第44話 金銀なき東国の船出
慶長六年(一六〇一年)夏 江戸城・書院
論功行賞の熱狂が去り、天下の諸大名がそれぞれの領国へと散っていった江戸の街に、夏の青々とした日差しが降り注いでいた。
伏見から江戸へ戻った徳川家康は、文机に広げられた関ヶ原後の論功一覧と、勘定方から提出された膨大な金銀出納帳を交互に見比べながら、重々しい溜め息を吐いた。
傍らには、代官頭・大久保長安と本多正信が控え、控書の算盤を弾いている。
「……長安。小判の鋳造、まことに間に合わぬのか」
家康の低く重い問いかけに、長安は額を畳に擦り付けんばかりにして頭を下げた。
「……恐れながら、殿。関ヶ原の論功にて東軍の大名どもへ撒いた金銀に加え、江戸の町割り、街道の整備、利根川の普請にと莫大な金銀を吐き出しました。……手元の原石が、圧倒的に不足しておりまする」
「佐渡や石見から掘り出せば済む話ではないか!」
「……それが、叶いませぬ」
長安は苦々しい表情で顔を上げた。
「佐渡金山、石見銀山、生野銀山……それら天下の主要鉱山は、関ヶ原の約定により未だ『豊臣家蔵入地』として大坂の管理下にございます。我が方が強引に手を伸ばせば、即座に『約定違反』として大坂より咎められ、西国大名どもが揺らぎまする」
家康の顔に、苦い影が落ちた。
関ヶ原で西軍を打ち破り、天下の論功行賞を整え、武力では完全に頂点に立った。しかし、天下の「金の湧き出る泉(鉱山)」は、依然として大坂城の豊臣秀頼と黒田如水の手の中にあった。
武力で勝っても、腹の底(経済)を押さえられている——。
「大坂は、佐渡と石見の金銀を担保に、新しき豊臣の貨幣を作ると息巻いているとのこと。……もし、大坂が高純度の『豊臣金貨』を流布させ、我が徳川が金の裏付けなき粗悪な貨幣を作れば、世の商人はみな大坂の金を尊び、江戸の金を拒みましょう。これでは銭の戦において、徳川は負け申す」
本多正信の冷ややかな指摘が、部屋の空気を氷のように凍りつかせた。
その時、静かに襖が開き、徳川秀忠が入ってきた。
秀忠の手には、一本の大きな地図と巻物が握られている。彼は一礼すると、父・家康の前に座し、地図を畳の上に広げた。
「父上。大坂の金銀を奪えぬのなら……『金銀を使わぬ商い』を、この東国で立ち上げればよいのです」
「……金銀を使わぬ商い、だと?」
「左様です。大坂の強みは『佐渡と石見の現物(金銀)』。ならば、我らが現物の金銀量で勝負を挑めば百戦して百敗いたします。……ゆえに我が方は、街道と宿場を用いた『信用』で戦います」
秀忠は地図の上、品川から大津に至る街道筋を指でなぞった。
「品川から大津に至る五十三の宿場を定め、各宿場に伝馬(連絡用の馬)と問屋場を常備させる『伝馬制』を敷きます。これによって江戸と上方を結ぶ圧倒的な速達・物流網を作り上げる……ここまでは長安殿の構想通りにございますな?」
「は……ハッ。ですが若様、伝馬制の維持にも馬や人足の手当てで多大な金がかかりまする」
長安の問いに、秀忠は深く頷きながら微笑んだ。
「だからこそ、宿場町に『とある』役割を持たせるのだ。たとえば東北の大名や商人が米や物資を江戸へ送る際、重い金銀を運ばせるのは盗難の恐れがあり、輸送の労もかかります。そこで、徳川公儀が発行する『江戸預り証(割符)』を渡すのです」
秀忠の目が、鋭い光を帯びる。
「商人や大名は、道中の各宿場でこの割符を提示すれば、宿場問屋が馬手配や宿料、物資の代金を代わりに立て替え、現金の代わりに割符で決済を行えるようにする。そして、溜まった割符は各宿場から江戸の勘定方、あるいは提携する四天王寺や浅草寺などの大寺社で確実に同額の物資や銭と引き換える……そう徳川の公儀が保障するのです」
大久保長安の息が止まった。
「紙の割符で……宿場の決済と物流をすべて回すのでございますか!?」
「そうだ。現物の金銀を持ち歩かずとも、徳川の宿場町へ行けば『一枚の紙と判(印鑑)』だけで千石、万石の商いと旅が安全に成り立つ。宿場町には通行手形や割符を扱う商人が集まり、宿場そのものが膨大な経済を生む拠点として急速に活性化する。商人が求めるのは重い金銀そのものではない。『安全に、確実に商いができる仕組み』だ」
秀忠は家康を真っ直ぐに見つめた。
「父上。佐渡や石見の金銀は、掘り尽くせばいつか枯渇いたします。しかし、伝馬制によって張り巡らされた街道と、徳川が創り出す『信用』の網は、武蔵の地がある限り潰れませぬ。『金銀なき東国』だからこそ作れる、新たなる経済の道筋にございます」
家康はじっと秀忠の顔を見つめ、やがて深々と息を吐いた。
「……正信。算盤を弾け。秀忠の申す『伝馬と紙の商い』、実用に耐えうるか」
正信はパチパチと素早く算盤の玉を弾き、薄く笑みを浮かべた。
「……見事でございます、若様。金銀を持たぬ弱みを『現物を持ち歩かぬ利便性』へとひっくり返されましたな。宿場町が賑わえば通行税や冥加金(冥加物)も入る。東国の商人や東北の大名どもは、大坂へ頭を下げずとも、この伝馬網と割符で江戸と自在に商いが出来申す」
「よし……!」
家康は膝を叩いた。
「長安! 直ちに東海道五十三次の伝馬制を整えよ! 伊豆など領内鉱山の採掘を急がせつつ、秀忠の申す『江戸割符』と宿場金融の仕組みを街道沿いに一気に巡らせるのだ!」
「ハハッ!」
金銀の原石を大坂に握られた絶望の中で、秀忠の弾いた算盤が、伝馬制の整備と結びついた新たな「信用金融網」を産み落とした。
東国の土と紙、そして街道の熱気から生み出される新たなる経済網——『江戸預り証』と宿場活性化の船出であった。
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