第41話 盤上の奪還
5章の始まりです。ifが多めですが、お楽しみ頂けると幸いです。
慶長五年(一六〇〇年)九月下旬 大坂城西の丸
大坂城の一室。秋の夜気があんどんの灯火を微かに揺らしていた。
卓の上には、一枚の和紙が広げられている。関ヶ原の戦後処理——すなわち、天下の大名たちの命運を決する「論功行賞」の目録であった。
「……若様。これで、よろしいのですな?」
闇の底から絞り出すような声で問うたのは、本多正信である。
和紙の上に書き連ねられた墨文字を見つめる徳川秀忠の瞳には、感情の欠片も宿っていなかった。
「……構わん。三成らの暴走を抑え込めなかったのは、主家である豊臣の管理責任だ。全国に二百二十万石ある豊臣の蔵入地(直轄領)は、摂津・河内・和泉の六十五万石を残し、すべて没収する」
秀忠の指先が、目録の上を滑る。
「表向きの理由はいくらでもつく。『関ヶ原で死力を尽くした福島や加藤ら東軍の諸将に、恩賞として分け与えるため』とな。……感情を挟むな、佐渡。豊臣の財源と兵糧の供給網を断ち切らねば、いずれ徳川の喉元を塞ぐ毒となる」
「……御意。豊臣の血を、知らぬうちに一滴ずつ抜く算盤にございますな」
正信が暗闇の中で不気味にほほ笑んだ。
関ヶ原という巨大な武力衝突が終わり、次に始まったのは、書類一枚で家を潰し、力を奪う——冷酷無比な「制度と数字の戦争」であった。
翌日。大坂城・大広間。
上座には満七歳の幼君・豊臣秀頼と、その母・淀殿(茶々)。
下座には徳川家康、そして秀忠が静かに平伏していた。周囲には福島正則や加藤清正、黒田長政ら、関ヶ原で功を挙げた諸将が固唾をのんで控えている。
「……此度の関ヶ原の引き締め、並びに諸将への恩賞の割り振り、この目録の通りに取り計らいとうございます」
秀忠が差し出した目録を、側近経由で受け取った茶々が改める。
次の瞬間、茶々の顔から一気に血の気が引いた。
「な……なんたる暴挙! 豊臣の蔵入地を百五十万石も召し上げるなど!? これでは……これでは我が豊臣が、ただの一大名へと成り下がるではないか……!」
扇を握りしめ、キーキーと金切り声を上げる茶々。
だが、秀忠はピクリとも眉を動かさず、ただ静かに言葉を返した。
「……お言葉ですが、大袋様。此度の戦で東軍の諸大名が流した血は並大抵のものではございません。恩賞のための領地が不足しておりますれば、主家たる豊臣家がお示しになられるのが、天下の主たる筋合いかと」
「くっ……! 正則! 清正! そなたらも何か言いりゃれ!」
茶々に振られた正則らは、気まずそうに俯いた。
自分たちの加増の原資が豊臣の領地から出されると聞かされ、感謝すべきか怒るべきか、政治的思考を持たぬ猛将たちは混乱に陥っていた。
(……勝った。豊臣の威光を傘に着たところで、欲望に飢えた諸将の目を逸らすことはできん)
秀忠の脳内で、計算通りに駒が組み上がる。
——だが。
「……兄上(秀忠)」
静寂を破ったのは、鈴を転がすような、しかし凛と澄み渡った少年の声であった。
秀頼が、目録から静かに目を離す。
「そなたの算盤は、少々……数字の数え方を間違えてはおらぬか?」
「……何でございますと?」
平伏したまま、秀忠の眉が微かに動いた。
「東軍の諸将へ与える恩賞の地が足りぬという。……ならば、関ヶ原で牙を剥き、改易(取り潰し)となった石田三成や宇喜多秀家ら、西軍大名どもの領地はどうなったのだ?」
秀頼の言葉に、大広間の空気が凍りついた。
「西軍から召し上げた領地は、優に六百万石を超えるはず。……正則や清正への恩賞など、その六百万石の中から切り出せば余りあるではないか。……なぜ、亡き父上が余に遺してくれた豊臣の蔵(直轄領)に手をつける必要がある?」
「……っ!?」
秀忠の背筋に、冷たいものが走った。
七歳の童が、関ヶ原の戦後処理における最大の盲点——「没収された西軍領地(600万石)の再分配」の数字を完璧に把握し、徳川の「豊臣骨抜き策」の野心を一刀両断にしてみせたのだ。
秀頼は高座からふわりと立ち上がると、そのまま正則や清正の目の前へと歩み寄った。
「正則、清正。此度の働き、見事であった。そなたらに与える加増は、滅んだ西軍の跡地から、余が直々に与えよう。……徳川の差配にあらず。豊臣の主君としてな」
太陽のような眩しい笑みを向けられ、正則と清正は感極まったように平伏した。
「ははッ……! 秀頼様! ありがたき幸せにございます!」
(……くっ……! 恩賞の『出どころ』をすり替え、武将たちの忠誠を豊臣へ繋ぎ止めた……!?)
秀忠の完璧な計算式が、音を立てて崩れていく。
豊臣の蔵入地削減を強行すれば、「幼君の家財を奪い、自らの懐を肥やそうとした奸臣」として福島らが徳川に反発する。——完全に詰まされたのだ。
だが、真の戦慄はそこからであった。
諸将が平伏する大広間で、秀頼はゆっくりと秀忠のもとへ歩み寄った。
足音もなく、平伏する秀忠のすぐ目の前に立った秀頼は、そのまま腰を落とし、秀忠の顔を至近距離から覗き込んだ。
「……兄上」
その瞳に宿っていたのは、先ほどまでの無邪気な太陽ではない。
かつて天下を焼き尽くそうとした「織田信長」の、苛烈でヤンチャな凄みと、破天荒な対抗心の火であった。
「兄上の弾く算盤の音は……実に静かで、そして恐ろしいな。余の周りには猪ばかりだが、そなただけは余と同じ『盤の上』を見ている」
「秀頼様……」
「よいぞ、兄上。……余を楽しませてくれ。そなたがどのような城(仕組み)を建てようと、余が上からすべて叩き割ってやる」
ニッと不敵に口元を歪める秀頼。
それは、ただの敵意ではない。己と同等の知略を持つ「徳川秀忠」という存在を唯一無二の宿敵と定め、真っ向から飲み込もうとする熱狂的な対抗心であった。
その二人を、横で平伏していた家康が横目で見つめていた。
家康の頭の中に、強烈な記憶が奔流となって押し寄せる。
若き日、清洲城で、岐阜城で——自分を見下ろし、圧倒的なカリスマでねじ伏せてきた織田信長の眼光。
(……似ている。あの二人の空気……かつての信長公と、わしのようだ……)
胸を突く、狂おしいほどの懐かしさ(ノスタルジー)。
だが直後、老雄の全身を猛烈な悪寒が襲った。
(……いかん! あれは『同盟』などではない……! あの童は、秀忠を対等な怪物と認め、喰らい尽くそうとしておる……! あの二人が引き合えば、天下は再び激しい炎に包まれるぞ……!)
家康が冷や汗を流す中、ゆっくりと座所へ戻ろうと踵を返す秀頼は秀忠に向けて最大の一手を放った。
「ああ、そうだ兄上。余もそろそろ本格的に帝王の学を修めねばと思ってな。……亡き父上の智謀を支えた『黒田如水』殿を、余の『傅役』として大坂城に召し出すことにした。異論はないな?」
「……っ!?」
秀忠の指先が、はっきりと震えた。
秀吉に天下を取らせた両兵衛の一角、天下を揺さぶった稀代の軍師・黒田官兵衛(如水)。西軍が動くや否や、九州で兵を挙げ第三極を作ろうと鳴動しようとした戦国随一の智慧者。
まさか、その老狐を大坂城に引き込むというのか——。
「——秀頼様のお召し、恐悦至極にございます」
その時、静まり返った大広間の敷居を跨ぎ、静かに歩み寄ってくる一人の老人がいた。
黒の法衣を纏い、片足を微かに引きずりながら進むその姿。
——黒田如水その人であった。
如水は秀忠と家康のすぐ脇を通り過ぎると、秀頼の御前で滑らかに平伏してみせた。その佇まいには隙がなく、老いてなお鋭利な刃物のような気が充満している。
「父上……! なぜ、あなたがここに……!?」
大広間の列席から、悲鳴に近い声を上げたのは、息子の黒田長政であった。
長政は目を見開き、愕然として父の背中を見つめている。東軍の主力として血みどろになって戦い、徳川への忠義を尽くして黒田家の安泰を勝ち取ったはずであった。その苦労を嘲笑うかのように、父・如水は大坂城の「豊臣の頭脳」として姿を現したのだ。
(親父殿……! 徳川に保険をかけつつ、自らは豊臣の陣頭に立って天下の盤面をひっくり返す気か……!?)
長政の動揺を余所に、如水はゆっくりと顔を上げ、秀忠に向けて薄くほほ笑んだ。
「秀忠様。老骨の身ながら、秀頼様の御学びのお供をせむと、九州より急ぎ馳せ参じました。……今後とも、良き仲と参りましょうぞ」
(如水……! 息子を東軍で走らせて徳川に恩を売り、己は大坂で秀頼の『智恵袋』となる気か……! 二枚舌め……!)
秀忠の奥歯がガチリと鳴った。
「臣・秀忠……承知、いたしました」
秀忠は声を極限まで殺し、深く頭を下げるしかなかった。
大坂城を退出した秀忠は、背中にびっしょりと冷や汗をかいていた。馬を走らせる傍らで、本多正信が悲痛な面持ちで問いかける。
「……若様。蔵入地の削減は拒まれ、如水が大坂の頭脳となった。……これでは、大坂城(豊臣)の主従関係の枠組みの中で戦う限り、我らに勝ち目はございませぬ」
「……分かっている」
秀忠は足を止め、遥か東の空を見つめた。
その瞳には、かつてない冷酷な決意の光が宿っていた。
「大坂の盤面の上で算盤を弾くのは限界だ、佐渡。秀頼の『正統性』と如水の『知略』が噛み合えば、徳川は呑み込まれる」
「ハッ……となると、若様?」
「豊臣を『臣下』として下に置く、まったく新しい政治の仕組みを……一刻も早く、江戸に作らねばならぬ。父上の命があるうちに、だ」
関ヶ原という武力決戦の果てに生まれたのは、平和ではなかった。
「大坂の秀頼・如水」と「江戸の秀忠・家康」——二つの巨大な権力が日本を分断し、互いの喉元を狙い合う、『双京の軋轢』の時代が幕を開けたのだった。
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