第31話 泥を被る者の双眸
慶長四年(一五九九)正月過ぎ。
伏見・前田利家屋敷の奥室は、重苦しい死の匂いと薬の気配に満ちていた。
天下の重鎮として、豊臣と徳川の間に立って政権を支え続けてきた前田利家は、病床の中で浅く荒い息を吐いていた。その痩せさらばえた老将の前に、二人の男が平伏している。
加藤清正と、福島正則であった。
「……利家様! 我らは……我らは一体、何のために異国の地で血を流したのでしょうか!」
正則が、声を詰まらせながら畳に額を擦り付けた。粗暴な正則の目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「蔚山で馬の血を飲み、仲間を死なせ、命がけで掴み取った手柄すら、治部(三成)めは『軍規違反』と切り捨て申した! そればかりか恩賞も軍費の補填も一文たりとも出さぬと突っぱね……葵屋からは莫大な借財の催促でございます! 我ら加藤・福島、このままでは豊臣のために戦って破産いたしまする!」
清正もまた、唇を血が出るほど噛み締め、無言で震答していた。
利家は深く息を吐き、落ち窪んだ瞳でふたりを見つめた。清正らの無念も、彼らが命を賭して豊臣家に尽くしてきた忠義も、偽りがないことを利家は痛いほど知っていた。
「……正則、主計(清正)。悲状、しかと聞き及んだ。ワシが生きているうちに……何としても治部との間を和解させよう。案ずるな……」
ふたりが退室した後、利家は天井を見上げ、冷や汗を拭った。
(不吉だ……。このままでは、ワシが死んだ途端にタガが外れ、豊臣が内側から弾け飛ぶ……)
数日後。人目を避けて服を改めた一人の男が息を潜めるように病床の利家のもとを訪れた。
石田三成であった。
三成の顔色は青白く、目の下には黒々とした隈が落ちていた。
「佐吉(三成)か……。主計らの件、聞き及んでおるな。なぜあやつらの手柄を認め、多少なりとも補填を出してやらぬのだ。あやつらとて、豊臣を想う気持ちはそちと同じぞ」
利家の問いかけに、三成は静かに目を閉じ、そして絞り出すように声を漏らした。
「……出せぬのです、利家様」
「何?」
「出せるものなら、私の命と引き換えにしてでも出しております!」
三成の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。いつも冷徹に法と数値を語る三成が、利家の前で初めて仮面を剥ぎ取り、悲痛な弱音を吐き出した。
「豊臣の蔵は……秀吉様が遺された金蔵は、二度の渡海と天下の普請ですでに底を突いております! 今、ここで清正らに補填を出せば、秀頼様が成人される前に豊臣家は破産いたします! 私は……私が鬼となり、法と帳簿を盾に押し通さねば、豊臣は倒れるのです……!」
三成の絞り出すような吐露を聞き、利家は胸を突かれた。
誰も悪くない。現場で血を流した者も、大坂で帳簿を死守する者も、ただ豊臣を守ろうとして自滅の淵に立たされていた。
「……佐吉。お前の正義では、もうこの亀裂は繕えぬ。ワシの命も……もう保たん」
利家は息を整え、三成の袖を強く掴んだ。
「夜陰に紛れ、伏見の徳川陣屋へ行け。……秀忠殿を頼るのだ」
「なっ……徳川の若君を……!?」
「あやつは四天王寺の商業権を握り、独自の莫大な資金(算盤)を持っておる。ただ者ではないぞ。……己の意地と誇りを捨て、秀忠殿に頭を下げて資金を融通してもらうのだ。豊臣を守るためなら、できるはずだ。……それが、お前の忠義だろう」
三成は逃げずに利家の目を正面から見つめ返した。その双眸の奥に、揺るぎない覚悟の炎が静かに灯っていた。
そして。極寒の伏見。
頭巾を深く被り、人目を忍んで徳川陣屋の通用門をくぐる影があった。
石田三成であった。
陣屋の奥室。灯火の下で静かに算盤を弾いていた徳川秀忠は、現れた三成を見ても驚く素振りすら見せなかった。まるで、この訪問をあらかじめ弾き出していたかのように、静かに算盤を脇に置いた。
「……夜分遅くに無礼を承知で参上いたしました、秀忠殿」
あの自尊心の塊であり、徳川を誰よりも警戒していた三成が、年下の秀忠の前に膝を折り、深く額を畳に押し付けた。
「平にお頼み申し上げる……。四天王寺より上がる秀忠様の資金……豊臣へ融通していただきたい。清正らへの補填に充て、この窮状を打破したいのです」
静寂が部屋を支配する。秀忠は表情を変えず、三成の悲壮な覚悟をジッと見つめていた。やがて、静かな声が開かれた。
「……治部殿の苦衷、察するに余りある。良いでしょう。四天王寺の資金、お貸しいたしましょう」
「ほっ、本当でございますか……!」
三成が顔を上げる。だが、秀忠の言葉はそこで終わらなかった。
「ただし——ひとつだけ条件がございます」
秀忠は淡々と、しかし決定的な言葉を口にした。
「秀吉公亡き後、関白職は空位のまま。秀頼様が成人されるまでには、まだ十余年の月日が必要です。関白空位のままでは朝廷の権威も陰り、天下の秩序が乱れる。……そこで、関白職を一度、朝廷へお戻しいただけますか。五摂家にて新たな関白を立てること、豊臣も徳川も異議を申さぬ……と」
三成の息が止まった。
関白職の返還——それは、豊臣家から「武家最高の権威」を一時的に奪い、ただの一大名へと棚上げすることを意味していた。
(……なんという恐ろしいことだ。徳川は血を流さず、金の貸し付けひとつで豊臣の看板を剥ぎ取る気か……!)
三成は戦慄した。しかし、頭を高速で回転させる。
(……だが、背に腹は代えられぬ。秀頼様が元服された暁に、再び関白宣下を賜ればよいだけのこと。今の豊臣には朝廷を養う銭すらないのだ。形式上の返還で清正らへの資金が手に入り、豊臣が救われるのであれば……この条件、呑むほかない!)
「……承知いたしました」
三成は血の滲むような思いで頷き、更問いを重ねた。
「では条件を呑む代わりに……秀頼様が元服された折には、必ずやお関白に再任されるよう、徳川殿(家康・秀忠)ご両名の誓紙をいただきたい!」
これで未来の安全を担保しようとする三成。しかし、秀忠はフッと困ったように首を横に振った。
「滅相もない。朝廷の最高人事たる関白の任免に、一臣下に過ぎぬ私どもが介入するなど、畏れ多いことにございます」
「な……! 秀忠殿は朝廷より権中納言の官位を賜ったお方! 朝廷への影響力は比類ないはず!」
縋り付く三成に対し、秀忠はどこまでも律儀で控えめな姿勢を崩さなかった。
「お戯れを。あの官位は、亡き太閤様のご執奏により父・家康が清華家の家格を賜った際、形ばかり添えられたものに過ぎませぬ。某には過分にして身に余るものゆえ、すでに辞去(辞任)しております。……そのような若輩の身で、どうして朝廷の人事に口を挟めましょうか」
「っ……!」
三成は絶句した。
「官位を辞退した」という実直極まりない正論を盾に、秀忠は「権力への野心」を一切見せず、完璧な謙遜をもって三成の求める要求を躱してみせたのだ。
毒を吐くのではない。無私無欲な「律儀者」を演じきりながら、相手の退路を完璧に塞ぐ——秀忠という男の、底知れぬ恐ろしさに三成の背筋が凍りついた。
「……わかり申した。四天王寺の件……かたじけない」
三成は打ちひしがれながら、徳川陣屋を後にした。
大坂城・奥。
「戯れ言を!!」
茶々(淀殿)の鋭い一喝が、豪華絢爛な部屋に響き渡った。
「太閤様が命懸けで掴み取り、秀頼に残してくださった『武家関白』の座を、徳川の銭のために手放せと!? 徳川に頭を下げ、関白を差し出すなど……豊臣に対する最大の屈辱! 断じて許さぬ!!」
「お方様! お聞きください! 今は形式を捨ててでも銭を得ねば、清正らが——」
「だまりゃ、三成!」
三成の必死の懇願を、茶々は冷酷に蹴り飛ばした。
「徳川の金で救われる豊臣など、滅びた方がマシじゃ! そのようなこと、熨斗でも付けて徳川へ突き返せ!」
……破談であった。
三成が己の誇りを捨て、夜陰に紛れて秀忠に頭を下げて勝ち取った起死回生の道筋は、茶々のプライドによって木端微塵に粉砕された。
大坂城の廊下を歩く三成の足取りは、重く冷たかった。
(……もはや、道はない。お方様が断ったと清正らに知られれば、豊臣家の威信は地に落ちる……)
三成は静かに目を閉じた。
(……私が断ったことにするしかない。『徳川の金など無用』と、私が突き返したことにすればよい。すべての泥と怨念は……私が背負う)
三成の覚悟が定まった瞬間、地獄の導火線に、静かに火が点いたのである。
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