第25話 血の粛清
文禄四年(一五九五)七月。
伏見と大坂の街に、冷たく湿った恐怖の風が吹き荒れていた。
関白・豊臣秀次の謀反の噂――。
前年に誕生した拾丸(秀頼)の存在により立場を失った秀次は、高野山へ追放された末、自裁を命じられた。だが、老いた天下人・豊臣秀吉の猜疑心は、関白一人の死では収まらなかった。
「秀次におもねり、金を借り、謀反を企てていた大名どもが城中にごまんといるはずだ!」
秀吉の狂気的な命を受けた石田三成ら奉行衆は、秀次の居城であった聚楽第を踏み荒らし、大量の家財や帳簿を押収。秀次と親交のあった大名たちの連座を徹底的に調べ上げ始めていた。
大坂城の奥御殿。三成は、胃を焼き尽くすような痛みに耐えながら平伏していた。
その目前では、豊臣家の「ふたつの頂」が激しく対立していた。
「佐吉!! 信吉(秀次)を殺すなんてこと、正気の沙汰じゃねゃあぞ! あのハゲネズミを止めるのが、おぬしら奉行の役目だにゃあか!」
豊臣家の母・北政所(寧々様)の悲痛な叫びが御殿に響く。尾張以来の家臣や親族を慈しんできた北政所にとって、秀次とその一族を根切りにすることは、豊臣の血そのものを断ち切る愚行に他ならなかった。
だが、その隣で幼い拾丸を抱く茶々は、氷のように冷たい眼差しで三成を見下ろした。
「なんとはしたない。三成殿。豊臣の家督は拾丸のもの。……万が一にも拾丸の未来を脅かす芽があるならば、いま摘み取らねばなりませぬ。北政所様は情にお厚いゆえ、お分かりにならぬのです」
「茶々! 貴女は豊臣を何と思っとるん!」
身を乗り出す北政所と、我が子の未来のために容赦なき粛清を促す茶々。
秀次を救いたい尾張派の大名たちと、我が子の盤石な未来を望む近江派の文官たち。その決定的な亀裂の真ん中で、三成は固く拳を握り締め、額を床に擦り付けるしかなかった。
(どちらの言い分もご最も……! されど、太閤殿下の御意思はもはや誰にも止められぬ……!)
三成は涙を呑み、粛清の検分へと踏み出さざるを得なかった。
この日、大坂城の奥で生じた決定的な断絶は、もはや修復不可能な溝となって豊臣の足元を蝕み始めていた。
八月。京都三条河原。
秀次の妻妾や幼い子息ら三十余名が、見せしめとして惨殺された。
京・伏見の街は血の匂いに塗れ、豊臣家臣団は「明日は我が身か」と過呼吸を起こさんばかりの恐怖に平伏していた。
その血の嵐のさなか。
特に命の灯火が消えかけていたのが、最上義光、伊達政宗、細川忠興らであった。
「……おしまいだ。わが最上家は、これで途絶える……」
伏見の最上屋敷の奥で、最上義光は魂が抜けたように呟いた。
娘の駒姫が秀次の側室に嫁いだばかりで三条河原で処刑されたばかりか、秀次からの莫大な資金援助の記録が聚楽第に残っているとの噂が立ったのだ。秀吉の耳に入れば、一族全員が改易、打ち首は免れない。
同じ頃、細川忠興もまた、屋敷の中で冷や汗を流していた。
秀次から丹後領の開発資金として借り入れていた膨大な手形。これが奉行所に渡れば、「謀反の資金提供者」として即座に首を刎ねられる。
大名たちが絶望の淵で震えていたその夜。
彼らの屋敷の裏手に、黒い頭巾を被った男たちが密かに滑り込んだ。
茶屋四郎次郎と清次――そして、影から彼らを護衛する風魔の忍びたちであった。
「……なに? 葵屋が、わしの手形と借用証文を買い取るだと……!?」
細川屋敷の奥間で、忠興は目を剥いた。
目の前に差し出されたのは、聚楽第の奉行所に押収される直前に葵屋が裏の手回しで買い取った、忠興自身の署名が入った借用証文の「写し」と、それを消滅させる旨の覚書であった。
八歳になった茶屋清次は、静かに平伏して申し出た。
「左様にございます、細川様。当店の帳簿と裏口座の網を駆使し、聚楽第の蔵に眠る前に、細川様をはじめ最上様、伊達様のお手形をすべて『買い消し』いたしました。奉行所の役人がどれほど調べようと、皆様のお名前が聚楽第の帳面から出てくることは二度とございません」
「お、おい……! 本当か! 本当にわしの名が消えるのか!?」
最上義光は清次の肩を掴み、涙を流して震えた。
「ありがたい……! 感謝いたす、葵屋! して、利息はいくらだ!? 領地を売ってでも支払う! 硝石でも鉛でも、葵屋にすべて差し出す!」
大名たちがすがりつくように叫ぶと、清次はふっと幼い顔から笑みを消し、懐から一枚の真っ白な「起請文」の紙を取り出した。
「金利も、不渡りの穴埋めもいただきませぬ。……ただ、当店のご主人様より、一つだけ条件がございます」
「じょ、条、件……? なんだ、何でも申してみよ!」
清次は、伏見の小さな陣屋で冷めた茶をすする「あのお方」の言葉を、正確に伝えるように紡いだ。
「この起請文に、神仏を誓って一筆お認めくださいませ。……『今後いかなる天下の動乱が起きようとも、徳川大納言(家康)様に絶対の忠誠を誓い、生死を共にする』と」
「……!! 徳川殿に……!?」
忠興と義光は息を呑んだ。
葵屋の背後にいるのは、人質として伏見におる十五歳の徳川秀忠。だが、その少年が要求したのは自分への忠誠ではなく、「父・家康へ絶対忠誠の起請文」であった。
「……徳川殿は、己の名を一切出さず、我らの命を救ってくださるというのか。あの方が奉行所に手回しをし、徳川殿のお力で裏から救い出してくださるというのだな……!」
忠興は落涙した。自らの命、一族の命を救ってくれたのは、恐怖で大名たちを殺しまくる秀吉でも、冷酷に調査を進める三成でもない。
威張ることなく、裏で手を回して助け船を出してくれた「徳川家康」という男の圧倒的な慈悲と律儀さであった。
「書く! 書くぞ! 徳川殿のためならば、この首、いつでも差し出す!」
忠興、義光、そして伊達政宗の使者までもが、血涙を流しながら起請文に署名し、血判を押した。さらに、密かに家中へ隠し持っていた「軍需物資(硝石・鉛・良質の鉄)」のすべてを、徳川の蔵へ格安で譲り渡すことを誓ったのである。
伏見・徳川陣屋。
静まり返った暗がりの中で、十五歳の秀忠は、正純が運んできた三通の血判状(起請文)を検分していた。
「……細川、最上、伊達。いずれも天下に聞こえた勇将ばかり。……見事でございます、秀忠様! これで彼らは一生、徳川家に足を向けて寝られなくなりました!」
正純が興奮で声を震わせると、秀忠はパチンと算盤の玉を弾き、冷めたお茶を一口すすった。
「正純。わしは何もしておらぬぞ」
「は……?」
「わしはただの『律儀な人質』だ。父上(家康)の名で大名たちを救い、父上に起請文を献上したまでにすぎん」
秀忠は冷徹な眼差しで、夜の伏見城を見上げた。
大坂と伏見では、秀吉と三成が血の粛清に酔い痴れ、自らの首を絞めるように大名たちの心を豊臣から離れさせている。
「太閤殿下は『刀狩り』で百姓から武器を奪った。……だがわしは、聚楽第の帳簿一枚で、大名たちの首根っこを父上の手に握らせた」
秀忠は起請文を文箱に収め、冷たい笑みを浮かべた。
「太閤殿下の妄執のおかげで、豊臣の基盤は内側から腐ち落ちた。……将来、天下を分かつ動乱が起きた時、彼らが誰の旗の下に集まるか、これで決まったようなものだ」
血の粛清が荒れ狂う豊臣の暗雲の下で、徳川秀忠の静かなる侵略は、すでに「関ヶ原」の勝敗を決定づけようとしていた。
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