第30話 極寒の血文字 —蔚山(ウルサン)の断層—
本日から第4章スタートです!
時間は少し遡る。
慶長二年(一五九七)十二月、朝鮮国・蔚山。
雪が、刃のように皮膚を削ぎ落としていく。
完成を急ぐ突貫工事の城郭は、凍てつく突風と、明・朝鮮連合軍五万超の大軍に晒されていた。
「水を……水ぉよこせ……」
兵のひとりが、血混じりの唾液を吐き出しながら崩れ落ちる。
水など、一滴もない。十日以上に及ぶ凄惨な籠城戦。米も底を突き、1万余の将兵達は城壁の土を掘り返して口に含み、死んだ馬の肉を生のまま喰らい、その喉をうるおすために馬の血や尿を吸った。
氷点下の暴風が吹く城上で、加藤清正は擦り切れた甲冑に身を包み、鋭い眼光で敵陣を睨みつけていた。唇は裂け、頬は痩せこけている。
「耐えろ! 明日まで耐え抜けば、必ず援軍が来る!」
清正の言葉通り、慶長三年一月四日、事態は劇的に動いた。
西生浦や梁山から、毛利秀元、黒田長政、蜂須賀家政らの救援部隊が雪原を蹴立てて怒涛のごとく駆けつけたのだ。
「今ぞ! 城門を開けいっ! 敵の背を突けぇぇ!」
死に体と思われていた清正・浅野幸長らの籠城軍が城内から打って出ると同時に、陸と海から来援した日本軍が一斉に明・朝鮮軍を挟み撃ちにした。
潰走を始める敵軍。長政や家政らの手勢、そして飢餓の極限から蘇った清正の兵たちは、潰走する敵を凄絶な執念で追撃した。潰れた敵の陣列になだれ込み、斬首された敵兵の数は数千に及んだ。極寒の地獄を耐え抜き、乾坤一擲の反撃で大勝利を収めた——誰もがそう確信していた。
——だが、その勝利の血煙の中に、一人の男が足を踏み入れた。
豊臣家の軍監——福原長堯。
石田三成の義弟であり、太閤・秀吉の命を受けて現場の監察を担う行政官である。長堯は、追撃から戻り、互いの健闘をたたえ合う清正や長政らのもとへ詰め寄った。その顔には、労いの色など微塵もなかった。
「加藤主計頭! 黒田甲斐守! いかなるお覚悟か!」
長堯の怒号が、凍てつく陣中に響く。
「上様の許しもなく深追いを敢行し、無用な流血を重ねるとは何事か! そればかりか、戦線を勝手に後退・縮小しようなどと論じ合うとは、明確な軍規違反であり、不法・怯懦の至り!」
血煙と汗に塗れた長政が、信じられないものを見る目で長堯を睨みつけた。清正はゆっくりと振り返り、血走った目で長堯を見据えた。
「……軍規だと? 死線を潜り抜け、命がけで敵を追い散らして勝利を掴んだ我らに、貴様は書物の上の軍規を突きつけるのか」
「語らねばならぬ!」
長堯もまた、引き下がらなかった。その目には切迫した危機感が宿っていた。
(加藤殿らは、大坂の治部(三成)殿がどれほどの思いで居られるか分かっていない! 病床で正気を失いつつある太閤様と、底を突きかけた豊臣の蔵の間で、血の小便を流しながら苦心しておられるのだ! 現場の貴様らが勝手に戦を広げ、無用な手柄を主張してみろ! 豊臣の財政は破綻し、秀頼様の御代が始まる前に豊臣家は潰れてしまう!!)
長堯とて悪意で言っているのではなかった。大坂で一人、莫大な軍費と帳簿を前に押し潰されそうになっている三成の苦痛を、誰よりも理解していたからこその叫びであった。
だが——今日、目の前で仲間を失い、馬の血を飲んで命を勝ち取った現場の武士たちに、大坂の「帳簿の都合」が届くはずもなかった。
「……黙れ」
清正の低い声が響いた。
「大坂で温々と墨をすっている奴らの都合など知ったことか! 今、ここで流れた血を……命がけで立てた手柄を、数字一つで踏みにじる気かぁっ!」
「なっ、何をする——ぐはっ!?」
清正の放った拳が、長堯の鼻柱にめり込んだ。
鮮血が白雪を赤く染める。興奮した武者たちが長堯に取りすがり、泥の中へと引きずり倒した。
「手討ちにせんだけ感謝しろ!」
「あの石頭に言っておけ! 我らは豊臣のために血を流したのだとな!」
無数の足で踏みつけ、蹴り飛ばされ、顔面を腫れあがらせた長堯は、泥と雪に塗れながら倒れ伏した。自尊心をズタズタに打ち砕かれた長堯の胸に、煮えくり返るような執念が芽生えていた。
(許さぬ……! 命を懸けて豊臣の法と財政を守ろうとする治部殿を、このような野蛮な者どもに愚弄されてたまるか……!)
長堯は震える手で己の傷口から溢れ出る血を指につけ、破り取った着物の布きれに乱れた血文字を走らせた。
『加藤・黒田・蜂須賀ら、追撃の過ちを犯し、戦死者を増やせり。その所業、怯懦にして軍律を乱すこと甚だし——』
怒りと怨念が込められた血文字の告発状。それは大坂の三成のもとへと送られ、三成に「豊臣の法を守るため、清正らを処分せざるを得ない」という決定的な引き金を引かせることとなったのである。
慶長三年(一五九八)冬。伏見。
太閤・秀吉が世を去り、渡海していた大名たちがボロボロになって日本へ帰投した。
だが、彼らを待っていたのは温かい労いでも、追撃戦で立てた莫大な手柄に対する加増でもなかった。長堯らの報告を受けた三成により、「軍規違反」として手柄をすべて揉み消され、逆に譴責や不給という冷酷な処分が下されたのだった。
伏見の陣屋。加藤清正と福島正則、黒田長政らは、酒を煽りながら荒れていた。
「俺たちが……命を投げ打って掴んだ勝利が、なぜ揉み消されるのだ……!」
正則が盃を床に叩きつける。清正もまた、冷えた手を見つめたまま固く歯噛みをしていた。
そこへ、葵屋の茶屋清次(十一歳)が、厚みのある大福帳(帳簿)を抱えて現れる。
「加藤様、福島様。渡海よりのご無事のご帰投、心よりお慶び申し上げます。……本日は、渡海に際してお貸し付けいたしました借財に関する返済のご相談に上がりました」
「……なにぃ?」
「石田治部少輔様より『今回の出兵において加藤・福島・黒田ら各家には公金からの恩賞・軍費補填は一切出ぬ』との公文書が回ってまいりました。……左様な事情となりますと、葵屋といたしましても、お貸し致しましたものは皆様から直接、回収させていただくほかございません」
静まり返る部屋。
清正らの顔から、一瞬で血の気が引いた。手柄を奪われただけでなく、莫大な「借金」だけが残り、両家は破産寸前の絶壁に立たされたのだ。
「治部……! 石田三成ぃぃぇぇぇっ!!」
正則の咆哮が、伏見の夜空を切り裂いた。
三成への不満は、己の誇りを踏みにじり家を滅ぼそうとする男に対する、絶対の殺意へと昇華していたのである。
——その頃。
伏見の徳川陣屋の奥で、徳川秀忠は静かに算盤を弾いていた。
パチ、パチ、と澄んだ竹の音が響く。
「……清次から報告が入りました。加藤、福島らの怒りは頂点に達しております」
影の中から姿を現した柳生宗矩が、低く囁く。
「そうか」
秀忠は算盤から手を離さず、淡々と頷いた。
「三成殿は豊臣の法と財政を守るために正しくあろうとし、清正らは武士の誇りと家を守るために激昂する。……誰も間違ってはいない。だからこそ、この亀裂は二度と埋まらぬ」
秀忠の指が、算盤の玉をひとつ、静かに弾き上げた。
「……さて。仕上げの仕掛けに取りかかるとしよう」
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