第46話 常真の涙と新しい血
慶長六年(一六〇一年)冬 江戸城・奥
江戸の街に初雪が舞い散る寒気の中、江戸城の本丸奥御殿は、今までにない独特の緊張感と熱気に包まれていた。
「お産婆様! 湯の用意が整いました!」
「落ち着け、足を滑らせるなよ!」
廊下を慌ただしく行き交う腰元たちの足音が響くなか、徳川秀忠は落ち着かない様子で部屋の外を何度も行き来していた。
奥で産所に入っているのは、秀忠の側室・小姫——織田信雄の娘であり、織田信長の孫にあたる姫である。
部屋の隅では、小姫の父であり、今は「常真」と号して隠居の身となっている織田信雄が、数珠を握りしめたまま祈るように座していた。
「……息子殿。どうかどっしりとお構えくだされ。右府(信長)様の血をひく小姫が、そう易々とくたばるものではございませぬ」
言葉とは裏腹に、信雄の手のひらは冷や汗でぐっしょりと濡れている。小牧長久手戦の後処理において織田家は領地を失い、ただの徳川の客分として甘んじていた。この江戸城で、我が娘が産む子の存在こそが、織田の血を未来へ繋ぐ唯一の希望であった。
その時——。
「おぎゃあ! おぎゃあ!」
静寂を破り、凛とした元気な赤子の産声が奥から響き渡った。
襖が勢いよく開き、産婆が笑みを浮かべて駆け出してくる。
「若殿! 常真様! おめでとうございまする! 誠に凛々しき……男子にございます!」
「男……! そうか男か!!」
秀忠の顔が一気に緩み、安堵と歓喜がその表情を包み込んだ。秀忠は産婆の制止も聞かず、すぐに産所へと足を踏み入れた。
そこには、汗に濡れた髪を額に貼り付けながらも、柔らかく微笑む小姫の姿があった。その腕の中で、真っ赤な顔をした小さな赤子が力強く手足をバタつかせている。
「……小姫。でかしたぞ」
秀忠が側により、温かい手を小姫の肩に置いた。
「ご覧くださいませ。父上や織田の血を引く、強い子にございます」
「ああ……実に見事な顔立ちだ。わしとそなたの子……長丸と名付けよう」
その光景を、一歩引いた廊下の陰から見つめていた織田常真(信雄)の膝が、ガクガクと震え出した。
(男子……。織田の血を引く男児が、徳川の長男として生まれたのだ……)
常真の目から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
かつて父・信長が天下を目前にして本能寺に倒れ、自身は秀吉に弄ばれ、小牧・長久手や小田原の陣で愚鈍を演じ、生き延びることだけを考えてきた。世間からは「うつけの息子」「織田を潰した凡愚」と蔑まれ続けてきた男である。
だが、その男が泥をすする思いで守り抜いてきた「命の糸」が、今、秀忠の長男・長丸という確かな形となって結実したのだ。
そこへ、報せを聞きつけた徳川家康が、本多正信を伴って大股で歩いてきた。
「おお! 生まれたか!」
家康は部屋に入ると、赤子の顔を覗き込み、破顔した。
「ハハハ! これは良い顔をしておる! 秀忠、小姫、ようやった!」
家康はそっと長丸を抱き上げると、廊下で泣き伏している常真へ視線を向けた。
「常真殿。顔を上げられよ。……見よ、この子の目を。信長公の面影があると思わぬか?」
常真は拭っても拭っても溢れ出る涙を袖で拭い、顔を上げた。
「内府様……。ありがたき幸せにございます……。我が娘が……織田の血が、こうして形となりましたこと……亡き父上も、きっと泉下で喜んでおりましょう……」
家康は温かい眼差しで常真を見つめた後、ふと表情を引き締め、秀忠と正信、そして常真を別室へと促した。
人払いをされたしんとした書院で、家康は静かに語り始めた。
「……常真殿、良いか。喜びの水を差すわけではないが、我が徳川の『家督』について話しておかねばならぬ」
「家督……でございますか?」
「左様。小姫殿は側室。そして、我が徳川の正室は江殿じゃ。……いずれ江殿から男子が生まれれば、その者こそが徳川の家督を継ぐ『正嫡』となる。いくら長丸が長男であり、信長公の血を引いていようと、ここを曖昧にすれば将来、徳川の家を割る大騒動の火種となる」
常真は息をのんだが、深く頷いた。
「……重々、承知しております。我が織田の二の舞を踏ませる気はございませぬ。正庶の別は、武家の厳格なる法度にございます」
「うむ。聞き分けが良くて助かる。……だがな、常真殿」
家康の口の端が、フッと柔らかく綻んだ。
「わしは、信長公の血を引くこの長丸を、単なる影の庶子として終わらせる気は毛頭ない。……江殿に正嫡が生まれた暁には、この長丸に『織田の家督』を継がせる」
「……なっ!?」
常真は目を丸くした。
「長丸に……織田の家督を!?」
「そうだ」と、秀忠が深く頷き、前に進み出た。
「義父上。長丸には将来、織田家の当主となっていただきます。長丸が織田を継ぐとなれば、『名門・織田家』に相応しい一国一城の所領を給わねばなりませぬ。……つまり、義父上。あなたを大名として復帰させ、長丸が育つまでの後見となっていただく」
正信もニヤリと笑みを浮かべた。
「秀忠様の長男が継ぐ織田家となれば、一門衆も同然。徳川を外から強力に支える最強の守り刀となりましょう。さらには『織田の正統な家督は徳川と共にあり』と示すことで、大坂の豊臣に対する強烈な牽制ともなりまする」
常真は絶句した。
単に娘が子を産んだというだけではない。徳川の長子相続の秩序を守りつつ、我が孫が名門・織田家の正式な当主となり、自身も大名として劇的な復活を遂げる——徳川家康・秀忠父子の、完璧にしてあまりに温かい政治的配慮であった。
「内府殿……秀忠……! そこまで……そこまで織田の家を考えてくださっていたとは……!」
常真は畳に伏し、今度は感謝の涙をボロボロと畳に染み込ませた。
「義父上」
秀忠は常真の肩を叩き、力強い目で言った。
「大坂の如水殿は、堂島で先物と利息の罠を仕掛け、我が徳川の割符を叩き潰そうとしております。ですが……どれほど大坂が金の力で揺さぶろうと、我らには揺るぎない『家と血脈』、そして街道を巡る『仕組み』がございます」
秀忠は別室から聞こえる長丸の健やかな産声に耳を澄ませながら、静かに、しかし断固とした口調で結んだ。
「この長丸や、これから生まれる我が子らが育ち、大人になる頃には……武力や金銀の奪い合いで人が死ぬ世を完全に終わらせてみせます。織田の血を引く長丸と共に、刀ではなく算盤と仕組みで治める泰平の世を築くことこそ、私の勤めにございます」
常真は、目の前の若い義理の息子——秀忠の中に、父・信長の持っていた「革新の気概」と、家康の持つ「執念の忍耐」が静かに融合しているのを感じた。
大坂城で如水が膨らませる「金の猛威」に対し、江戸城では「新たな命」と「未来への仕組み」、そして「織田家再興の絆」が着実に根を張り始めていた。
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