第43話 利根の流を換へて
慶長六年(一六〇一年)春 江戸城
関ヶ原の終戦処理から半年。伏見より江戸へと帰還した徳川秀忠は、江戸城本丸の三層櫓の欄干に身を乗り出し、眼下に広がる大江戸の街並みを見下ろしていた。
春の冷たい風が、衣服を激しく羽ばたかせる。
視界の先に広がるのは、父・家康とともにこの九年間で創り上げた壮大な城下町であった。
かつて雑木林と葦原だった日比谷の入江は神田山の土砂で埋め立てられ、今や武家邸宅と町家が隙間なく立ち並んでいる。小名木川の運河には米や塩を積んだ高瀬舟が行き交い、市場は活気に満ちあふれていた。
だが、その繁栄する街並みのさらに遠く——北の武蔵野の地平を見つめる秀忠の表情は固い。
傍らに立つ本多正信が、白息を吐きながら呟く。
「……殿と若が築かれたこの江戸は、今や大坂に負けぬ『水と道と人が集まる天下の消費地』となりました。……されど、大坂は淀川・大和川の水運と西国の実りを一手におさめ、佐渡の金・石見の銀という『現物』を蔵入地として未だ握っております。……天領の増額が見込めぬ以上、真の経済力では差をつけられたままにございますな」
正信の指摘は、過酷な現実であった。
大坂城の豊臣秀頼と黒田如水は、蔵入地二百二十万石と主要鉱山を無傷で死守した。消費都市としての江戸がどれほど膨らもうと、その背後を支える穀倉地帯と広域の物流網では、依然として大坂が圧倒的な主導権を握っている。
さらに、江戸が巨大都市へと成長したからこそ、新たな危機が浮き彫りになっていた。
北の山々から流れ出る利根川や荒川、渡良瀬川といった暴れ川がすべて江戸湾へと注ぎ込んでおり、大雨が降れば、せっかく築いた城下に水害の脅威が迫るのだ。
「……正信」
秀忠は冷ややかな眼差しを遥か北の流れに向けたまま、静かに口を開いた。
「大坂の算盤は『すでにある現物の財と西国の流通を握る』ことだ。……ならば、こちらの算盤は『膨らみ続けるこの江戸を、関東平野全体を巻き込んだ巨大経済圏の胴元にする』ことで叩く」
「広域経済圏の……胴元、にございますか?」
「そうだ。江戸という都市の枠組みは完成した。ならば次は、この都市に『無尽蔵の生産力』と『大坂を通らぬ物流』を結合させる」
秀忠は振り向き、櫓の階下で控えていた男に視線を投げた。
関東郡代——土木と代官頭の知恵袋として名高い、伊奈忠次である。
「忠次。……利根川の流路を、変えよ」
「……は?」
伏し転んでいた伊奈忠次が、思わず顔を上げた。秀忠の口から出た言葉の意味が、瞬時に理解できなかったのだ。
「流路を変える、とは……いかなる意味にございますか」
「言葉通りの意味だ」
秀忠は手元に広げた関東の絵図面を指先で強く叩いた。
「今、内海(江戸湾)へ流れ込んでいるこの巨大な利根川の首をねじ曲げる。関宿付近から東へ新たなる巨川を掘り進め、常陸の常陸川を経由して、外海(銚子の海)へと流し落とせ」
「な……っ!?」
忠次は絶句し、百戦錬磨の本多正信すら目を丸くした。
利根川という日ノ本有数の暴れ川の流れを、人為的に東へと変え、太平洋へと叩き落とす——。史前以来の地勢を力ずくで書き換えるという、前代未聞の超大型国家事業(利根川東遷)の提示であった。
「若様! 江戸の街はすでに整っております! なれど利根の流を変えるとなれば、あまりにも壮大……莫大な人足と金銀を要する大工事にございますぞ!」
「狂気ではない。この江戸を真の『天下の府』にするための、精密な計算だ」
秀忠は一切の感情を交えず、冷徹に算盤の弾いた数値を口にし始めた。
「第一に、利根川を東へ追いやれば、この膨れ上がった江戸を襲う水害は根絶できる。我らが創り上げた城下町を完璧に防衛するのだ。
第二に、流路を変えたことで干上がる広大な湿地帯を、すべて新田として開墾する。これにより、関東平野に数十万、数百万石の穀倉地帯を自前で創出し、江戸の莫大な胃袋を支える糧とする」
秀忠の目が、鋭い光を放つ。
「そして第三だ。……利根川水系を東北から関宿、常陸川、銚子へと繋ぐ大舟運網を築く。これにより、奥羽や北関東の米や物資は、大坂を通らず直接江戸へと運び込まれるようになる。……そしてその莫大な物流の取引はすべて、我が幕府の『江戸預り証』を以て行わせるのだ」
正信の息が止まった。
大坂城の如水は「現物の金銀と瀬戸内海の物流」を握ることで徳川を牽制している。
ならば秀忠は、父とともに九年かけて創り上げた「大都市・江戸」を拠点とし、利根川東遷によって「東国全体の巨大な生産力と太平洋物流」をドッキングさせ、預り証の仕組みで経済の胴元になろうというのだ。
「大坂から蔵入地を奪えなかったのだ。この先暫くは戦もなくなる。そうなれば、戦を糧に生きていた者達の食い扶持を仕組みで作らねばならぬ。父上と創り上げたこの江戸の基盤に、関東全体の土と水を捏ね直して結合させ、大坂の経済力を完全に凌駕してみせる。……忠次、できるな?」
秀忠の冷厳な問いかけに、伊奈忠次は全身の血が沸き立つような戦慄を覚えた。
父・家康が創り上げた都市の礎を、秀忠が国土改変レベルの巨大土木と金融制度で最高峰の経済圏へと結実させようとしている。
「……ハッ! この忠次、命を賭して利根の流を東へ穿ってみせまする!」
大坂城・本丸
「……ほう。秀忠殿は、川の首をねじ曲げると申してきたか」
大坂城の一室。報告を受けた黒田如水は、薄く笑みを浮かべながら格子窓の外を見つめていた。
傍らには、日増しに凛々しさを増す豊臣秀頼が座している。
「如水。利根川の流路を変えるなど、まこと可能なのか? 徳川は膨大な財と労力を溝に捨てることにならぬか」
秀頼の問いに、如水はゆっくりと首を振った。
「いいえ、秀頼様。これは恐ろしい一手ですぞ。……秀忠殿は、あの見事に発達させた江戸の街に、関東全体の生産力と東北の物流を力ずくで繋ぎ合わせようとしています。そして『江戸預り証』という紙の網で東国の物資を丸抱えにする気です。あのお方は、武力ではなく『土木と制度』で我らに戦争を挑んで来られた」
如水の瞳の奥に、かつて戦国を泳ぎ切った知謀の残火が妖しく揺らめく。
「……秀忠殿の算盤、実に見事。なれば、大坂城もまた相応の『手』を打たねばなりませぬ。徳川が東国の土を穿ち、紙の証文で縛るというなら、我が豊臣は佐渡・石見の『圧倒的な現物(金銀)』と『海の道』でそれを呑み込みます」
如水は懐から一枚の海図を取り出し、畳の上に広げた。
「北陸や出羽の米を日本海から北前船に乗せ、下関を回って瀬戸内海から大坂へ運び込む『西回り航路』……。そして九州・長崎を通じた南蛮との直接貿易。この海上の利権と金銀の信用をすべて豊臣蔵入地二百二十万石の威光で縛り上げます」
如水は秀頼に向き直り、静かに深々と頭を下げた。
「秀頼様。西国の大名たち——福島正則、加藤清正、そして我が子・長政らに朱印状を下賜なされ。『大坂への年貢米輸送と港湾整備を担う者には、我が豊臣の金銀と貿易の利潤を分配する』と。……彼らを豊臣の巨大な海の経済網の中に繋ぎ止めるのです」
秀頼は深く頷いた。その瞳には、かつて父・秀吉が持っていた「天下の富を統べる者」としての覇気が宿り始めていた。
「よい。すぐに朱印状を用意せよ。大坂の金と海の道をもって、徳川の東国包囲網を打ち破る」
戦の歓声も、鉄砲の爆音もない。
しかし、日本列島は今、東と西で二つの巨大なエネルギーによって蠢き始めていた。
東では、徳川秀忠の指揮のもと、何万人もの農民と技術者が泥に塗れ、利根川の流路を穿ち、預り証の仕組みを整え、完成しつつあった江戸を「日本最大の広域経済圏」へと拡張していく。
西では、豊臣秀頼と黒田如水のもと、豊かな蔵入地と佐渡・石見の金銀、そして海運網を背景に、天下の財と物資を大坂城へ吸い上げる経済の巨塔が聳え立つ。
両者が合戦を避け、互いの領国と経済を極限まで高め合う「経済戦争」の時代。
泥と水を捏ね回す秀忠の算盤の音が、江戸の空に静かに、そして高く響き渡っていた。
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