第38話 関ヶ原を喰らう鬼
慶長五年(一六〇〇)九月十五日、早朝。
関ヶ原の盆地は、前夜までの雨を吸い込んだ深い濃霧と、刺すような湿気に包まれていた。
両軍合わせて十五万の将兵が息を潜め、甲冑にしみ込む泥と汗の匂いの中で、不気味な静寂が戦場を支配していた。
午前八時頃。
その静寂を切り裂いたのは、井伊直政・松平忠吉隊による突砲の轟音であった。先鋒の福島正則を押し分けるようにして西軍・宇喜多秀家隊へと放たれた一撃により、天下分け目の火蓋が落とされた。
「押せ! 押せぃ! 一歩も引くな!」
「打ち払え! 徳川のイヌどもを刻んで捨てよ!」
霧が徐々に薄れるにつれ、戦場は凄惨を極める肉弾戦へと変貌した。
笹尾山に陣を構える石田三成は、竹束の防盾と大砲を駆使し、襲いかかる黒田長政や細川忠興の軍勢を冷徹に迎撃。前線では猛将・島左近が鬼神の如き勇猛さで東軍を薙ぎ払い、中央では西軍最強と名高い宇喜多隊が、福島正則の剛勇を真っ向から押し返しつつあった。
激闘は数時間に及び、正午近く。
風が吹き抜け、関ヶ原の全貌が露わとなった時、東軍の陣列には色濃い疲弊と焦燥が広がっていた。
「くそっ……! 三成の陣が崩れぬ! 宇喜多も硬い!」
「松尾山の小早川秀秋は動いたか!?」
「い、いえ! 一万五千の小早川勢、いまだ静観を決め込んでおります!」
桃配山の本陣にて、徳川家康は苛立ちのあまり、自身の爪をガリガリと噛み破っていた。指先から血が滲む。
東軍七万に対し、西軍八万。前線が膠着し、松尾山の日和見(小早川)が動かない以上、戦況は西軍に傾きつつあった。
「秀忠……! 秀忠は何をしているのだ!!」
家康は山頂から戦場を見下ろし、血の走った目で怒号を上げた。
徳川の本隊三万八千があれば、この膠着など一瞬で砕き割ることができたのだ。それが遅参——史実という名の底なし沼に呑まれ、一兵たりとも関ヶ原に届いていない。
(敗れる……のか。このわしが、三成ごときに……!)
家康の胸を、本気の絶望がかすめたその時であった。
「報告! 岐阜街道側、東口より一騎! 本多正信様からの伝令にございます!」
「正信からだと!?」
家康の前に平伏したのは、全身泥まみれになり、呼吸も絶え絶えの使者であった。使者は震える手で、激しい雨に濡れて端が破れた一枚の懐紙を差し出した。
「若様(秀忠様)より……内府様への密書にございます!」
家康はひったくるようにその紙を開いた。
木曽路の暴風雨の中、秀忠が正信に耳打ちした「真の算盤」——正信率いる一万五千を東海道側へ迂回させていた。
使者は息を弾ませながら、畳み掛けるように口を開いた。
「若様は……伊勢の山賊を金で買い、風魔衆に秘道を切り拓かせました! さらに南宮山の吉川広家へ秘密裏に文を送り、『静観せよ』と手を打っておられます! 敵の目を盗み、山を越えた若様の本隊は……すでに『そこ』におられます!」
正信の代筆によるその書状には、たった一行、血のような墨でこう記されていた。
『松尾山ヲ見ヨ』
「なに……? 松尾山だと……!?」
家康が弾かれたように顔を上げ、関ヶ原の南西にそびえる松尾山へ視線を走らせた、まさにその瞬間であった。
——ズズズズズズズ……ッ!!
大地を揺るがす地鳴りが響いた。
山道で馬を捨て、重い甲冑を脱ぎ捨て、足袋を血で染めながら暴風雨の崖をよじ登ってきた一軍が、松尾山の南西・山腹の鬱蒼とした木々を押し分け、なんと、日和見を決め込む小早川秀秋の陣地の『真裏(山頂本陣の目と鼻の先)』の崖上から突如として躍り出たのである!
ドガァァァンッ!!
山腹を揺るがす一斉射撃の煙が、小早川陣の至近距離から立ち上った。
「な……なにが起きたのだ!?」
桃配山の家康は、南蛮渡来の遠眼鏡を握りしめ、息を呑んで目を見開いた。
筒の向こう、松尾山の山腹を埋め尽くしていたのは、洗練された徳川の大軍勢ではなかった。
陣幕も糧食も捨て去り、泥と血にまみれ、着物は破れ、瞳だけを爛々と輝かせた「狂気の集団」。
暴風雨と土砂崩れの崖を這い上がり、小早川の喉元へ直接刃を突きつけた、徳川秀忠率いる三千の決死隊であった。
「ひ……ひぃぃぁぁぁっ!?」
松尾山の山頂本陣にて、高みの見物を決め込んでいた小早川秀秋は、腰を抜かして悲鳴を上げた。
山頂の本陣から見下ろす崖の下、すぐ目と鼻の先。
竹林を押し分けるように這い上がってきた泥まみれの兵たちが、血走った目で一斉に自分たちを見上げている。その中心で、黒き甲冑を泥で汚した徳川秀忠が、冷酷な眼光で山頂の秀秋を直視していた。
「小早川に向かって鉄砲を放て。……日和見をするならば、三成の前にまずお前から踏み潰す」
秀忠の冷徹な命により放たれた至近距離からの「威嚇」——いや、「死の通告」。
遠く桃配山からの生ぬるい問鉄砲などではない。目の前にいるのは、日和見を一切許さぬ泥まみれの死神である。背後を完全に退路遮断され、死の銃口を突きつけられた秀秋の脳裏には、恐怖しかなかった。
「勝ち目など……勝ち目など万に一つもない!! わしはつくぞ! あちらにつく!!」
発狂する秀秋に小早川家家老である稲葉正成が大声で問いかける。
「殿!どちらにつくおつもりですか!下知を、下知をくだされ!」
「徳川に決まっておろう!今すぐ山を下りろ! 大谷吉継の横腹を喰い破れぇぇっ!!」
恐怖に狂った秀秋の叫びとともに軍配が振り下ろされ、小早川勢一万五千が雪崩を打って松尾山を駆け下りた。
ドゴォォォンッ!
松尾山からの突然の裏切り(襲撃)を受け、西軍の重鎮・大谷吉継隊はひとたまりもなく壊滅。
この衝撃波は瞬く間に戦場全体へ伝播し、脇坂安治、朽木元綱ら日和見の諸将が一斉に反転。西軍八万の陣列は、まるで積み木が崩れるように一瞬で瓦解していった。
さらにこの決定的な好機に、関ヶ原の東口(岐阜街道)から怒涛の地鳴りが轟いた。
中山道を昼夜兼行で突破してきた本多正信率いる一万五千の徳川本隊が、関ヶ原東口へ到着。疲弊しきっていた福島・黒田ら東軍前線を押し代わるようにして怒号とともに戦場へとなだれ込み、総崩れとなる西軍へ向けて圧倒的な押し込みを開始したのである。
桃配山の山頂で、家康は呆然と立ち尽くしていた。
松尾山を下り、西軍をなぎ払っていく小早川の軍勢。そして、西軍の側面(笹尾山・三成陣)へ雪崩れ込み、兵糧と勝利を奪い取るべく鬼神のごとく突き進む秀忠隊。
さらに東口からは、怒涛の勢いで押し寄せる正信率いる一万五千とその歓声を聞いた福島、黒田隊が息を吹き返し西軍の退路を完全に塞ぎ込んでいく。
「秀忠……お前は……」
家康の全身に、鳥肌が立った。
中山道での遅参などではない。秀忠は、あの大雨と絶望の泥濘の中で軍をふたつに割り、吉川を抑え、秘道を拓き、家康すらも「盤面を誘い出すための駒」として利用して、小早川秀秋の背後を完璧に奇襲する『絶対の詰み』を目論んでいたのだ。
「ハ……ガハハハハハハッ!!」
家康の口から、腹の底からの笑い声が飛び出した。
怒りも、焦燥も、敗北の恐怖もすべてが吹き飛んでいた。眼前で繰り広げられたあまりにも完璧な大逆転劇に、徳川家康という怪物が歓喜に震えていた。
「見事だ……見事すぎるぞ、秀忠ぁぁっ!!」
未刻(午後二時頃)。
あれほど荒れ狂っていた関ヶ原の喧騒は終わりを告げ、徳川の大勝利の勝鬨が、泥に塗れた天空へと轟き渡っていった。
遅参の将軍という汚名を過去のものとし、未来の歴史すらも「冷徹な算盤」で書き換えた徳川秀忠。その背中に、真の天下人の影が静かに重なっていた。
ギリギリ実現出来そうを目指しました。
秀吉が中国大返しを実現するなら、私の、そしてみんなの秀忠だって山の一つや二つ越えられるはず!
現代では出来ないかもしれませんが、やらなきゃ死ぬとなったら、人は出来るのかもしれない。
そんな思いも馳せながら書きました。
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執筆のモチベーションが大いに高まります!




