第39話 崩落の計算式
三成sideの関ケ原となります
慶長五年(一六〇〇)九月十五日、正午手前。
笹尾山の山頂本陣から戦場を見下ろす石田三成の瞳には、揺るぎない確信が宿っていた。
「勝てる。私の計算に、狂いはない」
眼下で繰り広げられる激闘は、まさに三成が描き上げた盤面そのものであった。
笹尾山の麓では、竹束の防盾と大砲の威力が東軍の先陣を寄せ付けず、猛将・島左近が鬼神のごとき采配で細川・黒田の軍勢を散々に薙ぎ払っている。中央では西軍最強の宇喜多秀家隊が、剛勇を誇る福島正則をじりじりと押し戻していた。
遠く桃配山を見やれば、徳川家康が焦燥のあまり爪を噛み破っている姿すら見て取れた。
「家康よ、焦るのも無理はない。秀忠の徳川本隊三万八千は、上田の地で真田に足止めされ……さながら泥沼に呑まれたといえよう」
三成は静かに扇を握り直した。
東軍七万に対し、西軍八万。徳川の本隊が来ぬ以上、数においても勢いにおいても西軍の絶対優位は揺るがない。あとは、南宮山に陣取る毛利勢三万が東軍の背後を突き、松尾山の小早川秀秋が一万五千を率いて駆け下りれば、徳川家康の天下の夢はここで潰えるはずであった。
だが——盤面は、三成の知らぬところで静かに、そして致命的に壊れ始めていた。
同じ頃、関ヶ原の東南にそびえる南宮山。
「吉川殿! なぜ陣を動かさぬ!? 宰相様(毛利秀元)に出陣の下知を乞うてくだされ!」
安国寺恵瓊が血相を変えて駆け込んできたが、陣幕の前で立ち塞がった吉川広家は、ぬるま湯の入った湯呑みを手に、悠然と首を振った。
「こればかりはどうにもならぬ。いま宰相様はお召し上がり中(お弁当)なのだ。腹を空かせて戦はできぬ」
「弁当などと!? この天下分け目の真っ只中に何を悠長な——!」
恵瓊が怒号を上げるその目と鼻の先、南宮山の峻険な裏谷。
そこでは、信じがたい光景が広がっていた。
息を殺し、甲冑の音すら消して闇のように山道を擦り抜けていく「黒い影」。
伊賀・風魔の忍びに案内され、南宮山の西軍三万の脇を、まるで影のごとく素通りしていく軍勢——徳川秀忠の部隊であった。
吉川広家は恵瓊の背後、山裾の煙を冷や汗の浮かんだ目で見つめていた。その懐には、本多正信を通じて届けられた一通の密書が握られている。
(徳川の若様は……上田を捨て、山を越えてここまで来られた。この軍勢の動きを遮れば、毛利は一番に踏み潰される……!)
「宰相様が弁当を召し上がり終えるまでは、一兵たりとも動かすことは許さん」
広家は冷酷に言い放ち、秀忠軍が関ヶ原の深部へと侵入していくのを黙認した。
「なに……!? 南宮山が動かぬだと!?」
笹尾山の三成に、戦慄が走った。何度も上げた狼煙は虚しく空に消え、毛利勢はピクリとも動かない。
そればかりか、南西の松尾山——日和見を決め込んでいた小早川秀秋の陣から、突如として悲鳴のような銃声と怒号が響き渡った。
「報告! 小早川陣の『背後』より、正体不明の軍勢が出現! 松尾山へ向けて一斉射撃を開始いたしました!」
「背後だと!? バカな、松尾山の南は峻険な山塊だぞ! どこから軍勢など湧くというのだ!?」
三成が遠眼鏡を覗き込んだ瞬間、その思考は完全に停止した。
松尾山の麓を覆い尽くしていたのは、泥と汗に塗れ、痩せこけた体で刀を抜く、狂気の軍隊であった。その先頭に立つ黒き甲冑の将——徳川秀忠。
中山道で遅参したはずの徳川本隊が、なぜか西軍の背後、松尾山の目と鼻の先に「生えていた」のだ。
「ひぃぃぁぁぁっ! 徳川の若様だ! 殺される、今すぐ山を駆け下りよぉぉっ!」
松尾山から駆け下りてきた小早川勢一万五千の怒涛の突撃を受け、正面を守っていた大谷吉継隊は、ほんの一瞬で前線ごと粉砕された。
それを合図に、脇坂安治ら日和見の諸将が一斉に反転。西軍の陣列は、まるで積み木が崩れるように雪崩を打って瓦解し始めた。
「なぜだ……」
笹尾山の本陣。破竹の勢いで押し寄せる東軍と裏切り者の群れを前に、三成は呆然と立ち尽くしていた。
手にしていた扇が、滑り落ちて泥に汚れる。
「なぜだ……! なぜ私が敗れるのだ……!? 毛利の動向も、小早川の不審も、秀忠の遅参も……すべて私の計算の中にあったはずだ! 私の盤面に、何の狂いがあったというのだ……!?」
三成の悲痛な叫びに答えたのは、全身に返り血を浴び、折れた槍を手に駆け戻ってきた島左近であった。
「殿! ここはもはや支えきれませぬ! 伊吹山へお引きくだされ!」
「左近……答えよ! なぜだ! 私の算盤の、どこに間違いがあった!!」
血の走った目で自分に詰め寄る三成を、左近はどこか愛おしむような、哀しい目でみつめた。そして、ふっと血塗れの唇で苦笑を浮かべる。
「殿……相手が『人』ならば、殿の計算に狂いはございませんでした。だが……」
左近は背後の松尾山——そこに立つ、泥を喰らい、死の強行軍で山を越えてきた秀忠の軍勢を指さした。
「あの泥を喰らって山を切り拓いてきた若造は……人の算盤を丸ごと打ち砕く『鬼』にございます。盤面の外から賽を投げつけるような真似、誰が予測できましょうか」
「鬼……秀忠が……?」
「殿、生きてくだされ! 生きて……あの鬼が創る新たな天下の姿を、その目でとくと見極められませ!」
左近は三成の背中を力任せに押し飛ばすと、残る手勢を率いて反転した。
「石田三成はここにあり! 我こそは島左近なり! 命の欲しい奴からかかってまいれぇぇっ!!」
鬼神の如き咆哮とともに、左近は怒涛の敵陣へと単身躍り込んでいった。それが、三成が見た友の最後の背中であった。
雨上がりの湿った風が吹き抜ける伊吹山の山道。
身を隠しながら山を登る三成の耳に、はるか関ヶ原の盆地から、勝ち誇る徳川の勝鬨が轟いてきた。
完璧だったはずの自分の「義」と「計算」。それをすべて踏みにじり、関ヶ原の全てを盤面ごと飲み込んでいったのは、老獪な徳川家康ではない。
遅参という汚名を着せられながら、暗闇の中で冷徹に算盤を弾き切った、あの泥まみれの若き将——徳川秀忠。
三成は泥のついた手で深く顔を覆い、天を仰いで静かに呟いた。
「徳川秀忠……お前は、遅参したのではない。最初から……この関ヶ原を喰らうために狂っていたのだ」
敗者・石田三成の瞳に焼き付いたのは、時代を力ずくで書き換えた、新たな支配者の冷徹な影であった。
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