第34話 我、人を背けども
慶長四年三月十三日。
徳川家康は向島から伏見城本丸へと移り、あたかも己が天下人であるかのように振る舞い始めた。武断派の加藤清正や福島正則らは家康の手厚い懐柔を受け、次第に「豊臣の家臣」から「徳川の威光を仰ぐ大名」へと変貌を遂げていく。
だが、その狂乱の伏見から遠く離れた近江・佐和山城の静寂の中で、ひとつの「刃」が着々と研ぎ澄まされていた。
「殿、正攻法では勝てませぬぞ」
暗がりが満ちる書斎で、島清興(左近)がおもむろに巨大な地図を床に広げた。
見つめる石田三成の目元には、隠居の身とは思えぬほど鋭い光が宿っている。
「伏見を落とし、毛利や宇喜多を担ぎ上げたところで、徳川の真の脅威は家康一人にあらず。江戸に控える、徳川の旗本衆の精鋭でございます。家康が東へ動き、我らが上方で挙兵したとして、家康が東海道を、秀忠が中山道を破竹の勢いで西上してくれば、我らは南北から挟み撃ちとなり、ひとたまりもなく踏みつぶされます」
「……秀忠を、止めねばならぬか」
三成が呟く。己を佐和山へ追いやった、あの冷徹で隙のない青年の顔が脳裏をよぎる。
「左様。秀忠の足と軍略を、中山道の途上で完全に止める『防波堤』が必要でございます。……それも、佐和山と会津の中継拠点であり、信濃の喉元を握る城」
左近の指が、地図上の一点——信濃国、上田城を強く指した。
「あの老狐……真田昌幸の出番でございます」
その時、書斎の戸が音もなく開いた。気配もなく滑り込んできたのは、深く笠をかぶったひとりの若い武者であった。
「……佐和山城の警備も、真田の影には通じぬか」
左近が苦笑すると、若者は笠を脱いだ。真田昌幸の次男、真田幸村(信繁)であった。
「父・昌幸よりの文にございます」
幸村は懐から一通の密書を取り出し、三成の前に捧げ持った。
「父の言、しかと伝えよとの仰せにて。『上田で秀忠の足を止めるだけでは足りぬ。亡き利家殿の跡を継いだ加賀の前田利長をも巻き込め。徳川の東国下向に合わせ、加賀、会津、信濃、佐和山が同時に牙を剥けば、秀忠の三万など山中で途方に暮れるのみ』……と」
三成は文を読み進めると、低く息を吐いた。
「前田利長殿か……。利家殿を失った今、前田が立ち上がれば西国の動揺は決定的となる。幸村殿、動けるか」
幸村は深く頭を下げた。
「ハッ。信濃、加賀、京……父の影となり、網を張り巡らせてみせます」
幸村の不敵な笑みが、夜陰の中に消えていった。
しかし、巨大な陰謀が動けば、必ずそこから「綻び」が生じる。
三成と昌幸、そして前田家を巻き込む不気味な密約の気配を、過敏に察知した者たちがいた。豊臣の奉行衆——増田長盛と長束正家である。
「おそろしい……石田殿は正気を失っておられる!」
「このような暗躍が家康内府に漏れ聞こえれば、豊臣家はおろか、我ら奉行衆そのものが根切りにされるぞ!」
保身と恐怖に駆られた二人は、夜陰に乗じて伏見城の徳川陣営へ駆け込んだ。そして、三成と前田利長が謀反を企んでいるという極秘情報を、徳川方へ密告してしまったのである。
報告を受けた伏見城の徳川陣営は騒然となった。
「前田が立ったか! 今すぐ加賀へ出兵し、前田利長を叩き潰すべきだ!」
上座で腕を組み考え込む家康とは対照的に、血気にはやる将臣たちに対し、秀忠は一人、冷ややかな目を光らせていた。
「お待ちあれ」
秀忠の声に、評定の間が静まり返る。秀忠は父・家康の横顔を一瞥すると、言葉を続けた。
「兵を動かすのは易い。だが、ここで加賀へ攻め込めば、追い詰められた前田はなりふり構わず佐和山の三成と合流しよう。そうなれば、我らは西と北から敵に挟撃されることになる。……三成の狙いはまさにそこだ」
秀忠は立ち上がり、盤上の加賀を指差した。
「戦わずして、前田の牙を抜く。政治をもって屈服させるべきだ」
頷く家康を横目に秀忠はすぐさま加賀へ脅迫状とも言える厳格な使者を送った。「謀反の疑いあり。明解な釈明がなければ徳川全軍をもって加賀を焦土とする」という激しい圧力である。
前田家は紛糾した。当主・利長は徳川との全面対決を覚悟しかけたが、それを一喝した人物がいた。亡き利家の妻・芳春院である。
「前田の家を潰し、豊臣を乱世へ戻してどうします。我が身ひとつで前田の家と臣民が救われるなら、喜んで江戸へ向かいましょう」
芳春院は自ら人質として江戸へ下る決意を固めた。
この報が伏見に届いた瞬間、秀忠は即座に「加賀征伐の中止」を宣言した。
戦を一切交えることなく、百万石とも言われる前田の脅威を無力化し、徳川の傘下へと組み込んで見せたのである。秀康から「豊臣を丸ごと包み込んで超えよ」と諭された秀忠が、冷徹な「覇者の政治」を完璧に結実させた瞬間であった。
加賀前田家の屈服——その報は、信濃・上田城にも激震をもたらした。
「父上! 前田は膝を屈しました! 芳春院様が江戸へ人質に入られたのです!」
上田城の大広間に駆け込んだのは、昌幸の長男・真田信之であった。本多忠勝の娘を娶り、徳川陣営との強い絆を持つ信之の顔は、苦汁と焦燥で歪んでいた。
「もはや徳川の勢いは止められませぬ! 挙兵など正気の沙汰ではございません!上田の地は父上が、沼田の地は某が拝領しており申す。なぜ……なぜそこまでして自滅の道を歩まれるのですか!」
畳に平伏し、必死の説得を試みる信之。その姿を、昌幸は酒杯を傾けながら冷ややかに見下ろしていた。
「自滅、とな」
昌幸がぽつりと呟く。その声には、深い地底から響くような不気味な重みが宿っていた。
「武田、上杉、織田、北条、徳川……。大国に囲まれ、時に西へ頭を下げ、時に東へ尻尾を振り、へつらって生きてきたのがこの父の人生よ。……だがな、信之」
昌幸は左手で膳を払うと割れる酒杯の音が響き渡る。
「ここで立たねば、二度と勝機は巡ってこんのだ!」
昌幸は立ち上がり、信之の眼前へ歩み寄ると、その胸ぐらをつかまんばかりの迫力で身を乗り出した。
「信玄も、謙信も、信長も死に、ようやく秀吉までもが死んだ。乱世の傑物どもはことごとく消え去った。そして今、徳川の若造が天下をすっぽり呑み込もうとしている!あの傑物らに比べれば秀忠など、どうということはない。この千載一遇の好機に指をくわえて見ていろと言うのか! これが生涯最後の……わしの大バクチよ!」
「父上……!」
「『我、人を背けども、人我を背かせじ』——!!」
昌幸の凄絶な咆哮が、城の鴨居を震わせた。
「亡き信玄公はよくおっしゃられていた。何人が裏切り者と蔑もうが、天下を敵に回そうが構わん! 我は何度人を裏切ろうとも、人にわしを裏切らせはせん!家康の喉首を喰い千切りさえすれば天下はわしに転がり込んでくる。やっと掴んだ好機、誰にも渡さんぞ!」
圧倒的な父の執念と毒気に、信之は息を飲んだ。この男は、本気で徳川と心中する気だ。
昌幸は荒い息を吐きながら、ふっと表情を和らげると、静かに信之の肩に手を置いた。
「……だがな、信之。真田の血と名を、この世から絶やすわけにもいかん」
「……え?」
「お前は徳川につけ」
昌幸の目は、冷徹な軍師のそれに戻っていた。
「俺と幸村は三成と共に立つ。お前は徳川に尽くせ。……天下がどう転ぼうと、どちらかが勝ち、どちらかが敗れる。その時は……生き残った方が、全力で敗れた者の命を乞い、救い出すのだ。良いな、信之」
信之の目から、溢れ出る涙が畳を濡らした。
父の狂気と、その裏に秘められた血脈への凄絶な慈愛。信之は固く拳を握りしめ、低く答えた。
「……承知いたしました。たとえどのような泥をかぶろうとも……真田の家は、私が守ってみせます」
数日後、伏見城の徳川陣営に、参陣した真田信之の姿があった。
謁見の間にて、徳川秀忠は信之と対面した。
その傍らに座す家康の眼光は、まるで信之の臓腑まで見透かそうとするかのように鋭い。
「真田伊豆守(信之)。昌幸殿が上田にて不穏な動きを見せているとの報が入っておるが……貴殿も同心するつもりか?」
信之の義父である本多忠勝が慌てて助け舟を出そうとする。
「殿、信之に限ってそのような……」
家康は優し気な表情で語りかける
「わしは信之に聞いておる」
一瞬の静寂。信之は深く平伏し、声を絞り出した。
「父の迷妄、深くお詫び申し上げます。……ですが、この伊豆守、徳川家への忠誠に一片の曇りもございません。父が徳川に背くというのなら、この手で父を討つ覚悟にございます!」
信之の言葉に偽りはない。しかし、その瞳の奥には「真田の家を残す」という悲壮な覚悟が渦巻いていた。
秀忠はしばらく信之を見つめていたが、やがてフッと口元を緩めた。
「父上、良いではありませんか。信之殿の覚悟、真実と受け取る。……信濃への進撃の折には、貴殿を徳川軍の先導役と命ずる。実の父と戦うことになろうが……できるな?」
「ハッ……!」
信之が下がるのを見送りながら、秀忠は冷ややかに呟いた。
(どれだけ好条件で釣ろうとしても、調略に決して靡かなかった。家を割ってでも利用する……。昌幸め。表裏比興の者とはあやつのことよ。お前がどれほどの謀略を巡らせようと、所詮は寡勢。戦わなければいいだけよ)
秀忠の胸中には、前田を無血で屈服させ、真田を分断したという確かな手応えがあった。
しかし——。
江戸城へ向かう芳春院の豪華な行列が、伏見の街並みを遠ざかっていく。
伏見城の櫓の上に立つ秀忠は、東西に広がる空を見上げていた。
(西の前田は抑えた。……だが、佐和山の三成、上田の昌幸、奴らは会津の上杉景勝と共謀し、私を中山道の深山へ引きずり込むつもりか。繋いでいるのは幸村あたりか)
秀忠の手には、会津の上杉が軍備を急増させ、街道を整備しているという報告書が握られていた。
「兼続の挑発、真田の足留め、三成の挙兵……。見事な連動だ。だが、その誘い……乗ってやろうではないか」
秀忠の目に、宿敵を打ち破らんとする猛烈な闘志が宿る。
同じ頃。
信濃・上田城の夜明け。
地図を前に、酒を汲み交わす昌幸と幸村の姿があった。
「父上……兄上は徳川の陣営へ入られました」
幸村の言葉に、昌幸は満足そうに目を細めた。
「これで良い。これで真田は絶対に滅びん。……さあ秀忠め、化けた真似をして調子に乗るなよ。お前が中山道へ踏み込んだ瞬間、この上田城を、お前の生き地獄にしてやるわ」
昌幸の不敵な笑い声が、朝靄に包まれた上田の山々に木霊した。
東へ動く家康と秀忠の「会津征伐」。
佐和山で息を潜める三成の「毒」。
そして中山道で待ち受ける真田昌幸の「罠」。
天下を二分する大戦に向け、時は刻一刻と迫っていた。
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