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銭将軍秀忠、金庫番からの成り上がり  作者: エピファネス
第5章 双京の軋轢編

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幕間 奥の冷戦

 慶長六年(一六〇一年)冬 江戸城・奥御殿

 江戸城の奥深くに置かれた正室・江の居室は、表の喧騒から取り残されたかのような静寂に包まれていた。


 庭の椿に白い初雪が落ちる音すら聞こえそうな静もりの中、江は文机に向かい、固く拳を握りしめていた。


(側室・小姫が……男子を産んだ……)


 脳裏を離れないのは、城内を駆け巡ったあの歓声である。


 秀忠の長男・長丸の誕生。すでに千姫と珠姫というふたりの姫を産んでいた江にとって、自分より先に側室が男子を産んだという事実は、正室としての矜持を根底から揺さぶる出来事であった。


「奥」の侍女たちの眼差しが、どこか哀れみを含んでいるように感じられる。表向きは祝いの言葉を述べつつも、「正室でありながら未だ男子を産めぬ」という無言の圧力が、江の胸を力任せに押し潰そうとしていた。


 そこへ、側近の侍女が緊張した面持ちで一封の文を慇懃に差し出した。


「……お方様。大坂城の淀の方様より、極秘の文が届いてございます」


 江は息をのみ、文を受け取った。

 大坂城を統べる実の姉——淀殿(茶々)。浅井三姉妹として共に苛烈な戦国を生き抜いてきた血を分かち合う姉からの便りであった。


 封を切り、文を開くと、そこには美しい筆跡で姉の心中が綴られていた。


『……江戸にて秀忠殿の側室が男子を産んだと聞き、妹の其方がどれほど胸を痛めているかと思い、筆をとりました。

 其方は浅井の血を受け継ぎ、天下人・織田信長公の姪にあたる誇り高き正室。にもかかわらず、側室の子に長男の座を奪われるなど、忍びがたき屈辱でありましょう。

 大坂の秀頼も、徳川の「正嫡」が誰になるかを注視しております。徳川が正嫡の別を曖昧にし、側室の子を立てるようであれば、天下の秩序は乱れましょう。

案ずるな、江。其方が真の徳川の跡取り(男子)を産むその日まで、姉として大坂より其方の立場を支え続けます……』


 一見すると、妹の立場を案じる優しさに満ちた文面であった。


 だが、江はその文の裏に潜む「毒」を瞬時に見抜いた。

(姉様……。妹を案じる振りをしながら、徳川の奥を揺さぶろうとしておられるのだわ……)


 側室の子・長丸の誕生を利用し、江の焦燥感を煽って徳川内部に嫡庶抗争の種を撒く——。大坂の豊臣(そして裏で糸を引く如水)の冷徹な政治的意図が、手紙の行間から滲み出ていた。


「姉様……わたくしを大坂の都合で踊らせようとお思いか……」


 江が震える手で文を握りしめたその時、襖が静かに開いた。


「江」


 入ってきたのは、秀忠であった。

 秀忠は江の手に握られた文と、青ざめたその表情を一目見ると、すべてを察したように静かに江の前に腰を下ろした。


「……大坂の姉上からの便りか」


「……御前様」


 江は咄嗟に文を隠そうとしたが、秀忠は優しく首を振った。


「隠さずともよい。小姫が長丸を産み、そなたが正室としてどれほどの重荷と焦りを背負っておるか……わしは分かっておる」


「御前様……わたくしは……正室でありながら、未だ上様に男子をお授けできず……」


 溢れ出そうになる涙を必死に堪える江の手に、秀忠の温かく力強い手が重なった。


「思い詰めるな、江。……わしと父上の心は、すでに決まっておる」


 秀忠はまっすぐに江の目を見つめ、静かに、しかし揺るぎない声で語りかけた。


「小姫の産んだ長丸は、いずれ常真(信雄)殿の織田家を継がせる。長丸は織田の当主とし、信雄殿を大名として復帰させるのだ。……長丸が徳川の家督を狙うことは、万に一つもない」


「長丸様が……織田の家を……?」


 江は目を見開いた。


「そうだ。我が徳川の家督を継ぐのは、正室である『そなたの産む男子』ただ一人だ。これだけは、どれほど大坂が揺さぶろうと、皆がどのような声を上げようと決して揺るがぬ徳川の『法度』である」


 秀忠の言葉に、江の胸を苛んでいた暗雲が一気に晴れ渡っていくようであった。

 長丸を織田家へ出すことで徳川の正庶の別を完璧に保ち、信雄を救い、大坂の牽制をも跳ね返す——秀忠のあまりに見事な決断と、妻である自分への深い配慮。


「秀忠様……」


「だから江よ、大坂の姉上の揺さぶりに心を乱されるな。そなたは堂々と徳川の正室としてどっしりと構えておればよい。わしとそなたの間の子が、いずれこの泰平の世を継ぐのだから」


 江は深く頭を下げ、涙を畳に落とした。それは焦りの涙ではなく、夫への絶対の信頼と覚悟の涙であった。


 江は文机の上の淀殿からの手紙を取り上げると、迷いなく炭火の鉢の中へとくべた。


 揺らめく炎が手紙を包み込み、大坂の意図は黒い灰となって消えていった。


「はい……。わたくしは徳川の正室として、上様と共に歩んでまいります」


 大坂城の影が落ちる奥御殿で、正室・江は静かに覚悟を固め、未来の「徳川の正嫡」を産み育てるための強い母へと脱皮を遂げるのであった。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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