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銭将軍秀忠、金庫番からの成り上がり  作者: エピファネス
第5章 双京の軋轢編

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幕間 東西無双

 慶長七年(一六〇二年)十月。肥後国清水の静かな寒村。


 薄暗い部屋に、かすかな息遣いだけが響いていた。


「……殿。どうか立花のことは忘れ、生きて……」


 病床の妻・誾千代(ぎんちよ)は、細く痩せた手で尚政(後の宗茂)の袖を握りしめ、そのまま静かに息を引き取った。三十四歳の若さであった。


 かつて筑前立花山の城主・戸次道雪の娘として男勝りに武装し、関ヶ原の折には自ら鉄砲隊を率いて柳川を守り抜いた気高き妻。その冷たくなった手を抱きしめ、立花尚政は静かに目を閉じた。


 数日後。誾千代の弔いを終えた尚政は、一人部屋に籠もり、研ぎ澄まされた愛刀を抜き放った。


 刃を己の腹へと向け、ゆっくりと力を込める。

(豊臣への義理は関ヶ原で果たした。気高き妻も逝った。改易され、領地を失ったワシの武士としての務めは、もはやここで終わりだ……)


 その瞬間、破障子の音とともに数人の男たちが雪崩れ込んできた。


 家老の由布惟信(ゆふ これのぶ)が、素手で尚政の刀の刃を鷲掴みにする。鋭い刃が手のひらを裂き、鮮血が飛び散った。


「……殿ッ! 何をなさいますかッ!」


「どけ、惟信! 邪魔をするな!」


「死んではなりませぬ! 我らをお見捨てなさるか!」


 由布惟信や十時連貞ら、改易されて泥をすするような浪人暮らしになっても、尚政を見捨てずにつき従ってきた忠臣たちが、床に伏して号泣した。血まみれの手で尚政の膝を抱え込み、惟信は叫んだ。


「我らが今日まで泥を喰み、物乞い同然の暮らしに耐えてきたのは何のためか! 一偏の誇りのためではございませぬ! 再び殿が天下に立ち上がり、立花家を再興する日を信じておるからにございます! 我らに……我らに糧(飯)を食わせるお覚悟がないとおっしゃるか!」


「惟信……」


 血を流しながら訴える家臣たちの姿に、尚政の手から刀が崩れ落ちた。


 己の誇りのために死ぬことなど容易い。だが、自分を信じてついてきてくれた者たちの腹を満たし、生き直させることこそが、残された己の責務なのだと、尚政は泣き崩れた。


 その直後、尚政の身柄を引き取っていた熊本城主・加藤清正の陣屋。


 清正は熱い湯気を立てるお茶を尚政の前に差し出し、骨太な顔を歪めて言った。


「尚政。前田の利長殿やこのわしからの『客将となれ』という誘い、なぜ断った?」


 尚政は静かに首を振った。


「清正殿や加賀の前田殿が、関ヶ原の敗将であるワシを庇護しているだけでも、幕府からは警戒の目で見られよう。これ以上、貴殿らに余計な重荷をかけるわけにはいかぬ」


「お前という男は……」


 清正はため息をつき、懐からずっしりと重い路銀の袋を取り出して叩きつけた。


「ならば、江戸へ行け。徳川と直接向き合い、己の力で道を切り拓け。幸い、江戸にはお前と並び称された『あの男』がおる」


「……本多平八郎殿か」


「そうだ。『東の本多、西の立花』と太閤殿下に謳われた本多忠勝殿だ。あの男なら、お前の武名と矜持を絶対に無駄にはせん。幕府への橋渡しとなってくれよう」


 慶長九年(一六〇四年)秋。江戸・本多忠勝の屋敷の道場。

 静寂の中、二人の男が対峙していた。

 一人は、天下無双の銘槍「蜻蛉切(とんぼきり)」を身構える本多平八郎忠勝。


 もう一人は、素槍を静かに構える立花尚政であった。


 挨拶も、言葉の交わしすらもない。

 忠勝がすっと足を踏み出し、蜻蛉切の穂先を尚政の喉元へと突き出す。空気の裂けるような鋭い一閃。

 尚政は瞬時に体を沈め、素槍の柄でその一撃を受け流すと、間髪入れずに忠勝の側腹へ槍柄を打ち払った。

 ガキィィン! 金属の激しい打撃音が道場に響き渡る。

 互いに槍を交え、間合いを詰め、刃を削り合わせる。十数回に及ぶ無言の打ち合い。そこにはただ互いの誇りと「武」の技量を確かめ合う、高潔な気の交錯だけが存在していた。


 ピタリと、両者の槍が空中で止まる。

忠勝の蜻蛉切の刃先と、尚政の槍先が寸分の狂いもなく接したまま、両者は静かに槍を引いた。


 道場の濡れ縁で見つめていたのは、老謀の政治家・本多正信であった。

正信は細い目をさらに細め、干し柿のような顔に笑みを浮かべた。

(……関ヶ原で敗れ、改易され、落ちぶれたかと思えば、その眼光に迷いも曇りも一切ない。腹を括り、我が身を捨てて家臣を生かす覚悟……本物よ)


 正信は静かに立ち上がり、尚政に向かって小さく頷いた。

「平八郎殿、仕官の検分はこれで十分でしょう。……若様(秀忠)への御目見得、仕掛けさせていただきます」


 江戸城本丸・奥書院。


「若様。どうしてもお引き合わせしたい男がおります」

 文机に向かう徳川秀忠の前に立ったのは、本多忠勝であった。珍しく熱を帯びた忠勝の言葉に、秀忠は顔を上げた。


「……平八郎がそこまで言うか。何者だ?」


「西国無双の将……立花尚政にございます。いま、別室にお控えいただいております」


 秀忠の目の色が変わった。

関ヶ原で西軍に与し、徳川を大いに苦しめた屈指の豪将。秀忠は文机の上に置かれた、大坂から届いた豊臣の「大坂金手形」と、自らが全国へ発給し始めた「江戸米預り証(米札)」を一瞥すると、静かに言った。


「通せ」


 障子が開き、秀忠の前に尚政が静かに座した。

 落ちぶれた浪人の影など微塵もなく、その眼光は静かに澄み渡っていた。


「面を上げよ。……関ヶ原以来だな。其方が江戸に来てくれたこと、重々嬉しく思うぞ」


「……関ヶ原にて敵対いたしましたこの罪人に対し、このような手厚いお召し出し、恐悦至極にございます」


 深く頭を下げる尚政に対し、秀忠は首を振った。


「罪人などと言うな。父上(家康)も常々申しておる。『立花殿ほど義理堅く、武勇に秀でた将は天下に二人とおらん』とな。関ヶ原の折、其方が石田方に就いたのも、豊臣への義理ゆえの儀。武士として当然の道筋であったと、我らはよく分かっておる」


「……過分なお言葉、身に余ります」


「単刀直入に問う。大坂の秀頼公や淀殿からは、膨大な金銀とともに『大坂へ迎えたい』との便りが届いていたはずだ。なぜ大坂へ赴かず、関ヶ原で牙をむいた我が徳川の呼び出しに応じたのだ?」


 秀忠の問いに、尚政は背筋を正し、まっすぐに見据えて答えた。


「……お答えいたします。豊臣家への恩義は、関ヶ原の陣にて己の命を賭して果たし尽くいたしました。いま拙者が背負っておりますのは、泥を喰らいながらも拙者につき従ってきた家臣たちの命と、立花という家の存続にございます」


「ほう……」


「大坂の金銀は戦を呼ぶ金に過ぎませぬ。すでに天下の趨勢は徳川様にあり。これ以上、虚しい戦に家臣を巻き込むわけにはまいりませぬ。なにより……関ヶ原の敗将たる拙者に対し、本多殿らは誠意をもって立ち会って頂き、召し出してくださった徳川様の『お覚悟』と『義』に、武士として応えたいと存じた次第にございます」


 静寂が部屋を支配した。

 秀忠はじっと尚政を見つめていたが、やがて深く頷き、立ち上がった。


「よくぞ申した。……実はな、尚政。わしもまた、其方を切実に必要としておるのだ」


 秀忠は尚政の目の前まで歩み寄ると、膝をついて目を合わせた。


「我が徳川は天下を治める仕組みを固めつつある。だが、どれほど仕組みを整えようと、それを支える『武の真髄』と『矜持』がなければ人はついてこぬ。関ヶ原では勝ちはしたものの、わしには実戦を知り抜き、天下にその武名と義心を響かせた其方の力……我が軍事の師であり、徳川を支える柱石となってくれる存在が必要なのだ」


「秀忠様……」


「お前にまず幕府の御相伴衆として知行を与え、近く陸奥棚倉一万石の大名として迎え入れる」


 そこまで言うと、秀忠は少し表情を緩め、尚政の肩を強く叩いた。


「……そしてな、尚政。一つ頼みがある」


「ハッ、何なりと」


「その『尚政』という名を、捨ててはくれぬか」


 尚政は一瞬、驚きに目を見張った。秀忠は言葉を続ける。


「尚政とは、改易され、浪人となって身を潜めるために名乗っていた名であろう。過去の罪や敗北に縛られた名は、今日限りで終わりにせよ。新たな名は『宗茂』でどうだ?……我が徳川の世で、かつて太閤殿下や我が父を唸らせた『西国無双・立花宗茂』として、再び天下にその名を轟かせるのだ。其方が『宗茂』として胸を張って生きることが、西国の大名どもへの何よりの示しとなり、徳川の平和を盤石にする」


 秀忠の真摯な眼差しと、自分という人間を過去ごと丸ごと引き受け、引き上げようとする熱意。


 尚政——宗茂の目から、溢れ出る涙が畳を濡らした。


「……感銘に堪えませぬ。秀忠様!この立花宗茂、徳川の世と将軍様のため、この命を粉骨砕身捧げる所存にございます!」


 宗茂は深く、深く額を畳に擦り付けた。

 同席していた本多忠勝は満足そうに深く頷き、本多正信は静かに扇子を閉じて笑みを浮かべた。


「頼むぞ、宗茂。真の平和を告げる最後のピースが、これで嵌まった」


数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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西の完璧超人が立花宗重なら、東の完璧超人は真田信之だと思うの・・・ 本多忠勝つながり(真田信之の正妻は、本多忠勝の養女である稲姫)もあるし・・・
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