第33話 兄として
慶長四年(一五九九)三月四日
伏見城下、徳川屋敷の一室。
重い唐紙が締め切られ、ろうそくの火揺らぎだけが室内の影を濃く落としていた。
「……石田殿。貴方はここで一言も喋らず、私に命を預けていただく」
徳川秀忠の静かだが冷ややかな声が、静寂を切り裂いた。
七将の刺客による包囲網を潜り抜け、窮地を脱するために秀忠のもとへ乗り込んできた石田三成は、床に座したまま不敵に唇の端を上げた。
「……私に、公の場で弁明の機会を与えぬ、ということか」
「当然です。貴方がひとたび口を開けば、その筋道の立った理屈で盤面がまた裏返りかねない。私にとって最大の危険は、加藤殿らの刃ではなく、貴方の『口』だ」
秀忠は表情ひとつ変えず、小姓たちに指図して部屋の襖を外側から立て切らせた。完全なる幽閉である。
三成を情報から遮断し、政治的発言権を完全に奪い去る——秀忠の徹底した冷徹さに、三成は暗がりの中で静かに目を閉じた。
(徳川の若き狸め……徹底しておる)
三成を閉じ込めた秀忠は、すぐさま闇に乗じて使者を走らせていた。
向かわせた先は、伏見城内の北政所(寧々)の居所である。
「朝鮮渡海の将らの困窮、兵糧の欠損、そして伏見に満ちる血の匂い……このままでは豊臣の家臣同士が互いを喰らい尽くします。どうか明朝、公の裁定の場へお立ち会いいただきたい」
秀忠の手回しは、夜の静寂の中で完璧に組み上げられていった。
翌朝。五大老・奉行衆合同会議の場は、異様な殺気と不穏な空気に包まれていた。
「三成を佐和山へ蟄居させるだけで済むと思うてか! 我らの怨嗟、朝鮮での飢え、渡海の費用……誰がそれを正すのだ!」
浅野長政が拳を畳に叩きつけ、怒号を上げる。前田玄以はオロオロと周囲を見回し、増田長盛、長束正家は沈黙を守ったまま額に汗を浮かべていた。
その殺伐とした静寂を破るように、重厚な絹の擦れる音が響いた。
「……皆々、静かに召されよ」
高台院——寧々である。
乱世を太閤秀吉と共に駆け抜けてきた豊臣の母が姿を現すと、荒々しい大名たちの一同が一斉に平伏した。
その横で、徳川家康が静かに口を開く。
「北政所様の御前なれば、某よりひとつ、この混乱を収める道筋を進言いたしたい」
家康の提示した案は、驚くほど洗練されたものであった。
一、石田三成の奉行職の辞職および佐和山への隠居。
一、空席となる奉行筆頭には、浅野長政殿が就くこと。
一、加藤清正ら武断派の兵糧・渡海費用の欠損については、亡き太閤様のご遺愛の蔵より、北政所様のお手元を経由して諸将へ融通・手当てすること。
長政を奉行筆頭に据えることで寧々の顔を立て、武断派の感情を宥める。そして何より「徳川の私利」ではなく「亡き太閤と北政所の慈愛による資金融通」という綺麗な大義名分を打ち立てたのだ。裏でその豊臣蔵の運用と実権を握るのは、当然徳川である。
「これはあくまでも、亡き太閤様と北政所様からの救済。であらば、皆納得して刃を引くでしょう」
家康の言葉に、浅野長政はぐうの音も出ず、深く頭を下げた。時代の潮流が徳川へ傾いていく不可逆の現実を、奉行衆は苦汁を舐める思いで噛み締めていた。
裁定が決し、一同が平伏する中、寧々が静かに立ち上がった。そして、部屋の隅に控えていた秀忠の前で足をとめ、静かにその目を覗き込んだ。
「秀忠殿……」
寧々の声は低く、しかしその場にいた全員の鼓膜へ澄み渡るように響いた。
「そなたは秀頼の……ひいては豊臣の……『兄』でもあるのです。……決して、無体になさらぬように」
清正らは「北政所様も徳川を豊臣の頼もしい見守り役として託された」と胸を撫で下ろした。
しかし、当の秀忠の背筋には、冷たい汗が噴き出していた。
(『兄』であれ……と。私が豊臣を喰らおうとする底意、すべて見抜かれている……!)
一方、徳川屋敷の奥間に幽閉されていた三成のもとへ、密かに嶋左近が滑り込んできた。
「殿……会議が終わりました。北政所様のお立ち会いのもと、殿の佐和山への隠居と、浅野殿の奉行筆頭就任が決まりました」
三成は一切の弁明の機会を奪われたまま、天下の裁定が下されたことを知った。
だが、その顔に悔しさや無念の色はなかった。三成は低く、不敵に笑った。
「くく……北政所様まで担ぎ出したか。……見事だ、徳川の若き狸め。公の場で私に一口も喋らせぬ徹底ぶり、手回しの完璧さ……恐れ入ったぞ」
三成は立ち上がり、静かに着物の埃を払った。
「左近。佐和山へ戻るぞ。……秀忠という真の敵の恐ろしさ、この目にしかと焼き付けたわ」
その夜。伏見の徳川屋敷の書斎にて、秀忠は一人、寧々の言葉の重みに押し潰されそうになっていた。
そこへ、甲冑を身に纏った一人の武将が入ってきた。
結城秀康——
家康の次男であり、かつて秀吉の養子となり、今は結城家を継ぐ、秀忠の腹違いの実兄である。
「三成殿を佐和山へ送り届ける護衛の任、しかと引き受けた。……どうした秀忠、冴えぬ顔をしているな」
秀忠は酒器を手に取り、静かに兄を見上げた。
「……兄上。お発ちの前に、一つだけ……お聞かせ願いたいことがございます」
「なんだ」
「……『兄』とは、何なのでしょうか」
秀忠の問いに、秀康は一瞬驚いたように目を細めた。
「北政所様は私に『そなたは豊臣の兄でもあるのだから』とおっしゃった。徳川の跡目を継ぐこの私に、豊臣の兄であれと。……私には、その言葉の真意が重すぎるのです」
秀康は静かに盃を置き、どこか遠い目をして自嘲気味に笑った。
「……信康兄上のことを、覚えておるか」
秀忠の息が止まる。若くして切腹を命じられた、父・家康の長男、松平信康の名。
「お主が生まれたばかりの頃のゆえ、記憶も薄かろう。……信康兄上は見事なお方であった。武勇に長け、気品に満ち……まさに徳川の未来を照らす『完璧な兄』であったよ。……だが、その凄絶な輝きゆえに命を落とされた。……残された俺は、長男の代わりとして太閤様の元へ養子に出され、やがて結城の家へ追い払われた」
秀康の鋭い視線が、秀忠の胸を射抜く。
「信康兄上が『良い兄』であったか……また、追いやられたこの俺が『良い兄』であったか……そんなものは、自分自身で決めるものではない。後世の者が、あるいは残された弟達やお前がどう受け止めるかだけの話だ」
「…兄上……」
「だがな、秀忠。俺が信康兄上の背を見て学んだ答えがひとつだけある。……兄とは、『弟の代わりに傷を負い、盾となる存在』だ。信康兄上がおればこそ、父上や俺が生き残り、俺が豊臣へ差し出されたからこそ、お前が徳川の真っ当な跡継ぎとして育つことができた」
秀康は立ち上がり、秀忠の肩を強く叩いた。
「北政所様のおっしゃる『豊臣の兄』も同じよ。豊臣の幼子が至らぬ時、代わりに泥を被り、代わりに天下の重荷を背負ってやれということだ。……だが秀忠、もしお前が『兄』として豊臣のすべてを包み込んで超える覚悟を持たぬまま、ただ力で叩き潰せば……お前は信康兄上とも俺とも違う、ただの『弟を喰らう兄』として歴史に名を残そうぞ」
秀忠は言葉を失い、深く息を吐き出した。
陰湿な策謀で三成を追い詰めた気になっていた自分がいかに小さかったか。徳川の血脈の歴史と、天下を背負う者としての覚悟が、秀忠の胸の中で静かに、そして強固に固まっていった。
「……肝に銘じます、兄上」
「フッ、ならば俺は、その『兄』の務めとして、お前が佐和山へ追いやる三成殿を無事に送り届けてやるとしよう」
秀康は誇らしげに笑い、部屋を後にした。
七将の刺客を警戒しつつ、佐和山へと向かう道中。夜の宿陣にて、秀康は無言で三成の護衛を続けていた。道中、三成は静かに秀康へ歩み寄り、腰の刀を抜いて差し出した。
「……結城殿。この旅の護衛、心より感謝する。これは礼だ」
受け取った秀康が刀を鞘から走らせると、鈍い銀光が闇を切り裂いた。天下の名刀「正宗」である。
「……これほどの業物を、俺に?」
「貴殿は徳川ゆかりの者でありながら、武士としての矜持を持ち、私を誠意をもって護られてくれた。……秀忠殿の兄が貴殿であったこと、豊臣にとっても徳川にとっても救いであったな」
三成の言葉に、秀康は静かに頷き、刀を鞘へ納めた。
「かたじけない、三成殿。生涯の宝としよう」
二人は言葉少なく互いの目を見つめ合い、武士としての深い絆を交わした。
*
数日後。
三成は、主の留守を守り抜いていた佐和山城の天守に立っていた。
眼下に広がる琵琶湖の湖面は、夕日に染まって赤く輝いている。三成は遥か東、伏見と江戸の方角をじっと見つめた。
「秀忠……お前が豊臣を包み込むか、それとも『豊臣を喰らう狼』となるか……」
三成は静かに拳を握りしめた。
「……佐和山にて、見極めさせて貰う。もし狼となるならば……その喉笛を噛み切る毒を、この佐和山で研ぎ澄ますまで!」
乱世の嵐が去ったのではない。
関ヶ原という、天下を分かつ巨大な盤面への準備が、いま静かに始まったのだった。
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