第40話 日輪を纏いし魔王
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旭日を纏いし魔童 ~豊臣秀頼、関ヶ原に立つ~
是非合わせてご覧頂けると幸いです。
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関ヶ原の激闘から数日後。
大津城の本陣は、歓喜と興奮の渦の中にあった。
「秀忠様! 松尾山への奇襲、実にお見事にございました!」
「東山道を捨てて南宮の裏を突くなど、まさに神算鬼謀! 徳川の若様がこれほどの軍略の冴えをお持ちとは!」
秀忠を取り囲み、口々に絶賛を浴びせかけているのは、福島正則、加藤清正、浅野幸長といった豊臣恩顧の猛将たちであった。関ヶ原を実質的に決した松尾山への「出現」は、彼らの目には戦史上稀に見る大逆転の電撃戦として映っていた。
だが、その渦中に立つ秀忠は、表情ひとつ変えずに深々と頭を下げていた。
「……滅相もございません。すべては父上のご威徳と、皆様がたが正面で死力を尽くしてくださったおかげ。私はただ、指示された道を無我夢中で駆け抜けただけにございます」
柄にもなく謙虚に、どこまでも愚直な若武者を演じ切る秀忠。
正則らは「なんと慎み深い方だ」と破顔し、安堵の笑みを浮かべて去っていく。
その背中を見送りながら、秀忠の傍らに控えていた本多正信が、微かな声で呟いた。
「……お見事にございますな、若様。武功を誇らず、豊臣の武者どもを安心させる。これで奴らは、徳川の刃がいつ己の首元に届くか、最後まで気づきますまい」
「わしは何も演じてはおらんよ、佐渡(正信)。ただ……算盤の目立ちすぎる数字を、削り落としただけだ」
秀忠の瞳には、一切の熱も誇りも宿っていなかった。
その日の夕刻、草津の陣幕に、一人の男が引き立てられてきた。
捕縛された石田三成である。
泥と病に塗れ、縄目に縛られながらも、三成の瞳にはなお「問い」が宿っていた。
家康との問答が終わり、家康が静かに陣幕を辞したのち、秀忠はただ一人、三成の前に歩み寄り、静かに腰を下ろした。
「……徳川秀忠」
三成は血の走った目で秀忠を凝視し、掠れた声で吐き捨てるように問うた。
「上田の地で真田に足止めされていたはずのお前が……なぜ、南宮山の裏を抜け、松尾山の背後に現れることができた? 伊賀や風魔の忍びを使おうと、あのような峻険な山塊を超える軍勢などあり得ぬ……!」
三成の頭の中では、今なお盤面が目まぐるしく回転していた。移動時間、兵糧、山道の道幅——自身の精密な計算をもってしても、秀忠の描いた移動経路は物理的な限界を超えていた。
「種を明かせ……! お前は一体、どんなからくりを使って私の盤面を喰い破ったのだ……!?」
問い詰める三成に対し、秀忠は何も語らなかった。
ただ、氷のように冷たい瞳で三成を見下ろすのみであった。
「答えてみよ、秀忠……!」
「……三成。お前の計算はいつも美しい。……だが、余が弾く算盤の上に、お前の入る余地など最初からなかった。それだけだ」
「な……っ!?」
静かに立ち上がり、三成に背を向ける秀忠。
語られない答え。だが、その圧倒的な「沈黙」と冷徹な背中から、三成の頭の中で過去のピースが一瞬で繋ぎ合わさっていく。
(……あらかじめ、全てが『線』として繋がっていたというのか……!? 奇襲などではない。上田に向かう前から……関ヶ原が始まる前から、この男の頭の中では、この山も、人間も、全てが配置し終わっていた……!?)
種明かしを聞いたわけではない。だが、相手の語らなかった「余白」の中に潜む悪魔的な計算の全貌を悟った瞬間、三成の全身に猛烈な鳥肌が立った。
「お前は……お前はこの世の者ではない……。最初からこの国の人間すべてを……」
がたがたと震え出す三成に、秀忠は振り返ることもなく陣幕を後にした。
敗者に与えられたのは、答えではなく、あまりにも深い絶望の解釈だけであった。
十月、徳川父子は天下の勝者として大坂城へと入城した。
表向きは「主家である豊臣を脅かす反逆者・石田三成を討伐した」という報告の体裁である。
城の奥、豪華絢爛な御簾の陰で、扇を折れんばかりに握りしめている女性がいた。淀殿(茶々)である。
(正則や清正の猪どもめ……まんまと徳川の狸に踊らされおって……!)
顔を不快そうに歪め、苛立ちを隠せない茶々。
しかし、家康の背後に佇む秀忠と一瞬視線が交錯した瞬間、茶々は息を呑み、言葉を失った。
福島らに見せていた「愚直で大人しい若武者」の顔は消えていた。
そこにいたのは、何の感情も宿さず、大坂城の金碧画すらも単なる「数値」として冷たく見定めている、不気味な青年の姿であった。
(なんなのだ、あの男は……。家康よりも……恐ろしい……!)
そして、大広間。
徳川父子を迎えたのは、上座に座す満七歳(数え八歳)の幼君・豊臣秀頼であった。
幼い体躯でありながら、その佇まいには豊臣の血統が持つ圧倒的な威厳と、すべてを見透かすような澄んだ瞳があった。
秀忠が深く叩頭し、恭順の礼をとる。
秀忠にとって、秀吉から「秀」の字を賜った縁もあり、秀頼は立場上、義理の弟であり主君であった。
静寂が支配する大広間に、鈴を転がすような、しかし凛とした少年の声が響いた。
「正則らがそなたの武功を熱っぽく語っておったぞ、兄上(秀忠)。『自分は何もしていない』と謙遜して見せたそうだな……ふふ、見事な道化だ」
——ピキリ、と。
平伏したままの秀忠の頭の中で、完璧に組み上げられていた計算式が一瞬、停止した。
七歳の子供が、豊臣の猛将たちの前で見せた秀忠の「演技」を完璧に見抜いていた。
秀頼はゆっくりと立ち上がると、高座から身を乗り出し、幼いながらもあぐらをかくような破天荒な姿勢をとった。その口元には、亡き秀吉を思わせる太陽のような無邪気な笑みが浮かんでいる。
だが——その瞳の奥には、すべてを射殺すような恐ろしい眼光が宿っていた。
「そうやって豊臣の兵を油断させ、関ヶ原の盤面を丸ごと喰らったか。……実に見事な手際よの」
「……滅相もございません」
「面を上げよ、兄上……」
秀忠が静かに顔を上げると、七歳の英雄は、ニッと不敵に笑ってみせた。
「……されど兄上。亡き父上が遺したこの豊臣の家と、民を……どうか無体に扱わないでおくれよ? もし余の盤面を荒らすつもりなら……次は余が、そなたの算盤ごと叩き割ってやる」
太陽のような笑みで包まれた、あまりにも苛烈な宣戦布告。
関ヶ原で三成の盤面を打ち砕いた冷徹な徳川秀忠が、生まれて初めて背筋に激しい冷や汗を流していた。
(七歳……! 飾り物の幼子などではない。この童……わしが笑顔の裏で弾いている算盤の音を、完璧に聞き取っているというのか……!?)
秀忠の指先が、微かに震える。
その横顔を、傍らに平伏していた家康が横目で見やっていた。
かつて織田信長に平伏し、豊臣秀吉に平伏してきた老雄は、七歳の秀頼の中に浮かんでは消える「二人の怪物」の影を見定め、額を畳に寄せながらボソッと呟いた。
(……信長公の眼光に、太閤の笑み……。まるで黄泉がえったようじゃ、あの化け物どもが……)
家康の呟きは、誰の耳にも届くことなく大広間の静寂に消えた。
秀忠は震える手を隠すようにさらに深く頭を下げ、声を極限まで殺して応えた。
「……臣・秀忠、豊臣の天下を守り抜くため、全霊を捧げまする」
言葉とは裏腹に、秀忠の脳裏では、静かに新たな「数値」が書き換えられていた。
(豊臣秀頼……お前は幼子ではない。十年後、わが徳川を脅かす……真の怪物だ)
秀忠は退出しながら廊下には、右手親指から滴る血の雫が点々と刻まれていた。
関ヶ原という巨大な戦が終わったその場所で、早くも次の時代をかけた、新たな暗闘の盤面が立ち上がり始めていた。
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