正則らは大坂の蔵にある米を売り払って金に換え、工事に取りかかれば済むと考えていたのだ。
……だが、彼らはまだ気づいていなかった。
秀忠が仕掛けた「算盤の罠」は、単なる工事費の削り合いなどという生ぬるいものではないことを。
「……なにい!? 江戸の米が買えぬだと!?」
江戸の普請現場に着陣した福島家の勘定方が、顔を蒼白にして叫んだ。
西国大名たちが工事のために集めた人夫は数万人。彼らを食わせるための米を江戸の問屋で買い付けようとしたところ、幕府の役人が冷酷に言い放ったのだ。
『公儀の定めた“江戸米預り証(米札)”でなければ、大量の米の売買は相成らん。大坂の金銀で買いたくば、品薄ゆえ三倍の値を払ってもらう』
秀忠は事前に「東国米の持ち出し禁止」を徹底し、江戸の物流を自らの米札で完全に統制していた。
西国大名たちが持ち込んだ大坂の金銀は、東国では見る影もなく価値を減じさせられたのである。
「ええい、背に腹はかえられぬ! 大坂で米をさらに買い、江戸へ送れ! 普請を遅らせれば改易の口実にされるぞ!」
悲鳴を上げた西国大名たちは、領内の米だけでなく大坂でも米を買い、無理やり江戸へ送り集めた。
そして、この動きこそが——秀忠の狙い通りの「地獄の連鎖」を引き起こした。
西国大名たちがかき集めた山のような米は、そのまま「江戸の天下普請の糧食」として東国へ流出していく。
その結果、大坂の市場から食料である「米」が劇的に姿を消したのだ。
米がない。だが、金銀はある。
需要と供給の均衡が完全に崩壊した大坂城下で、米価は天に向かって暴騰した。
米一升を買うのに、以前の何倍もの金銀を吹き飛ばさねばならない——壮絶なハイパーインフレが大坂を直撃したのである。
大坂城、奥御殿。
「西国の大名どもめ! 豊臣を差し置いて江戸の小僧にへつらい、西国の米を東国へ流すとは何事か!」
淀殿は大野治長らを前につむじ風のように怒り狂っていた。城下の民は飢えに苦しみ、米問屋への打ちこわしが頻発している。
「治長! すぐに大坂からの米の持ち出しを禁じよ! 西国大名どもの米を力づくで差し押さえるのだ!」
「は、ははっ! 直ちに——」
「……待たれよ」
凛とした声が奥御殿に響いた。
座していた少年——十四歳の豊臣秀頼であった。
秀頼は信長譲りの切れ上がった瞳と、秀吉譲りの気品を漂わせ、冷や汗を流しながら実母を見つめていた。
「母上、差し押さえなど絶対に行ってはなりませぬ」
「なぜです秀頼! あの大名どもは豊臣の恩を忘れ、徳川へ米を差し出しているのですよ!?」
「……違うのだ、母上」
秀頼はぎりっと奥歯を噛みしめ、自室の机の上に置かれた東国の報告書を固く握りしめた。
「西国の大名どもは、徳川にへつらっているのではない。……秀忠殿の普請と米札に『破産』させられかけているのだ。ここで我らが米を差し押さえれば、大名どもは生き残るために完全に徳川の傘下へ駆け込むことになる」
秀頼の脳裏に、伏見で背筋を伸ばしていた徳川秀忠の姿が浮かび上がった。
(恐ろしい……恐ろしい男だ、徳川秀忠……!)
秀頼は天才的な閃きで、秀忠が描いた盤面の全貌を一瞬で見抜いていた。
「秀忠殿は、兵を一兵も動かしておらぬ。ただ『天下普請』という公儀の命を西国大名に与えただけだ。大名どもは己の身を守るために米を売り、その米が江戸へ流れることで、結果として西国大名自らの手で大坂の胃袋を干上がらせているのだ……!」
「な、なんですと……!?」
淀殿も治長も絶句した。
大坂城の金庫(大保木)には、太閤秀吉が残した山のような黄金がある。しかし、どれほど黄金があろうとも、市場に米がなければただの「光る石ころ」に過ぎない。
「秀忠殿は武力で大坂を囲んだのではない。……算盤と物流で、我が大坂の息の根を止めに来たのだ」
秀頼は溢れ出る冷や汗を拭おうともせず、悔しさに震えた。
秀忠の手法を誰よりも正確に理解できる天才ゆえに、その策の逃げ場のない美しさと絶望感が、秀頼の心を激しく打ちのめしていた。
同時刻。江戸城本丸、奥書院。
「……上様。西国諸大名、大坂にて米を買い漁った結果、普請の費用捻出に窮しております。その後、大坂城下の米価、前月の三倍に跳ね上がってございます」
勘定奉行の大久保長安が、満足げな笑みを浮かべて報告を差し出した。
傍らには、妻のお江が案じ気な表情で控えている。
秀忠はパチ、パチと静かに算盤の玉を弾いていた。その瞳はどこまでも澄み、冷徹な計算数値を弾き出している。
「正則も清正も、そろそろ限界か」
「は。西国大名たちからは『このままでは家臣に給金も払えず立ち行かぬ』と、悲鳴のような惨状が届いております」
「上様……」
お江が痛ましげに声をかけた。
「西国の大名たちをそこまで追い詰めてお気の毒ではありませんか。それに、大坂には千もおります……大坂城下がそれほど困窮しては、あの子まで辛い思いを……」
秀忠は静かに算盤を置くと、お江の手に優しく自分の手を重ねた。
「案ずるな、お江。千の身は必ず守る。……そして、わしは西国の大名たちを滅ぼしたいわけではないのだ」
「え……?」
秀忠は長安に向き直り、静かながらも絶対の威厳を込めて命じた。
「長安。普請に苦しむ西国大名たちへ、公儀より告げよ。『費用に困らば、幕府の米札を低利にて無制限に融資して遣わす』とな」
長安の目が大きく見開かれた。
「に、二割や三割の利息ではなく……低利にて、徳川の米札を貸し付けるとおっしゃいますか!?」
「そうだ。彼らを破滅させては戦の火種になる。……救ってやるのだよ」
秀忠はふっと口元を緩めた。
過酷な天下普請で破産寸前に追い込まれた大名たちに、秀忠が「低利の米札融資(救済金)」を差し出す。
大名たちは泣いて秀忠の慈悲に感謝し、喉から手が出るほどその米札を借り受けるだろう。
だが——その瞬間、西国大名たちは永久に徳川の「借金(金融支配)」から抜け出せなくなる。
金も米も徳川に握られた大名たちは、もはや豊臣がどれほど金を積もうと、絶対に豊臣へ味方することができなくなるのだ。
「武力で脅しても心は服さぬ。だが、算盤と安心で縛れば、人は自ら公儀に従う」
秀忠は静かに立ち上がり、遠く西の空を見つめた。
「大坂城の金銀が完全にただの石ころとなり、秀頼殿が自ら『公儀の米』を乞うてくるまで……この算盤の手を緩めるわけにはいかぬ」
城を壊すのは、大砲でも兵の叫びでもない。
秀忠の手の中でパチリと響く、ただ一筋の算盤の音であった。
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