第23話 老猿の妄執
文禄三年(一五九四)春。
大坂城は、いまなお異様な熱気に包まれていた。
前年の夏に誕生した太閤・豊臣秀吉の実子・拾丸(のちの豊臣秀頼)の存在が、老いゆく天下人を狂喜させていたからである。
「見てみよ、三成! 拾のなんと可愛らしいことよ。拾の頬には豊臣の福が全て詰まっとるわ!! ヌワハハハハハ!」
五十八歳を迎えた秀吉の歓喜は、周囲が引きつるほどのものであった。我が子の誕生に涙を流し、大坂城中へ祝いの品や金を撒き散らす。先年の長男・鶴松の病死により失われていた豊臣家の未来が、再び光を取り戻したかのように見えた。
だが、その歓喜の狂騒から半年余りが過ぎた大坂城の本丸奥御殿において、石田三成は一人、苦り切った表情で一束の帳簿を抱えていた。
「殿下……。拾丸様の御生誕以来、天下は祝いに沸いております。……されど、大坂の市場において、看過できぬ異状が起きております」
三成が拝礼し、差し出した報告書を、秀吉は我が子をあやす破顔のまま手元へ引き寄せた。隣には、産後の肥立ちもよく、うっとりと我が子を見つめる側室・茶々の姿があった。
「異状だと? 朝鮮の戦況か? それとも伏見の突貫工事か?」
「いえ……大坂の町人に紛れ込み、不渡り寸前の手形を片っ端から買い叩いている『葵屋』なる米問屋にございます。あれは表向き、江戸の米を扱う問屋を装っておりますが……その実態は、徳川家が裏で現金を流し込む巨大な両替商にございます」
三成の目には、冷徹な官僚としての鋭い危機感が宿っていた。
「葵屋は、我が奉行衆が引き延ばしていた手形を格安の現金で買い取り、支払えぬ大名から米や硝石、さらには大坂の『座の株』まで担保として没収しております。回収された硝石は、すべて船で江戸の土井利勝のもとへ回送されている……! このままでは大坂の経済の首根っこはおろか、天下の軍需物資が徳川に握られてしまいます!」
「葵屋の即刻の手入れと、営業停止を命じていただきとうございます!」
熱弁をふるう三成に対し、秀吉はフンと鼻で笑い、拾丸の小さな頬を撫でた。
「三成。お前は相変わらず、器の小さいことを申すやつだな」
「な……殿下!?」
「そもそも大坂の商人どもが黒字倒産しかけていたのは、お前たち奉行衆が『天下の御用』と称して手形を引き延ばし、現金を市場から消し去ったからではないか。そこへ秀忠が江戸の富籤で集めた自腹の現金を流し込み、市場を助けておるのだ。豊臣の懐は一文も痛まぬ。何をガタガタ騒ぐことがあろうか」
秀吉の言葉は、冷酷なまでに合理的であった。名護屋での兵站支援の褒美として、自ら『米為替・資金融通』の許状を与えた手前もある。何より、十四歳の秀忠が伏見の小さな陣屋で小銭稼ぎに精を出している程度にしか見えていなかった。
「だが上様、硝石や座の権利まで徳川に……!」
「細けえことに目を奪われ、全体が見えておらんぞ三成。徳川が蓄えた硝石も、いざとなれば豊臣が『関白の命』で取り上げれば済むこと。徳川は従順に兵站を支え、大坂の金回りを良くしてくれた。それで十分ではないか。いいか、わしが京都奉行をしてあった頃はなぁ、お勤めは全部小一郎にほっぽり投げて、それは夜な夜な京の町に繰り出したものよ。秀忠ももう十四だで、遊びの一つや二つする頃じゃろ。お前も少しは遊べ。だから市松に石頭と呼ばれるんじゃ」
秀吉は三成の申し入れを、完全に一蹴した。
三成が悔しさに唇を噛み締め、引き下がろうとした、その時である。
秀吉の隣で穏やかに我が子を抱いていた茶々が、ふっと扇を広げ、優しい笑みを浮かべて口を開いた。
「三成殿は少々、疑ぐり深すぎますこと。伏見の陣屋におられる秀忠殿は、まだ若子にすぎませぬ。先日お会いした折も、冷めたお茶を静かに飲んでおられるような……何処か健気で哀しげな若君でございましたよ。そのようなお方が、天下を脅かす悪巧みなどなさるはずがございません」
その瞬間であった。
しんと静まり返った御殿の空気が、まるで氷を突き立てられたかのように凍りついた。
秀吉の手が、ピタリと止まる。
破顔していた老猿の顔から、一切の感情が消え失せた。
秀吉は茶々を睨みつけるでもなく、ただ濁った眼の奥にぬめりとした湿り気を宿らせ、ゆっくりと茶々の顔を見つめた。
「……茶々よ」
かすれた、低い声であった。
「お前は……あの徳川の童を、妙にかばうのだな」
茶々は一瞬、驚いたように瞬きをしたが、すぐに取り繕って微笑んだ。
「かばうなど……。ただ、人質の身でありながら健気に伏見におられる姿が、哀れに思えただけでございます」
だが、その言葉は火に油を注ぐに等しかった。
(人質……哀れ……? あの若い徳川の貴公子を、この茶々が気に留めておるというのか……?)
秀吉の脳裏に、どろりとした黒い感情が渦巻いた。
五十をすぎて得た我が子・拾丸。その命と将来を守らねばならないという「妄執」。
そして、老いさらばえた己に対し、若く、気品に満ち、伏見で不気味な静寂を保つ徳川秀忠という存在への――「政治的疑心」と「男としての醜い嫉嫉」が、一瞬にして結びついたのである。
(浅井の血を引く茶々が、徳川の童に心を寄せておる……? いや、徳川が茶々を通じて豊臣の内部に入り込み、我が拾丸の将来を脅かそうとしているのではないか……!?)
一度芽生えた妄執の芽は、老いた天下人の心を瞬く間に蝕んでいった。
秀吉はゆっくりと三成へ向き直った。その眼光は、先ほどまでの大雑把な天下人のそれではない。獲物の首筋をねらう、老いた大猿の冷酷な眼差しであった。
「……三成」
「ハッ……!」
「葵屋とやら……裏を洗え」
三成は息を呑んだ。
「ただし、表立って動くな。秀忠の知らぬところで密かに調べ上げよ。……あのガキが伏見の陰でどのようなツラをし、何を企んでおるか、皮を剥ぎ取って確かめろ」
「……御意にございます!」
三成は深く平伏した。自らの正論ではなく、茶々の一言によって上様が動いたことに割り切れぬ思いを抱きつつも、これで徳川の暗躍を暴く権限を得たのだ。
同じ頃。伏見・徳川陣屋。
薄暗い部屋の中で、十四歳の秀忠は静かに冷めたお茶を口に含んでいた。
その脇には、影の中から現れた風魔の忍びが平伏している。
「……そうか。大坂城で、石田殿が動いたか」
「ハッ。石田様の手先が、すでに葵屋の周辺を探り始めております。……なお、太閤様が動いたきっかけは、茶々様が秀忠様を庇うお言葉を口にされたことにあるかと」
正純が「なんと……茶々様が……! それではかえって太閤の疑心を煽ってしまったのでは!」と蒼白な顔で叫んだ。
だが、秀忠は焦る様子もなく、パチンと算盤の玉を一つ弾いた。
「……茶々様らしいな。だが、これで良い」
「良い、とおっしゃいますか!?」
秀忠は冷徹な笑みを浮かべ、窓の外の伏見の夜空を見上げた。
「太閤殿下は老いた。老いた英雄ほど、己の権力への執着と、我が子への愛、そして女への嫉妬に目を眩ませるものはない。……三成殿の『正論』なら太閤殿下は一蹴できたが、茶々様の『哀憫』が加わったことで、太閤殿下の妄執に火がついた」
秀忠は冷めた茶器を卓に置いた。
「三成殿が動くなら、こちらも次の手を打つまでだ。四郎次郎と清次に伝えよ。『口座の分散』と『二重帳簿』の仕掛けを動かせ、とな」
大坂城で渦巻く老猿の妄執と、伏見の陣屋で冷たく冴え渡る少年の知略。
豊臣と徳川の暗闘は、新たな、そしてより深い闇の領域へと足を踏み入れようとしていた。
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