第3話 聖母の涙と、無言の背中
【天正十二年(一五八四年)夏――岡崎城・奥御殿】
羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍が激突した
『小牧・長久手の戦い』。
戦場では我が徳川軍が秀吉の別動隊を打ち破るなど優位に立っていたものの、戦況は泥沼の膠着状態に陥っていた。
秀吉は武力での攻略を諦め、織田信雄への個別の懐柔策や、外交圧力へと舵を切り始める。
徳川と秀吉の水面下の講和交渉が進む中、和睦の条件として提示されるであろう「人質」の影が、城内に重く垂れ込めていた。
「……うう……ぐすっ……松千代……」
奥御殿の裏手、夏の日差しが眩しい庭の片隅で、私は小さな肩を激しく震わせていた。
「長丸様……? どうされたのですか」
控えていた七歳の松千代(土井利勝)が驚いて歩み寄る。
私は松千代に背を向け、お愛の方の部屋の障子からわずかに離れた位置で、聞こえるか聞こえないかの絶妙な声量で泣き声を絞り出した。
「秀吉のところへ行きたくないよぉ……。母上と……離れたくない……っ!」
小さな手で目元を拭い、しゃくりあげる。
「けれど……秀吉との戦を終わらせるには、誰かが行かねばならないのでしょう? 私が行けば、父上もみんなも助かるのだろう? ……私、行くよ……。母上には、秘密にしておいてね……悲しませたくないから……」
健気に自分を犠牲にしようと必死で涙を堪える、五歳の幼子の悲壮な決意。
完璧な演技だ。……だが、私の胸の奥は、罪悪感で冷たく引きつっていた。
(頼む……聞こえてくれ、母上……!)
カサリ、と障子の奥で衣擦れの音がした。
気配を殺して立ち尽くしていたのは、母・お愛の方であった。
文を手に廊下へ出ようとしていた母は、庭の陰で我が子が漏らした言葉を聞き、口元を両手で覆って激しく絶望に目を見開いていた。
(……勝った。いや……利用してしまったのだ、母上の無償の愛を)
お愛の方は涙をボロボロとこぼしながら、音もなく廊下を走り去っていった。
幼い長丸を人質に取られ、母子引き裂かれるという恐怖。そして、その裏でもう一人の息子・於義丸(秀康)が、三河で冷遇され続けているという現実。
聖母のような母の頭の中で、二つのピースが残酷に結びついたはずだ。
「……長丸様。今のお姿は……」
松千代が青ざめた顔で私を見つめる。
私は袖で涙を拭うと、顔から感情を一切消し去り、冷ややかな声で呟いた。
「……盤面が動いたぞ、松千代。母上が、父上の元へ向かわれた」
【同日――家康の私室】
「上様! なにとぞ、なにとぞ於義丸様を……於義丸様を秀吉様の養子としてお出しくださりませ!」
お愛の方は畳に額を擦り付け、髪を乱して涙ながらに家康へ直訴していた。
「な、何を言い出すのだお愛! 藪から棒に!?」
突然の訴えに、書類を改めていた家康が狼狽する。
お愛の方は顔を上げ、涙に濡れた瞳で家康を真っ直ぐに見据えた。
「於義丸様は、まともな師もつけられず、日陰者として扱われております! このまま三河におかれては……いつか殿の不信を買い、信康様と同じ悲劇を繰り返すことになり兼ねません!」
「ぐ……っ!」
『信康』の名を出され、家康の顔が激しく歪む。親指の痛々しい傷跡が引きつった。
「秀吉様は子に恵まれておられぬご様子。武勇に優れ、徳川の血を引く於義丸様を迎え入れれば、破格の待遇で迎え入れられるはず! それが……於義丸様が生きて己の武を立てる、唯一の道にございます!」
お愛の方は命がけであった。
幼い長丸を人質から守り、そして冷遇される於義丸に天下の表舞台での未来を与える。
それこそが、徳川家と子供たちを救う唯一の道だと信じて疑っていなかった。
物陰でその様子を伺っていた私は、小さな拳を握りしめた。
(母上……申し訳ありません。あなたのその純粋な優しさを、私は冷徹な謀略の手数として利用した……)
家康は深く息を吐き、狂気と葛藤の混ざり合った瞳で天井を見上げた。
(確かに於義丸を三河に置いておけば災いの種になる。織田の信雄、信孝のように相争うことになりかねん。織田の凋落は後継者の決め方を間違えたから今があるのだから……)
「……相分かった。於義丸を……秀吉の元へ出す」
トラウマに怯える家康にとって、武芸を深め自分を威圧する於義丸を手元から離せることは、恐怖からの解放でもあったのだ。
こうして、小牧・長久手の和睦条件となる人質(養子)の選定は完了した。
【天正十二年(一五八四年)十月――岡崎城外れ】
小牧・長久手の戦いが手打ちとなり、正式に徳川と羽柴の和睦が成立。
十一歳となった於義丸(秀康)が、秀吉の養子として大坂へ旅立つ日が訪れた。
城門の前。見送る者は、数名の供回りと僅かな家臣のみ。
徳川の次男としての旅立ちにしては、あまりにも寂しく、打ち捨てられたような旅立ちであった。
私は城外れの古びた土塀の影から、その一行を静かに見つめていた。
馬に跨がる於義丸兄上の背中は、痛々しいほど真っ直ぐに伸びていた。
手に携えているのは、三河で必死に振り続けた一振りの木刀と、父から与えられたわずかな支度金のみ。
(兄上……)
胸が押し潰されそうになる。
私が策を弄さなければ、兄上は三河で家族と共に暮らせていたかもしれない。
私の身代わりとして、見知らぬ上方の大猿・秀吉の懐へと突撃させてしまったのだ。
その時だった。
パカパカと馬を進めていた於義丸兄上が、ふと足を止めた。
裏手の土塀の影――私が隠れている場所へ、ゆっくりと視線を向けたのだ。
少年の瞳には、冷遇されてきた悲壮感も、三河への未練もなかった。
そこにあったのは、鋭く研ぎ澄まされた『武人』の光。
感の鋭い兄上だ。
城内で流れた噂、母上の突然の進言、そしてその陰にいた歳の離れた弟(私)の存在――その「異質さ」に気づいていないはずがなかった。
(……恨んでいるか、兄上。弟の浅知恵で、三河を追われることを……)
私は逃げ出したい衝動を抑え、土塀から一歩踏み出した。
於義丸兄上と、私の視線が交差する。
兄上は何も言わなかった。
ただ、泥に塗れて刀を振り続けたその精悍な顔に、かすかな微笑みを浮かべた。
まるで――
『自分を不遇な三河から解き放ち、天下という広い戦場へ押し出してくれた』
そう悟っているかのように。
於義丸兄上は力強く一度だけ頷くと、二度と振り返ることなく、馬の腹を蹴った。
その背中は、もはや虐げられた日陰者ではなく、天下へ向かって馳せ参じる「一人の豪傑」の風格を纏っていた。
「……行かれたな」
隣に立った松千代(土井利勝)が、低く呟く。
「……はい」
私は兄上の去っていった街道の先を見つめたまま、胸の中で静かに誓った。
(行ってください、兄上。……あなたが秀吉の元で暴れ回り、武人として天下に名を轟かせるための軍資金は、この私が三河で死ぬ気で稼いでみせます)
現代人としての知識、そして闇の帳簿。
私はこの三河で凡愚な息子のフリを続けながら、徳川の財政を裏から支配し、圧倒的な「銭の力」で戦国時代を買い叩いてやる。
「松千代。城へ戻るぞ」
「はっ」
幼い二人の影が、誰もいなくなった街道を抜け、岡崎城の闇の中へと消えていった。
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