第24話 二重の帳簿
文禄三年(一五九四)初夏。
大坂の商人たちの間では、ある「噂」が急速に広まっていた。
「葵屋様に行けば、手形をすぐ銭に換えてもらえるらしいぞ」
大坂城下の賑わいは、表向きの華やかさとは裏腹に、奉行衆による強引な軍需徴発と代金支払いの先延ばしによって資金繰りは瀕死の状態にあった。その市場に現金を流し込み、商人たちを黒字倒産から救っていたのが、江戸米問屋を装う『葵屋』であった。
だが、その賑わいを見下ろす大坂城の一室で、石田三成は一人、執念の炎を燃やしていた。
(太閤様は「小遣い稼ぎ」と笑い飛ばされたが、絶対に裏がある。あの莫大な銭の出どころ、そして担保として消えた硝石や米の行方……必ず暴いてみせる)
秀吉から「密かに探れ」との内命を受けた三成は、即座に動いた。
奉行所の配下や見回りの役人を「米の検分役」や「買い出しの客」に化けさせ、大坂の葵屋へ連日、抜き打ちの検分(ガサ入れ)を仕掛けさせたのである。
葵屋の帳場。
突如踏み込んできた奉行所の役人たちが、威圧的に帳面を叩いた。
「控えよ! 大坂奉行所の検分である! 葵屋、米の回送目録と為替の勘定帳をすべて改めさせてもらう!」
店の者が動揺しかけたその時、奥から足音が響いた。
現れたのは、まだ背も低い八歳の少年――茶屋清次であった。
清次は利発な笑みを浮かべると、深々と平伏した。
「これはこれは、お奉行様。どうぞ、こちらが太閤殿下より賜りし朱印状の写し、ならびに当店の『帳簿』にございます。一文の狂いもございませぬゆえ、ご心行くまで改めくださいませ」
役人たちは目を光らせ、提出された大帳をめくった。
しかし、どれほど目を皿のようにして読み込んでも、そこに記されているのは「江戸からの米の回送」と「それに伴う正常な資金融通・為替決済」の記録のみであった。
(おかしい……! 手形を二割や三割引きで買い叩いた差益や、大量の硝石を差し押さえた記録がどこにもない……!)
それもそのはずであった。
秀忠から直々に現代的な複式簿記と資金ロンダリングの術を叩き込まれていた清次は、三成の役人が踏み込んでくることを見越し、取引の記録を「二重化」していたのだ。
手形の買い取り益や硝石の権利は、すべて秀忠が開いた私塾「孝悌会」出身の大坂商人たちの架空口座へ細かく分割・迂回処理されていた。三成の役人たちが追っているのは、完璧に作り込まれた「白」の帳簿(表帳簿)にすぎなかったのである。
清次は平然と算盤の玉を弾きながら、心の中で密かに毒づいた。
(フン、三成付きの役人風情では、秀忠様から授かったこの帳簿のカラクリは絶対に見抜けまい!)
その頃、報告を受けた伏見の徳川陣屋。
秀忠は、冷めたお茶を一口すすると、静かに茶器を置いた。
「……なるほど。三成殿は証拠が掴めずとも、検分と称して葵屋の店頭に役人を立たせ、取引を細かく監視しておるのだな」
本多正純が苦々しい顔で膝を進めた。
「ハッ。表帳簿で煙に巻いてはおりますが、連日役人が出入りしていては、商人どもが気後れして葵屋へ近づきにくくなっております。このままでは手形の買い取りは滞り、大坂での『座の権利』の回収が遅れてしまいますぞ。……いかがなさいますか?」
「三成殿は政治の正論で崩せぬと知り、力ずくで葵屋の息の根を止めに来たわけだ」
秀忠は朱筆を手に取り、一枚の紙に短く文を走らせた。その瞳には、氷のような冷徹な光が宿っていた。
「正純。四郎次郎と清次に伝えよ。……『三成殿への配慮』をせよ、とな」
「配慮……にございますか?」
「そうだ。三成殿がそこまでお調べになりたいとおっしゃるなら、こちらとしてもご協力せねばな……。本日より、石田三成殿に連なる奉行衆、ならびに三成殿を後ろ建てとする三成派の商人(近江商人)どもからの手形買い取りは、当面『全件停止』とせよ」
正純はハッと目を見張った。
「買い取りを……停止、でございますか!?」
「そうだ。『石田様が不審な取引を極密にお調べになられているため、石田様のお近くにおられる商人様との取引は、ご迷惑がかからぬよう自主的に見合わせております』と、笑顔で突っぱねてやれ」
秀忠は冷たい笑みを深めた。
「葵屋を頼りにしておるのは、我が方に近い商人だけではない。手形の換金に苦しんでおるのは、三成殿にゴマをすって商いをしておる三成派の商人どもとて同じこと。……己の主君の余計な手入れのせいで手形が紙くずになった時、商人どもが誰に矛先を向けるか、三成殿に見せてやるのだ」
数日後。大坂の市場は大混乱に陥った。
「な、なんだと!? なぜうちの手形を買い取ってくれんのだ!」
葵屋の店頭で、三成派の近江で一二を争う米問屋の番頭が青ざめた顔で叫んでいた。
帳場の奥で、八歳の清次は申し訳なさそうな顔で手を合わせた。
「申し訳ございません。ただいま奉行所のお役人様が、当店を熱心にお調べになられております。石田様にお近い店様の手形を当店が買い取り、万が一にも石田様のお顔に泥を塗るわけには参りませぬ。お調べが終わるまで、石田様ゆかりの店との取引は当面、控えさせていただいております」
「そんな殺生な! 銭がなければ明日の仕入れができぬ、うちの店は潰れてしまうのだぞ!」
「どうぞ、石田様にご相談なさってくださいませ。石田様が『葵屋の調べは終了した』とお触れを出くだされば、すぐにでも銭にお換えいたしますのに……」
清次の言葉を聞いた三成派の商人たちは、顔色を変えて大坂城へ走った。
――そして翌日。
大坂城の奉行所に、大坂中の三成派の豪商たちが雪崩のように押し掛けた。
「石田様! なぜ葵屋などに余計な手入れをなさるのですか!」
「葵屋様が買い取ってくださらねば、手形はただの紙くず! 明日にも店が倒産いたします!」
「元はと言えば、奉行衆が手形を引き延ばしたからこうなったのですぞ! 葵屋様の手入れを今すぐ取りやめ、無実を証明してくだされ! さもなくば、我ら商人一同、奉行所への金銀の融通を一切断ちますぞ!」
「な……なに!? 黙れ! 落ち着け商人ども!」
三成は怒号を飛ばそうとしたが、商人たちの悲鳴と罵声にかき消された。
三成の手形引き延ばし施策で苦しんでいた商人たちにとって、唯一地獄に垂らされた蜘蛛の糸であった葵屋。その糸を切り刻んだのが、他ならぬ自分たちの後ろ建てである三成の「ガサ入れ」だったのだ。
三成は自らの支持基盤である商人たちから激しく突き上げられ、怒りと屈辱で全身を震わせた。
(秀忠……! 自分の手は一切汚さず、我らの足元を商人どもに揺さぶらせるというか……!)
葵屋に不正があるのは間違いない。だが、これ以上探りを入れれば、自分が大坂の商人たちから完全に見放され、奉行所としての機能が麻痺してしまう。
三成は固く拳を握り締め、悔し涙を呑んで言い放つしかなかった。
「……葵屋への検分は、本日をもって終了とする! 商人ども、引き下がれ!」
伏見・徳川陣屋。
正純からの報せを受けた秀忠は、パチンと算盤の玉を弾き、冷めたお茶を飲み干した。
「三成殿も気の毒にな。権力で金を縛ろうとするから、金に足をすくわれるのだ」
「見事でございます、秀忠様! 三成は近江衆の商人から詰め寄られ自爆し、葵屋への手入れは完全に撤回されました!」
正純が興奮気味に平伏すると、秀忠は静かに首を振った。
「三成殿の手足を縛るなど、ただの序の口だ。……三成殿が葵屋に目を奪われている間に、仕込みは終わった」
秀忠は朱筆で、ある人物たちのリストをなぞった。
そこには、関白・豊臣秀次に近い大名や公家たちの名がズラリと並んでいた。
「秀頼様が生まれ、関白殿下(秀次)の立場は日増しに危うくなっている。手形で首の回らなくなった秀次派の大名どもの弱みは、すべて葵屋の蔵に納まった」
秀忠の瞳に、暗く澄んだ光が宿る。
「太閤殿下の妄執が爆発する時は近い。……豊臣が自ら血を流して自滅する様を、じっくりと特等席で見物させてもらうとしよう」
数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。
続きが読んでみたいと思えましたらブックマークやイイネをお願いします。
また気に入ってくださいましたら評価★★★★★を宜しくお願い致します。
執筆のモチベーションが大いに高まります!




