第35話 街道の算盤 ——石田正宗と二道の盤面
ブクマ600件突破を記念して本日は2度投稿となります。
お楽しみください。
慶長四年(一五九九)十一月。伏見城の静寂な一室。
結城秀康は、膝の上でぬらりと光る刀身を見つめていた。
刃文に独特の乱れがある名刀——切込正宗。またの名を「石田正宗」。
石田三成が七将の襲撃を受け、佐和山城へ隠退する際、護送を務めた秀康に「せめてもの返礼」として贈った品であった。
「三成殿は不器用な男であったが……筋の通った誠実な武士であった」
秀康は刃を鞘に収め、軽く息を吐いた。
三成が佐和山に去ってから半年余り。天下の空気は凄まじい速度で変わっていた。父・徳川家康は大坂城西の丸に入り、事実上の政権担当者として君臨している。朝廷や公家たちも、徳川の圧倒的な力に平伏し、家康の指図をそのまま追認するばかりであった。
「……武力で斬り結ぶまでもなく、天下が手中に収まっていく」
秀康は頼もしさと同時に、どこか薄寒い恐ろしさを感じていた。その「血の通わぬ包囲網」を裏で実務として組み上げているのが、弟の徳川秀忠であることを知っていたからだ。
秀康が秀忠の執務室を訪ねると、そこには軍法書ではなく、巨大な天下の街道地図と、何冊もの厚い勘定帳が広げられていた。
「兄上、良いところへ」
秀忠は表情を変えずに顔を上げると、地図の上に木製の駒を並べ始めた。
「三成が佐和山へ引っ込んだとはいえ、奴の野心が消えたわけではありません。遠からず挙兵しましょう。……その時、天下の決戦場となるのは『美濃』。ゆえに、江戸から西へ向かう二つの大街道——東海道と中山道の二重支配を完璧にしておかねばなりませぬ」
秀忠の細い指が、まず東海道をなぞった。
「東海道の要所には、豊臣の恩を受けた武将たちが並んでおります。駿府の中村一氏殿、浜松の堀尾吉晴殿、掛川の山内一豊殿……。一見すれば不穏ですが、あ奴らは己の保身しか頭にない日和見の徒。我が徳川の圧倒的な威圧の前に、必ず膝を屈します」
指はさらに西、三河と尾張へ進む。
「そして岡崎の田中吉政殿、清洲の福島正則殿。ここが決定的な要石です。正則らは三成を骨の髄まで憎んでいる。……彼らに『三成退治』という口実を与えれば、我らの忠実な先鋒となって狂ったように西へ走ります」
「……見事な分析だな」
秀康が感心すると、秀忠は首を振って中山道(木曽街道)へと指を滑らせた。
「問題は、この中山道に潜む『刺』にございます」
秀忠の指が止まったのは、上野から信濃、そして美濃へ抜ける山深き街道であった。
「中山道を西上する際、上野の沼田には我が義兄(家康の養女・小松姫の夫)である真田信之殿がおります。小諸の仙石秀久殿、信濃飯田の京極高知殿も徳川寄り。ここまでは良い」
秀忠の目が、すっと細くなった。
「だが……その間に横たわる上田城の真田昌幸・信繁(幸村)。あやつらは表向き徳川に従う素振りを見せておりますが、裏では密かに佐和山の三成、そして会津の上杉景勝と誼を通じております。間違いなく『西軍』の不気味な毒虫です」
「上田の真田か……。一筋縄ではいかぬ策士だな」
「ええ。そして、東海道と中山道が合流する美濃の入り口——岐阜城を守る織田秀信(三法師)。信長公の嫡孫という誇りと、秀吉公への恩義から、秀信は確実に三成側に立ちます。大垣城の伊藤盛正も三成の忠犬。……美濃の地は、戦になれば一筋縄では行きませぬ」
秀忠は冷徹に盤面を俯瞰していた。
誰が徳川に与し、誰が三成に靡き、誰が牙を隠しているのか。各大名の配置と腹の内を、秀忠は完璧に把握していたことになる。
「各大名の腹は読めた。……では秀忠、お前はどうやってこの盤面を動かす?」
秀康の問いに、秀忠は傍らに控えていた豪商——角倉了以と茶屋四郎次郎に視線を送った。
「戦う前に、潰すのです」
秀忠が手を打つと、豪商たちが恭しく大福帳を開いた。
「徳川の潤沢な銭を使い、東海道と中山道の主要宿場町、および主要な港の米糧、硝石、鉛、馬匹を極秘裏に買い占めさせております。さらに、各大名の蔵に眠る兵糧の過不足まで調査させました」
「物資の買い占めだと……?」
「左様です。三成や織田秀信が挙兵したところで、街道沿いの市場から米と弾薬は消え失せている。しかも豊臣に銭はありません。兵の腹を満たせず、鉄砲も撃てぬ軍勢など、戦う前に崩壊いたします。逆に、我が徳川に従う福島正則や山内一豊らには、徳川の豊富な兵站から米と玉薬をふんだんに与えて『餌』で飼い慣らすのです」
秀康は絶句した。
弟・秀忠は、武将たちの「感情(三成への憎しみ)」だけでなく、「物理的な胃袋と弾薬庫」までも、経済の力で完全にコントロールしようとしていたのだ。
「東海道の物流と大名統制は、父上と私で完璧に仕上げます。……だが兄上、一つだけ計算から外れる巨大な『暴風』がございます」
秀忠は真剣な眼差しで秀康を見た。
「北の会津……上杉景勝と直江兼続です。我が軍が西へ動いた隙を突き、上杉が会津から一気に江戸へ南下してくれば、徳川の背後は壊滅いたします」
「……俺に、上杉の目付けになれと言うのだな?」
「左様です。宇都宮・結城の地に入り、北関東の『絶対の壁』となっていただきたい。三成を誘い出すための『毒餌』として上杉を会津に釘付けにするには、兄上という武勇の将が不可欠なのです」
秀康は静かに頷き、腰の「石田正宗」の柄に手を置いた。
三成から受け取った義理の刀を抱きながら、自分は徳川の天下を決定づける「最北の防波堤」として立つ。その役割の重さを噛み締めた。
「父上は私を信用してくださるであろうか……」
「兄上……信用しておらねば、ここまで詳細に打ち明けたりは致しませぬ」
「……引き受けた、秀忠。上杉の一兵たりとも、関東の土を踏ませはせん」
「感謝いたします、兄上」
(もし、真に信頼を得られていたのであれば、中山道は兄上が攻め上っていたのかもしれませぬ)
秀忠は静かに頭を下げると、算盤を弾き、東海道・中山道の兵站帳簿をパタンと閉じた。
「東海道、中山道……すべての盤面は固まった。……あとは会津の上杉を煽り、三成を踊らせるのみ」
慶長五年の春の風が、江戸の街を吹き抜けていく。
天下を分かつ世紀の大戦「関ヶ原」への足音は、静かに、そして完璧な計算のもとで始まったのである。
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