第28話 慶長の泥沼と筑前の若者
大地震からの復興を願うかのように文禄から慶長へと年号が改められた慶長二年(一五九七)。
伏見の徳川陣屋には、新生活の温もりと、天下を覆う暗雲が同時に立ち込めていた。
「よしよし……千、よい子だ」
奥御殿の静かな室内。十八歳になった徳川秀忠は、愛おしそうに腕の中の小さな命を見つめていた。
この年、妻・江との間に生まれた長女――千姫である。
普段は冷徹な算盤弾きとして表情を崩さない秀忠が、赤子を前に見せる穏やかな眼差し。傍らでそれを見つめる江は、ふっと満足そうに微笑みを浮かべた。
「……天下を算盤で弾く殿も、わが子を前にしては形無しでございますわね」
「……余計な口を挟むな、江。この子の行く末に、血の雨を降らせるわけにはいかん。そのためにも……いま、盤面で完全に終わらせねばならんのだ」
秀忠の瞳の奥に、すっと冷ややかな知謀の光が戻る。
この頃、伏見城の太閤・秀吉の暴走は極まりつつあった。
前年に起きたサン=フェリペ号事件を発端とするキリシタン弾圧(二十六聖人の処刑)をはじめ、秀吉は衰えと恐怖から激しい狂気へと落ち込んでいた。さらに和議を反故にし、朝鮮への再出兵――「慶長の役」を命令。日本中が再び地獄の泥沼へと引きずり込まれていたのである。
そこへ、葵屋の若き主・茶屋清次(十歳)が極秘の報告書を抱えて入ってきた。
「秀忠様、朝鮮渡海陣からの知らせでございます」
清次が差し出した書状を目にし、秀忠は冷ややかに鼻を鳴らした。
蔚山などでの激戦で、加藤清正や浅野幸長らは補給も絶たれ、飢えと極寒の中で極限の死闘を強いられていた。にもかかわらず、大坂城で算盤を弾く石田三成らは現地の実情を無視し、落ち度ばかりを秀吉に報告して処罰を煽っていた。
「清正殿らの不満は、もはや怒髪天を衝く勢いです。葵屋の物流網を使い、清正殿らへ極秘で兵糧と資金を回しつつ……『大坂の三成殿が物資を独占し、貴殿らを殺そうとしている』という事実を仄めかしておきました」
「でかした、清次。武断派(加藤清正ら)と文治派(石田三成)の溝は、これで二度と埋まらぬ。太閤殿下が亡くなれば、清正らは自ら三成の喉元へ刃を突き立てるだろう」
秀忠の冷徹な計算通り、豊臣家を内側から崩壊させる裂け目は、決定的な深さへと達していた。
だが、秀忠の狙いはそれだけではなかった。
この年の年末、秀忠の罠に飛び込んできた「最大の駒」があった。小早川秀秋(十五歳)である。
朝鮮での戦功を三成に不当に低く評価され、秀吉の激怒を買った秀秋は、筑前三十万石を取り上げられ、越前へ実質的な減封・失脚を言い渡されようとしていた。
太閤の養子であり、北政所の甥でもある高貴な若君が、あまりの不条理に伏見の夜の街で絶望に打ちひしがれていた。
伏見陣屋の暗がりで、秀忠は一人佇む十五歳の秀秋の前に静かに姿を現した。
「……小早川殿」
「……徳川の……若君……? なぜ、このような場所に……」
怯える秀秋に対し、秀忠は冷ややかだが、妙に心の奥に染み渡る穏やかな声で語りかけた。
「太閤殿下をお恨みなさるな。殿下の目を曇らせ、貴殿を落としめようとしているのは……大坂で算盤を弾いている『あの男(三成)』にございます」
「三成……! あ奴が、わしを……!」
「ご安心召されよ。わが父・家康が、太閤殿下をお宥めし、貴殿の筑前の領地と誇りを必ずや守って差し上げます。……徳川は、理不尽に虐げられる者を見捨てはいたしません」
後日。秀忠の手回しを受けた徳川家康の執拗な嘆願により、秀吉はついに折れ、小早川秀秋の処罰は無事に撤回された。
伏見城の奥小路。知らせを受けた北政所(寧々様)は、人目を避けるようにして家康を招き入れ、深々と頭を下げた。
「内府(家康)殿……感謝の言葉もございませぬ。あの子(秀秋)のみならず、清正や正則といった尾張ゆかりの子供たちの危機を、いつも救ってくださるのは貴方様だけ……。もし内府殿がおられねば、あの子らは三成に追い詰められ、身を滅ぼしておりましたでしょう」
目元を濡らす北政所に対し、家康は腹の底の読めない穏やかな破顔を浮かべて見せた。
「滅相もございませぬ、北政所様。わたくしめはただ、太閤殿下が命をかけて築かれた豊臣家と、殿下を支えてこられた尾張の若き武者たちが愛おしいだけにございます。……三成殿の生真面目さは時に酷となり、尾張の将らの心を傷つけますゆえ。わたくしが間に入り、太閤殿下の御心が正しき道に戻るよう算盤を弾くのは、徳川の務めにございますよ」
「……内府殿。どうかこの後も……あの子たちを、そしてこの天下を、これからも守ってやってくださりませね」
「ははっ。この家康、命に代えましても」
恐縮するように頭を下げながら、家康の瞳の奥で深謀遠慮の光が怪しく揺らめいた。
北政所に「豊臣を救う慈父」として完全に頼り切らせること自体が、大坂城の茶々(淀殿)と三成を完全に孤立させるための、家康の冷徹な計算であった。
「……まあ。あの哀れな若者を助けたフリをして、見事に徳川の『駒』に仕立て上げられましたのね。本当におそろしい殿だこと」
伏見陣屋へ戻った秀忠を迎えた江は、呆れつつも感心したようにため息をついた。
秀忠は眠る千姫の頬を優しく撫でながら、ふっと薄く微笑んだ。
「助けたのは真実だ。……ただ、いずれ来る『天下の決戦』において、彼奴がどちらに刀を向けるか……その賽を投げただけに過ぎん」
加藤清正ら武功派の爆発寸前の憎悪。そして、のちに関ヶ原の勝敗を握ることとなる小早川秀秋の回収。
秀忠の算盤の上で、天下奪取への巨大なピースが、またひとつ完璧に組み合わさったのだった。
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