幕間 敗者の算盤と信濃の影
慶長六年(一六〇一年)初春 信濃国・安曇郡の山中
深々と雪が降り積もる信濃の山あいに、ひっそりと佇む一軒の草庵があった。
囲炉裏の火を囲み、破れた羽織を羽織って酒を酌み交わしているのは、表舞台から姿を消した真田安房守昌幸と、その次男・信繁(幸村)であった。
「……父上。上田の城と領地は徳川に没収されたとはいえ、すべて兄上(信之)へ加増という形で下賜されました。これで真田の家と領民は守られましたな」
信繁が静かに口を開くと、昌幸は枯れ枝のような手で酒盃をあおり、くつくつと喉を鳴らして笑った。
「秀忠の小僧め、なかなか狡猾な言い訳を使いおる。『上田の真田は徳川と直接刃を交えておらぬ』という名目を無理やりでっち上げ、我が表向きの首を繋ぐかわりに上田を没収し、信之に与えて手なずけた気でおるのだ。……高野山なんぞという遠方へ流されず、こうして信濃の山中に潜伏できているのも、信之が裏で秀忠や正信と取引したからよ」
「は……。兄上は徳川の表の家臣として上田と沼田を治め、我らはこの信濃の陰から東西の動きを探る。真田の表と裏……二枚の札は生きております」
昌幸は煙管に火をつけ、紫煙を燻らせた。
「だがな、信繁。わしらが信濃で息を潜めている間に、世の『戦』の形が様変わりしおった。……これを見よ」
昌幸が懐から取り出したのは、東海道の宿場町で回されている『江戸預り証』の写しと、大坂の堂島で出回り始めた『豊臣銀札』の手本であった。
「これは……徳川の割符と、大坂の銀札にございますか?」
「そうだ。関ヶ原で刀と槍の戦いは終わった。今の戦場は街道と市場だ。徳川の秀忠は『金銀を持たぬ弱み』を信用手形で化かし、物資を江戸へ吸い上げようとしておる。一方で大坂の如水は、三成亡き後の財政難を隠すため、米の『将来値(先物)』と利息を撒き餌にして商人の欲を煽っておるのだ」
昌幸の目が、かつて「表裏比興の者」と恐れられた戦国策士の光を取り戻した。
「兵を動かさず、紙切れと算盤で相手の国を干上がらせる……。秀忠も如水も、とんでもない化かし合いを始めおったわ。……信繁よ、兄・信之と密かに連絡を取り続けよ。徳川の『江戸預り証』と大坂の『米先物』、どちらの波が勝つか……我ら真田は陰からその流れを見極め、生き残る道を探るのだ」
「ははっ!」
同・周防国 山口
一方、関ヶ原の戦後処理において、西軍の総大将に担ぎ上げられた毛利輝元は、周防・長門二カ国(三十七万石)への大幅減封という凄惨な現実の前に茫然自失となっていた。
「広家があれほど不戦を貫き、徳川と誓紙まで交わしたというのに……! 家康め、『わしが大坂城に入り西軍の印判状を発給した』ことを盾に毛利を潰そうとしおった! 広家が己の恩賞を投げ捨てて命乞いせねば、毛利は完全に改易(取り潰し)であったのだぞ……!」
輝元は怒りと無力感に震え、破れた減封通知を握りつぶして畳に叩きつけた。
吉川広家が血を吐くような思いで繋ぎ止めた毛利本家であったが、百二十万石の膨大な家臣団を抱えたまま三十万石台へ激減したのだ。蔵は底をつき、このままでは年貢の取り立ても追いつかず、家臣を養えずに財政は即座に破綻する。
そこへ、足音もなく部屋の闇から姿を現したのは——黒田如水の意を受けた「大坂の金融密使」であった。
「毛利安芸守様。嘆かれている暇はございませぬ。徳川に削られた三分の二の領地……その穴を埋める策が、大坂にございます」
「なに……? 大坂の策だと?」
密使が提示したのは、如水が仕掛けた『豊臣銀札』の目録と、堂島米市場における「先物取引」のからくりであった。
「徳川の『江戸預り証』などに付き合えば、毛利の米や特産品は安く買い叩かれて終わりです。ですが、周防・長門の米や将来の収穫を担保に大坂の金融市場へ組み込めば、高い利息と手形で即座に莫大な現金を調達できまする。……武力で負けたならば、大坂の『仕組み』を使って徳川の息の根を止めるのです」
輝元の目が、暗闇の中に絶望から這い上がる怪しい光を宿した。
「大坂の……利息と仕組みで、徳川の減封に対抗するのだな……!」
同・出羽国 米沢
上杉景勝と直江兼続もまた、会津百二十万石から米沢三十万石への激減という猛烈な暴風の中にいた。
「兼続……。家臣を一人も暇を出さず、この三十万石で養うと言ったな。……本当に持ちこたえられるのか?」
景勝の絞り出すような問いに、直江兼続は不敵な笑みを浮かべて頭を下げた。
「御館様。武士の情けとして家臣を捨てる気は毛頭ございません。幸いにも……徳川の秀忠様が打ち出した『江戸預り証』と、街道の伝馬制度は、我ら東国の減封大名にとって最大の救いとなりまする」
「何……? 徳川の制度が、だと?」
「左様でございます。大坂の如水様は『金銀と利息』で大名を釣ろうとしておりますが、あれは眉唾物。いつ破綻してもおかしくありませぬ。それに対し、徳川の『江戸預り証』は東国の物流と宿場町に直接連動しております。米沢の特産を江戸預り証の割符に乗せて東海道へ流せば、大坂を経由せずとも確実に即銭にできまする」
兼続は畳を叩いた。
「大坂の『金の罠』には乗らず、徳川の『物流の仕組み』を極限まで使い倒して米沢の財政を立て直す。……武力ではなく『経済の選択』こそが、我ら上杉が生き残るための新たな戦場にございます!」
関ヶ原の戦後処理により減封と苦境に立たされた西軍の大名たち——。
信濃の山中に潜伏する真田昌幸・信繁、大坂のマネーに頼る毛利輝元、そして徳川の物流インフラを活用する上杉景勝・直江兼続。
「敗者たち」の算盤と思惑が交錯し、東西の経済冷戦はさらに複雑な深みへと落ち込んでいくのであった。
数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。
続きが読んでみたいと思えましたらブックマークやイイネをお願いします。
また気に入ってくださいましたら評価★★★★★を宜しくお願い致します。
執筆のモチベーションが大いに高まります!




