第51話 竹千代誕生
慶長九年(一六〇四年)七月。
江戸城本丸の奥深く、産室からあがる産声が、夏の湿った空気を切り裂いた。
「——男子にございます! 元気な男児にございます!」
産婆の叫び声に、江戸城全体が揺れるような歓声に包まれた。
徳川秀忠の嫡男——後の三代将軍となる竹千代(家光)の誕生であった。
産床に横たわる江は、汗に濡れた髪を額に貼り付けながら、愛おしそうに我が子を抱きしめていた。
前年に長女の千姫が大坂の豊臣秀頼のもとへ嫁ぎ、心にぽっかりと穴が開いていた江にとって、この命は神仏からの最大の授かり物であった。
「……竹千代。私の可愛い竹千代……」
文机の前で静かに筆を走らせていた秀忠が、あやあやと歩み寄ってくる。
その顔には、一人の父親としての柔らかい笑みが浮かんでいた。
「ご苦労であった、江。見事な男児だ」
「上様……お願いがございます」
江は竹千代を愛おしく見つめたまま、真剣な眼差しで秀忠を見上げた。
「この子は……この竹千代だけは、私の手元で育てさせてくださいませ。乳母などに任せず、私がこの手で慈しみ、育て上げたいのです」
「……母の手で、か」
秀忠が眉をかすかに動かした。江は意を決したように言葉を重ねる。
「大坂のお姉様(茶々)も、秀頼様をご自身のお手元で慈しみ、誇り高くお育てになりました。私もあのように……徳川の嫡男にふさわしい、温かい情を持った子に育てたいのです」
その瞬間——。
秀忠の目から、父親としての温もりが急速に失われた。
「大坂の茶々」という名が出た途端、秀忠の頭の中で冷徹な計算機(算盤)が弾かれたのだ。
(……秀頼公がどれほど優しく育とうと、あの溺愛と血統主義が豊臣という組織を歪めた。個人の『情』に頼る育て方は、人間を甘やかし、家を滅ぼす……)
前年、大坂城の金箔を見て「ただの飾りに金を寝かせるのは勿体ない」と言い放った幼き千姫の顔が脳裏をよぎる。
大坂の「情と血統」の教育が何を生むか、秀忠は知り抜いていた。
「……ならぬ」
秀忠の声は、氷のように冷たかった。
「竹千代は、単なる我が子ではない。『徳川という天下の構造』を永久に動かすための、三代目の歯車だ。私情で育てるわけにはいかん」
「上様……!? なぜでございますか! 母が子を育てるのが、なぜ……!」
江の悲鳴のような抗議を無視し、秀忠は静かに身を起こした。
「竹千代には、最高の環境を与える。……乳母の選定に入る」
数日後、江戸城の一室。
秀忠の前にひれ伏していたのは、三十半ばの気品と凄みを纏った一人の女性であった。
お福——後に春日局と呼ばれる、落ちぶれた明智光秀の重臣・斎藤利三の娘である。
夫である稲葉正成と離縁し、不遇のどん底にあったお福を召し出したのは、本多正信の推薦ではなく、秀忠自身の「人事計算」であった。
秀忠はお福を見下ろし、淡々と言い放つ。
「お福と言ったな。お前に求めるのは『母性』ではない。この子を、私情に流されず徳川の法と規律を体現する『絶対の三代目』に育て上げる教育者としての能力だ」
「……教育者、でございますか」
お福は一瞬目を丸くしたが、すぐに秀忠の意図を察し、深く平伏した。
「恐れながら、上様。大坂の豊臣家は、太閤様の個人的な威光と、淀殿様の溺愛によって成り立っております。それゆえに脆い。……わたくしが預かりますからには、朝廷の教養、武家の威厳、そして幕府の法を叩き込み、大坂の如き『情と血』に狂わぬ、不沈の将軍に育て上げてみせます」
「……良い答えだ」
公家(三条西家)の血を引き朝廷のルールを知り尽くしながら、敗者の子として後がないお福。
組織を裏切るリスクが最も低く、圧倒的な危機管理能力を持つこの女こそ、徳川家の系譜を維持するためのピースとして完璧であった。
「本日より、竹千代の教育一切を命じる」
その決定が下された日、江は竹千代が連れ去られた誰もいない部屋で、赤子の着物を抱きしめたまま崩れ落ちた。
『お前は徳川の歯車だ』——夫の冷酷な言葉が、何度も脳裏を打ち抜く。
「……なぜ……なぜでございます、上様! 千を大坂に奪われ、この竹千代まで私から引き剥がすのですか……!」
溢れ出る涙で着物を濡らしながら、江は暗闇の廊下を見つめた。
竹千代を抱くお福の、隙のない凛とした立ち姿。自分の母性を「大坂の毒」のように切り捨て、冷たい『法と規律』で我が子を染め上げようとするあの女。
我が子を奪われたという母の激しい怨嗟と無念は、涙からやがて冷たい刃のような敵意へと変わり、お福との間に決して埋まらぬ深い亀裂を刻んだ。
江戸城の「奥」に、永続的な緊張感が生まれた瞬間であった。
深夜。
秀忠は、お福の腕の中で静かに眠る竹千代の顔を覗き込んだ。
江の涙、お福の覚悟——すべてが徳川という巨大な国家機構の歯車として組み込まれていく。
文机に戻った秀忠は、算盤の玉をパチリと弾いた。
「竹千代、お福……これ内々での『徳川の継承』の仕組みは整った」
秀忠の目が、西の空——大坂の方向へ向けられる。
「次は……外だ。如水が大坂に遺した毒を消し、大坂の金を紙くずへ変える手を打つ」
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