幕間 活人剣と算盤
慶長三年(一五九八)秋。伏見城で太閤・秀吉が没し、天下の均衡が静かに揺らぎ始めていた頃。
伏見の徳川陣屋の奥間。徳川秀忠は、静まり返った室内でパチリと算盤の珠を弾いていた。
「……太閤殿下が亡くなられた。これより始まるのは、槍や鉄砲の戦ではない。情報と金、そして人心の隙を突く暗闘だ」
秀忠が呟いたその時、側近が静かに一通の書状を差し出した。豊前の黒田官兵衛(如水)からの極秘の推挙状である。
案内されて室内に入ってきた男の姿を見て、秀忠は思わずの手を止め、ふっと口元を緩めた。
「……ほう。そなたはあの時の……」
そこに立っていたのは、かつて大和の竹林で偶然に出会い、ただならぬ眼光で見つめてきた男――柳生宗矩であった。
「お久しぶりにございます、若君。……いえ、徳川秀忠様」
宗矩は深々と頭を下げた。秀忠は官兵衛からの書状に目を落としながら、冷ややかに問う。
「……喰えぬお方だな、官兵衛殿は。太閤検地で領地を奪われ、路頭に迷ったお主たち柳生を自家で抱えれば、『不満分子を集めて謀反を企んでいる』と太閤様に疑われる。だからこそ、わが徳川へ押し付けて大きな貸しを作ろうという寸法か」
「流石は秀忠様。ですが……半分は当たり、半分は外れにございます」
宗矩は顔を上げ、その鋭い瞳を真っ直ぐに秀忠へぶつけた。
「わたくしが今こうして徳川の門を叩いた真の理由は……亡き千利休宗匠の遺志にございます」
「……利休だと?」
「左様。官兵衛様も、亡き利休様も、そしてわが柳生も……茶の湯や異国の教え(キリシタン)を通じ、言葉にならぬ深き絆で結ばれておりました。利休様が切腹に追い込まれた折、官兵衛様に遺された言葉がございます。『秀吉様は力と金で天下を縛ろうとした。だが、力で縛ったものは力で崩れる』と」
宗矩の言葉に、秀忠の眉がぴくりと動く。宗矩は静かに言葉を重ねた。
「あの竹林での出会いは、単なる偶然ではございませぬ。官兵衛様より『利休様の無念を晴らし、戦なき世を作る器は、伏見の大震災で“歌”をもって公家と民の心を救ったことをもって確信となった。やはり我らの今後をお任せ出来るのは、徳川の若君ただ一人だ』と伺い、わたくし自身が改めてその器量を確かめしに参ったのです」
「……ふっ、恐ろしい老いぼれどもめ。私を利休殿の仇討ちの道具にする気ですか?」
秀忠は毒づきながらも、どこか満足げに冷たい微笑を浮かべた。大和での「出会い」が、実は千利休の遺志と官兵衛の深謀遠慮によって引き寄せられた必然であったと悟ったからである。
その後、同席した父・家康の前で、宗矩は新陰流の奥義「無刀取り」を披露した。
木刀を手にした家康が打ちかかるやいなや、宗矩は刃を交えることなくその隙を突き、一瞬で家康の木刀を奪い取ってみせた。
「素晴らしい! まさに神技……これぞ戦なき世の兵法よ!」
感嘆する家康に対し、秀忠は脇で淡々と算盤を弾き続けていた。家康が席を外したあと、宗矩は秀忠に向き直る。
「……秀忠様。わが新陰流の無刀取り、お気に召しませんでしたか?」
「刃を持たずに相手の剣を奪う……見事だ。……だが宗矩殿。私の算盤は『戦をせず、刀も使わず、敵の不満と疑心を煽って国ごと自滅させて奪う』。私の算盤こそが、真の“無刀取り”だとは思わんか?」
宗矩は一瞬呆気にとられたあと、ハハッと声を上げて笑い、畳に両手を突いた。
「……参りました。勝ち目でございませんな。わが柳生の剣、今よりすべて秀忠様の『算盤』の影となりて捧げましょう」
そこへ、葵屋の若き主・茶屋清次(十一歳)が、極秘の書類を抱えて入ってきた。
「秀忠様、柳生様。例の物をお待ちしました」
清次が広げたのは、加藤清正ら武断派大名たちが葵屋から借り入れた膨大な借金証文の控えと、石田三成が発した極秘の物資調達書であった。
宗矩はその書類を目にすると、不敵な笑みを浮かべた。
「……なるほど。肥前の加藤清正殿の焦りと、石田三成殿の生真面目さ……。この借金の督促と三成殿の手紙に少し手を加えて噂を流せば、武断派の者どもは『三成が自分たちを陥れようとしている』と激高し、三成殿を殺しにかかるでしょうな」
「ふふ、葵屋は金と物流を動かします。柳生様はその『心の隙間』を突いて噂を撒いてくださいませ」
十一歳の少年と二十八歳の剣豪。表の経済データと裏の暗殺・噂の拡散工作が、秀忠の算盤の上で完璧に融合した瞬間であった。
「……まあ。またこの幼子と剣豪を巻き込んで、恐ろしい企みをなさっておられますのね」
侍女と共にお茶を運んできた江が、呆れたように腰に手を当てて入ってきた。後ろからは小姫もクスクスと笑いつつ腕には生まれたばかりの千姫を抱き、あやしながらついてくる。
「祝言の夜に『生涯傍におれ』と仰った格好いい御前様は、どちらへ行かれましたの?」
「……余計な口を挟むな、江」
秀忠は少し決まずそうにお茶をすするが、その胸の奥には不思議な安らぎがあった。
江の勝ち気なツッコミと小姫や千姫の温かな眼差し。そして清次と宗矩という最強の「表と裏の飛車角」。
秀忠は伏見の夜空を見つめ、静かに呟いた。
「太閤殿下が死んだ。……だが、戦をせずして豊臣を内側から自滅させる算段は、すべて整った」
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