第29話 醍醐の花吹雪と難波の夢
慶長三年(一五九八)三月。京都・醍醐寺。
爛漫と咲き誇る七百本の桜の下、太閤・豊臣秀吉が人生最後に催した「醍醐の花見」が華々しく行われていた。
絢爛豪華な金の屏風、着飾った数百人の女たちの行列。だが、その狂い咲く桜の宴の隅で、十九歳の徳川秀忠は冷ややかに算盤を弾くような眼差しで杯を傾けていた。傍らには、妻の江が静かに寄り添っている。
「……華やかであればあるほど、どこか寂しい花見でございますね、殿」
「金で買い集めた桜に、人は心を残さん。太閤殿下は己の迫りくる死を恐れ、豊臣の虚飾を天下に見せつけているに過ぎんのだ」
秀忠が淡々と応じたその時、遠くで鼓の音が鳴り響き、土色の顔をした秀吉が三歳の秀頼の手を引いて歩み寄ってきた。かつて日本中を呑み込んだ覇者の面影はなく、痩せ衰えた足取りはおぼつかない。
「……秀忠……秀頼を、頼むぞ……。わしの死後、この子を守ってくれるのは……徳川だけじゃ……」
縋るような眼差しを向ける秀吉に対し、秀忠は迷うことなくその痩せこけた手を両手で優しく包み込み、深く首を垂れた。
「……太閤殿下。どうかご安心ください。私にとって殿下は……父・家康、義父・常真を凌ぐ最も偉大な『三人目の父』。この秀忠の命に代えましても、秀頼様をお守りいたします」
「おお……! 三人目の、父……! 聞いたか秀頼、秀忠は……お前の兄も同然じゃ……!」
涙を流して喜ぶ秀吉の横で、側室の茶々(淀殿)だけが、冷ややかな氷のような瞳で二人を見つめていた。
それからわずか五ヶ月後の八月。伏見城の奥深き病床で、秀吉の命数はついに尽きようとしていた。
死期を悟った秀吉は激しい苦痛と混濁する意識の中で、人払いを命じた。暗い室内に残されたのは、看病の体で控える茶々だけであった。
「殿……!! 見ておられますか、信長様……!」
突然、秀吉が血を吐くような叫び声を上げた。
「わしは……天下人になりたかったわけではにゃあ!信長様の世が見たかっただけだで!!だぎゃあ、この猿めは殿の夢を叶え、貴方様をも超えたわ! 天下一統を成し遂げ、日輪の頂に立ったわ!
……だのになぜ……なぜ皆、わしではなく貴方様の幻影ばかりを追うのだ……! わしは……わしはもうただの猿ではにゃあ……!」
天下人の内に秘められた、亡き織田信長への歪んだ屈折と執着。秀吉は虚空を掻きむしり、次に幼子のように咽び泣いた。
「小一郎(秀長)……なんでわしより先に死んでまったんだて……! おみゃあ(前)がおったら……朝鮮の苦戦も、利休の切腹も、こんなことにはならんかったんだぞ……! わしに説教して、正面から叱ってくれる奴なんか……もうどこにもおらんのだで……!」
弟・秀長を失って以来抱え続けてきた、あまりにも深い孤独。
秀吉は震える手で傍らに立つ妻・茶々の裾にすがろうとした。
「……茶々よぅ……助けてくれ……わしを、置いて行くな……」
だが、茶々はすっと衣を引き、哀れな天下人の手を冷たく払い落とした。
「……見苦しいですよ、猿。」
茶々の口から漏れ出たのは、氷のように冷酷な刃の言葉であった。
「お前は小谷と北ノ庄を焼き、母(市)と二人の父を殺したわたくしの仇。……秀頼を産んだのは、豊臣の権力をすべてわたくしのものにするため。……今こそ、浅井と織田の怨みを晴らす時が来ました」
「な……茶々……お前まで、わしを……裏切るのか……!」
絶望に打ちひしがれ、息を詰まらせる秀吉。
茶々は狼狽する秀吉の耳元に顔を近づけ、なおも囁く。
「おぉ臭い。猿の臭い、死の臭いじゃ……。母に、父上に、これまでお前が殺してきた人々に呪われながら逝くといい!」
その絶望の底で、秀吉の混濁した脳裏に浮かび上がったのは――微動だにせず、ただ静かに、誠実な臣下として己を見つめ続けていた秀忠の姿であった。
「あ……あ……秀忠……!」
茶々にも裏切られ、すべてを失った秀吉の目には、その秀忠の姿が「この汚濁にまみれた世で、唯一己を偽らず、三人目の父と慕ってくれた最良の律儀者」に見えた。
「秀忠ぁ……! 秀忠はおるかぁ……! わしの……わしの誠の息子よ……! 秀頼を……豊臣を……頼む……頼ぉ……」
秀吉は虚空へ向けて必死に手を伸ばし、秀忠の名を叫びながら、苦悶の表情の奥にどこか救いを得たような歪んだ笑みを浮かべ――そのまま息を引き取った。
享年六十二。天下人・豊臣秀吉の落日であった。
「往生際の悪い猿め……」
静まり返った部屋で茶々が秀頼を抱いて立ち去ったあと、入れ替わるように控えていた秀忠と江が、静かに襖を開けた。
幽玄な水墨の山水――その墨色の闇の中に、黄金の五七桐紋がまるで狂い散る桜吹雪のように浮かび上がる障壁の向こうに、豪奢な布団からはみ出し、苦悶と歪んだ笑みを残したまま横たわる秀吉の亡骸があった。
それを見た江は、あまりの痛ましさに声を震わせた。
「……太閤殿下は、殿を『誠の息子』と信じ切って召されましたわ……」
秀忠は静かに秀吉の瞼を閉じさせ、ゆっくりと立ち上がった。その瞳には、一切の揺らぎも惑いも存在しなかった。
「……信じさせたのだ。それが、わしの弾いた算盤だ。天下人の哀れな最期に、せめてもの救いを与えてやったまでに過ぎん」
秀忠は伏見の夜空を見つめ、静かに拳を握りしめた。
「太閤は逝った。これで、豊臣の抑えは完全に消えた。……江、これより徳川が、すべての盤面を書き換える」
巨星墜つ。天下の均衡が崩れ去り、関ヶ原へと続く動乱の扉が、静かに押し開かれたのだった。
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