第52話 通貨の覇権 —米札と金銀の罠—
慶長九年(一六〇四年)夏。
江戸城本丸の奥深くに置かれた勘定所の一室には、重苦しい静寂と、どろりと熱い白煙が充満していた。
部屋の中央に置かれた文机の上には、二つの「富」が並べられている。
一つは、大坂城の蔵から溢れ出た豊臣の「大坂大判」と、生前の如水が西国の大名・豪商へ貸し出させ、今も流通する高純度の「大坂金手形」。ずっしりと手になじむ重厚感と、眩いばかりの純金の輝き。黒々とした墨で豊臣家の署名と印が躍り、まさに天下の権勢を形にしたような代物であった。
特にもう一つ——。
机の上にそっと置かれたのは、素っ気ないほどに薄く小さな「一枚の紙切れ」であった。
「……若。大変申し上げにくいのでございますが、このような『紙切れ』が金銀の代わりになるとは、到底思えませぬ」
絶句していた江戸金座の棟梁・後藤庄三郎光次が、絞り出すような声で言った。額には嫌な汗が浮いている。
「大坂は、如水公が残された膨大な金銀を背景に、高純度の金貨と手形を西日本中に巡らせております。それに比して、この紙片……『江戸蔵預り証』と書かれておりますが、金の裏付けもなしに大名や商人が受け取るはずがございませぬ。大坂に見られれば、失笑を買うだけにございます!」
「笑わせておけ」
文机から顔も上げず、帳面に筆を走らせていた徳川秀忠が、淡々と言い放った。
秀忠は筆を置くと、庄三郎の手元にある紙切れを見つめた。その瞳には、芸術的な美や金を愛でる色など微塵もない。あるのは、冷徹な計算と「仕組み」への執着だけであった。
「庄三郎。お前や大坂の者どもは、未だに根本的な勘違いをしている。『金銀という金属そのもの』に価値があるのだとな」
「……は? 金銀の重さで価値が決まるのは、古今東西の理にございますが……」
「それは貨幣ではない。『ただの鉱物』だ」
秀忠は立ち上がり、大坂の金手形と、自らの『米預り証』を指で交互に突いた。
「金や銀は、鉱山から掘り出せばいつかは枯渇する。そして重く、持ち運びに困り、取引のたびに天秤で重さを秤り、端数を削り落とす……そのような不便な代物で、これからの膨大な天下の物流が回ると思うか? 貨幣とはな、金属の重さではない。『利便と、絶対的な信用の裏付け』なのだ」
秀忠は庄三郎の目を見据えた。
「この紙片には『本札一枚につき、江戸の米蔵にて米一石と引き換える』と明記してある。幕府がその引き換えを絶対的に保証する。もちろん、慶長小判などの金貨・銀貨も順次鋳造して巡らせるが……庄三郎、それら金属貨幣の価値の根底すら、すべて我が徳川の『米札』に連動させる」
「金貨の価値すら、米札に……でございますか」
「そうだ。これまで民が使ってきた『貫』や『文』という不揃いな銭の単位、さらには店ごとに相場が異なる銀の目方を全廃する。これからの日本の価値の基準は、この米札が示す『両』だ。金銀の重さではなく、米の価値を基準として天下の単位を『両』に統一する」
同席していた本多正信の目が、すっと細められた。
「……金銀ではなく、『米』を本位といたしますか」
「そうだ、佐渡守。金銀は腹を満たさぬ。だが米は、天下の誰もが毎日食べる。そして我が徳川には、利根川を付け替え、関八州を開墾して手に入れた『毎年無限に湧き出る東国の巨大な米蔵』がある。金銀は掘り尽くせば終わるが、米は土と水がある限り未来永劫実り続けるのだ」
秀忠は薄く微笑んだ。
「大坂の秀頼らは、我が作らせたこの『紙の札』を見て、徳川は金が底をついて紙切れを刷り始めたと腹を抱えて笑うだろう。……それでいい。高笑いさせておけ。金のかたまりを抱え込んで首が回らなくなるのは、向こうなのだからな」
数ヶ月後。
秀忠の予測は、完璧な形で現実となった。
大坂城の奥御殿。
豊臣秀頼の前に並べられたのは、密かに江戸から持ち込まれた徳川の「江戸米預り証(米札)」であった。
「……ハハハハ! なんと滑稽な!」
秀頼は金箔の絢爛たる扇を叩きつけ、豪快に笑い飛ばした。
「紙切れ一枚で米と引き換えるだと? まるで子供のままごとではないか! 如水が遺した通り大坂の金をばら撒いてやったが、徳川秀忠め、金すら尽きてついに紙くずを刷り始めたと見える!」
「正しくにございますな! 秀頼様、このような安物の紙くず、大坂の市場では誰も使いませぬ!」
重臣たちが嘲笑を響かせる中、如水の遺策を取り仕切っていた側近——大野修理亮治長だけは笑わなかった。
手に取った素っ気ない紙札を見つめ、ふと笑いを収めると、その顔から急速に血の気が引いていく。
(……待て。秀忠はそれほど愚かか? 如水様が死に際に残された真の教えは、単に金を撒くことではない……『金を動かすことで、天下の物流そのものを掌握せよ』ということだったはずだ。もし、徳川が金の価値ではなく『実物米の供給』そのものを押さえていたとしたら……!?)
治長の額から、ツッと一筋の冷や汗が流れた。
(……豊臣には、自前の直轄米が圧倒的に足りぬ……! 秀忠は利根川を付け替え、関八州を巨大な米の工場に変えた。大坂の蔵にあるのは金銀ばかり。米札に対抗して実物米を集めようとすれば、手持ちの金銀を市場に放出して米を買い集めるしかない。だが、それをすれば大坂の街に金が溢れ返り、物価が跳ね上がるだけだ……! 秀忠め、金の重さではなく『腹を満たす実物』で、豊臣の金脈を絞め殺す気か……!?)
その危惧通り、大坂の商人たちの動きは劇的であった。
大坂の豪商・淀屋の蔵屋敷。
夜陰に紛れて、西国の豪商や大名たちの使者が次々と訪れていた。彼らが求めていたのは、大坂の重々しい金銀ではなく、徳川の「米札」であった。
「……大坂の金銀は、重くて持ち運びに困る上に、目方(相場)が毎日変わって商いが進まぬ」
「徳川様の『米札』なら、一枚出すだけで一瞬で支払いが終わるのだ。しかも、江戸へ持っていけば確実に米と引き換えられる!」
「西国の『貫目』の取引など、遅くてやっていられん。これからは『両』と『米札』の時代だ!」
商人たちの間で、徳川の「米札」は爆発的な勢いで浸透していった。
軽くて持ち運びやすく、価値が明確で、何より「東国の圧倒的な米蔵」という絶対の信用(裏付け)がある。
金銀という富を誇るがゆえに米本位制へ移行できない豊臣の金銀経済は、利便性と構造の差により、徳川の「米札」に足元から食い荒らされ始めたのである。
江戸城・書院。
「若、大坂から報告が届きました」
本多正信が、笑みを噛み殺しながら報告する。
「大坂の金手形を嫌い、商人どもが我が『米札』を買い求めて争っておる模様。大坂では金ばかりが余り、物価が跳ね上がる兆候が出始めております」
「……始まったか」
秀忠は静かに文机の引き出しを開け、あらかじめ準備されていた「別の布告文書」を取り出した。
「佐渡守。次の手を打つ」
「次の手、とは……?」
秀忠の目が、氷のように冷たく光った。
「東国から西国への『米の持ち出し(物流)』を、全面停止する」
翌週、大坂の市場は未曾有のパニックに包まれた。
東国からの米の途絶が伝わるや否や、米問屋の前には膨大な群衆が殺到し、米の価格は一夜にして三倍へ跳ね上がった。
焦った豊臣の役人が「大坂大判」の金塊を積み上げても、米屋の亭主は首を横に振るばかりであった。
「……お役人様、いまさら金銀など積み上げられても、米は一合も売れませぬ。米が欲しけりゃ、徳川様の『米札』を持ってきてくだされ!」
黄金の輝きが、腹を満たせぬ「ただの黄色い石コロ」へと成り下がった瞬間であった。
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