第26話 大地動転
文禄五年(一五九六)閏七月。
京と伏見の空は、ねっとりと不吉な異臭に満ちていた。
関白・秀次の一族が三条河原で命を散らしてから一年。天下人・豊臣秀吉は、己の健在と絶対の威光を天下にしめすため、指月の地に巨城・伏見城の造営を進めていた。
だが、閏七月十二日、子の刻(深夜十二時頃)。
天地が裂けるような凄まじい地鳴りとともに、巨大な揺れが京・伏見を襲った。
「地震じゃ! 天守が崩れるぞ! お逃げくださりませ!」
慶長伏見地震――。
完成間近であった伏見城の五重天守は一瞬で崩れ落ち、女中や侍衆数百名が押し潰された。命からがら木幡山の竹林へ逃げ延びた秀吉は、着物も乱れた姿で、恐怖に歯を鳴らして震えていた。
被害は城にとどまらない。
京都の市街地は後に『言経卿記』にて「全き家一間も無之」と称されるほど全滅。秀吉が誇った方広寺の大仏は倒壊し、内裏(御所)の紫宸殿や御殿も軒並みペシャンコに潰れた。
後陽成天皇をはじめとする公家衆は、倒壊した御所の庭先で寒風と泥に塗れて震えるという、前代未聞の落魄に陥っていたのである。
「……大納言(家康)様がいの一番に駆けつけられました!これで一安心でございます!」
地震直後、手勢を率いて駆けつけた徳川家康の姿を見て、秀吉は涙を流してその手を握りしめた。
だが、狂気に取り憑かれた老いた太閤の執着は、被災した民や朝廷ではなく、ただ己の権威(城)にのみ向けられた。
「高野山の木を切れ! 畿内の石をかき集めよ! 指月が駄目なら、高台の木幡山に新たな伏見城を直ちに建てるのだ!」
秀吉は大名たちに過酷な人足と資材の拠出を命じた。
奉行衆を率いる石田三成は、被災した京の都や御所の復興に回す米も木材も一粒一文として手持ちがなく、疲弊する大名たちの不満と朝廷からの救援要請の狭間で、胃を焼き切らんばかりに苦しんでいた。
その絶望の淵に沈む京都の市街地へ、黒塗りの大車輪を引いた船団が密かに滑り込んだ。
茶屋四郎次郎と、九歳になった清次率いる「葵屋」の隊列である。
潰れた御所の庭先で、寒さに耐えていた五摂家筆頭・近衛信尹らの前に、清次は静かに平伏した。
「近衛様。当店の手配いたしました米と、瓦、良質の建材にございます。どうぞお受け取りくださいませ」
気高き能書家でもある信尹は目の前の物資に驚愕し、次いで無念そうに顔を曇らせた。
「あ、ありがたい……されど葵屋。我らには家財も、お主たちに支払う金も一文の米も残っておらぬ。……施しはありがたいが、帝をお支えする朝廷の矜持が許さぬ……」
震える手で拒もうとする信尹に対し、清次はふっと幼い顔に温かな笑みを浮かべ、懐から真っ白な紙と筆を取り出した。
「金も、領地も一文たりともいただきませぬ。……ただ、当店のご主人様より、一つだけ『対価』を賜りたく存じます」
「……対価、とな……?」
「この災禍を乗り越え、京の都が再び光を取り戻すことを願う『和歌』を、一句お認めいただきたいのです。……みなさまの言葉(歌)の力と引き換えに、必要な資材をすべてお納めいたします」
「な……和歌、とな……!?」
信尹は目を見開いた。自らの矜持を傷つけられることなく、むしろ自らの「歌(言葉)」という最高の文化をもって資材を得る――。それは、打ちひしがれた公家たちの心をどこまでも気高く救い上げる、風雅極まる申し出であった。
「……ほう。金でも米でもなく『歌』を寄こせ、とな」
その時、奥から姿を現したのは、信長や謙信と渡り合い、かつて秀吉に「近衛」の名を貸して関白に押し上げた伝説の老公家・近衛前久であった。六十一歳となった前久は、白髪を揺らしてニヤリと笑った。
「葵屋、その知恵を出したのは大納言(家康)殿か? それとも伏見におる十七歳の若君(秀忠)か?」
清次が黙して深く平伏すると、前久はクックッと喉を鳴らして笑った。
「秀吉はわしの名を借りて関白となったが、力で人を屈服させることしか知らん。所詮中村の百姓よ。……それに比して徳川の若君は、なんと恐ろしい。自らの金を出さず、和歌ひとつで我ら公家と帝の『心』を丸ごと買い取りに来おったわ」
前久は懐から筆を執り、さらさらと見事な書で歌を書き上げると、清次へ手渡した。
「持っていけ、葵屋。大納言殿によろしくお伝えあれ。『秀吉の世は長く持たぬ。次の世の差配、しかと頼みますぞ』とな」
父の言葉に、息子の信尹もまた強く頷き、涙を流して歌を認め、誓った。
「我が近衛家、この恩義は終生忘れぬ! 朝廷と京の再興を願う歌など、魂を込めていくらでも詠んでやる!」
清次は身分を問わず、京の町衆や農民たちのもとへも赴き、彼らが復興への願いを込めた不器用な句や狂歌を等しく受け取り、米や瓦と交換していった。
やがて再建された東寺の回廊には、集まった千通もの和歌の短冊がずらりと奉納された。「自らの歌で都を蘇らせた」という誇りと希望が、被災した京の街に明るく満ちあふれていったのである。
伏見・徳川陣屋。
運び込まれた膨大な短冊の束を前に、側近の本多正純は身体を震わせていた。
「……近衛の老公様をはじめ公家も民草も、涙を流して『葵屋様、ひいては徳川様のおかげだ』と手を合わせております! 秀忠様……貴方様は、金ではなく『心』で京都を買い取られたのですね……!」
十七歳になった徳川秀忠は、静かにパチンと算盤の玉を弾き、冷めたお茶をすすった。
「正純。太閤殿下はご自身の威光を示すため、大名や民に血を吐かせて伏見城を建て直しておられる。……だがわしは、帝や民に『自らの手と歌で都を復興させた』という希望を与えた」
秀忠は冷徹な眼差しで、遠く木幡山で突貫工事が進む伏見城を見つめた。
「太閤殿下の建てた城はいずれ崩れる。……だが、朝廷と民の心に刻まれた『徳川への感謝』は、百年経っても消えることはない」
数日後。この葵屋の「和歌による復興」の噂は、木幡山の仮小屋にいた秀吉の耳にも達した。
「……歌と引き換えに……資材を配っただと……?」
報告を聞いた秀吉は、最初「愚かな」と笑おうとした。しかし、東寺に掲げられた千通の短冊と、それを見て徳川を拝む民たちの熱狂を知った瞬間、秀吉の背筋に冷たい蛇が網の目のように這い上がった。
(あやつは……十七歳の青二才(秀忠)は……城を建てたのではない。京の者どもの『心』を買ったのだ……!)
武力と金で大名を屈服させる己のやり方に対し、和歌という優雅な文化で朝廷と民の心をまるごと奪い去った秀忠の、底知れぬ「器」。
年老いた秀吉は、己の中に湧き上がる猛烈な恐怖と焦燥感に歯噛みした。
(あいつは化け物だ……! このままわしが死ねば、幼い拾丸(秀頼)は確実にあの男に呑み込まれる……!)
恐怖に駆られた秀吉は、震える手で筆を取った。
「……秀忠を呼べ! 信長公の血を引く我が養女・江(お江与)を、直ちに秀忠の正室として嫁がせる! 徳川の血と豊臣の血を不可分に縛り付けねばならん!」
それは、秀吉が秀忠の「器の大きさ」に慄き、幼い我が子を守るために打った、なりふり構わぬ防波堤であった。
伏見の陣屋で、秀吉からの婚姻の命を受け取った秀忠は、何の動揺も見せず、ただ冷たく微笑んだ。
「秀吉様は、江姫という枷でわしを縛ったつもりでおられる。……だが、織田、豊臣に繋がる姫が我が妻となるということは、天下の正統が徳川へ移るための扉が開いたということだ」
大地震の土煙が舞う伏見の空の下。
豊臣の権威が音を立てて崩れ去るなか、徳川秀忠と江の婚姻が決まり、時代は関ヶ原へのカウントダウンを刻み始めていた。
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