第27話 二人の織田姫 —誓いの共犯者—
文禄五年(一五九六)九月。
慶長伏見地震の土煙がまだ収まりきらぬ伏見の徳川陣屋に、ひとつの輿が滑り込んだ。
織田信長の姪であり、豊臣秀吉の養女――江(お江与)。
佐治一成とは政治の都合で引き裂かれ、続く豊臣秀勝とは文禄の役による病死で死別した。二十三歳にして三度目となるこの輿入れの道中、江の胸を占めていたのは、伏見へ発つ直前の大坂城で、姉・茶々から掛けられた冷ややかな言葉であった。
『江、秀忠の元へ行きなされ。あやつの胸を押し開き、秀頼に害をなさぬよう見張るのです。浅井と織田の血を引く我ら姉妹の務め……分かっておりますね?』
(……お姉様は、母上の幻影にとらわれている)
母・お市は、父・浅井長政の死後も織田の誇りを捨てず、最後は柴田勝家とともに自らの意志で北ノ庄城の炎の中に消えた。だが茶々は、父母を死に追いやった秀吉の側室となり、己(豊臣)を傷つけることで過去の無念を晴らそうとしている。江にはそれが、悲しい呪縛に見えてならなかった。
(ただ私が愛した男も、みな去っていく。……また私を置いて死んでしまうのか。それとも捨てられるのか……)
二度夫を失った深い孤独と恐怖。だが、弱みを見せれば立ちすくんでしまいそうな己を包み込むように、江は凛と眉を吊り上げ、勝気な「鎧」に似た白無垢を身にまとって奥御殿へ足を伸ばした。
「お江様……ですか?」
鈴を転がすような声に振り返ると、そこに立っていたのは背が低く、小さな肩をすぼめた少女のような佇まいの女性――小姫であった。
織田信雄の娘であり、秀吉の養女として幼少の秀忠に嫁ぎ、一度は離縁の形をとりながらも、いまは側室として徳川に残る女性である。
「小姫様……。同じ織田の血を引く身として、ずっとお会いしたかったのです」
小姫が可憐な笑みを浮かべて点てたお茶の湯気が昇るなか、過酷な宿命を背負った二人の会話はすぐに打ち解けていった。しかし、江の頑なな強がりの裏にある微かな震えを、小姫の澄んだ瞳は見逃さなかった。
「お江様。三度目の輿入れ……お心が擦り減るほど、寂しくお辛かったでしょう」
図星を突かれ、江は思わず息を呑んだ。素直になれず、意地を張るように言い返す。
「さ、寂しくなど……! 私は織田と浅井の娘。太閤様の命で嫁いだ以上、秀忠という男が豊臣家を裏切る化け物ならば、刺し違える覚悟で来たまで!」
小姫はクスクスと温かく声を上げて笑った。
「ふふっ、やはりお似合いですわ。……秀忠様はね、表では冷たい算盤弾きを演じておられますが、本当はご自分のためではなく、誰も傷つかない世を作るためにあえて『鬼』になっておられるのです」
あの大震災のあと、秀忠が葵屋を使って京の公家や民草を「和歌」で救い出した真実を、小姫は愛おしそうに語る。
「あの方は決して死にませんし、貴女を捨てることもありません。……わたくしのように小さく頼りない身では、あのお方を支えきれません。でも、お江様。貴女のような強いお方なら、きっとあのお方の『熱』を支えられます」
小姫の温もりに触れ、江の孤独は静かに解けていった。だが同時に、この小さく可憐な側室が、夫の最も深い部分を誰よりも知っているという事実に、江の胸の奥でツンとした小さなヤキモチが芽生えていた。
その夜。無事に祝言の儀を終え、伏見陣屋の奥間にはじめて二人きりの静寂が訪れた。
重々しい打掛を脱ぎ、白のくつろいだ衣に身を包んだ江の前に、十七歳の徳川秀忠が静かに座した。昼間の祝言の席で見せていた冷徹な仮面を少しだけ緩め、秀忠は目の前のお茶に手を伸ばす。
「……長時間の祝言、儀式ばかりで疲れたであろう。小姫からも聞いたぞ。昼間、仲良く話していたそうだな」
視線も上げずに淡々とお茶をすする秀忠に対し、江は少し頬を膨らませると、秀忠の前にどかと膝を突き合わせた。
「……小姫様から、たっぷり伺いましたわ。貴方様の“冷酷な仮面”の下の秘密を」
秀忠の手が止まり、ゆっくりと顔を上げる。江はその冷徹な眼差しを真っ直ぐに見つめ返した。
「太閤様も姉上も、私を徳川を縛る『枷』として送り込みました。……ですが、私は誰の道具にもなりません! 二度も夫を失った私が、三度目の祝言の夜に選ぶのは……自らの意志で歩む道です。小姫様とともに、貴方様が創る『次の世』を一番近くで見届けさせていただきますから!」
寂しさを勝気な鎧で隠し、夫婦となった初夜に真っ直ぐに挑んでくる江の姿に、秀忠は一瞬呆気にとられた。そして、ふっと薄く苦笑を漏らし、冷めたお茶を畳の上に置いた。
「……小姫のやつめ、余計なことを」
「余計なことではありません! それに……小姫様ばかりが貴方様の秘密を知っておられるなど、私は面白くありませんからね!」
ぷいっと横を向く江の可愛らしいヤキモチに、秀忠の胸の奥で、長年氷のように冷えていたものが温かく溶けていくのを感じていた。秀忠は静かに手を伸ばし、江の袖を優しく引き寄せた。
「……そうか。ならば覚悟しておくことです。わしの歩む道は、太閤を呑み込み、天下を塗り替える茨の道だ。……お前を途中で死なせも、捨てもせん。我が妻として、生涯傍におってくだされ」
その言葉に、江の瞳に溜まっていた過去の孤独が、静かに一滴の涙となって頬を伝った。江は強い眼差しで頷き、微笑んだ。
「望むところにございますわ、秀忠殿!」
大地震の傷跡が残る伏見の夜。
冷徹な野望を秘めた若君と、孤独を乗り越えた勝ち気な姫――二人は単なる政略結婚を超え、天下を奪うための「最強の共犯者」として、確かな絆を結んだのだった。
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