第2話 狂気の爪痕と武に縋る兄
【天正十年(一五八二年)六月――岡崎城】
世に言う『本能寺の変』。
天下人・織田信長、ならびにその嫡男・信忠が京都・本能寺において明智光秀の謀反により討たれた。
当時、堺の地にあった徳川家康は、供回りわずか三十四名で明智の追手や落ち武者狩りが横行する危険地帯を突破する『神君伊賀越え』を敢行。
命からがら、本拠地である三河へと生還を果たした。
だが――城に帰還した男たちの姿は、およそ天下を伺う戦国大名の一団とは程遠いものであった。
重々しい城門が開いた瞬間、漂ってきたのは猛烈な
「死と血脂の生臭さ」であった。
馬から転がり落ちた父・家康の着物は破れ、顔は返り血と黒い泥に塗れ、手の爪はストレスからか噛むだけに止まらず親指の爪は剥がれ落ち血が乾いてこびりついていた。
同行した本多忠勝や井伊直政ら猛者たちですら、鎧はズタズタに引き裂かれ、その瞳には死人のような虚無と恐怖が宿っていた。
「穴山(梅雪)が……別の道に逃げた穴山が殺された! 落ち武者狩りの土民どもに、首を打たれたのだ……!」
奥の間に駆け込んだ家康は、がたがたと歯を鳴らし、虚空を睨みつけながら叫んでいた。
脇差しを握りしめたまま壁の隅にうずくまり、狂気じみた殺気を放っている。寄ってくる家臣にすら刀を向けかねない凄絶な錯乱状態であった。
「信長が……あの絶対的な信長が討たれたのだぞ!? 次はわしの番だ! いつ明智の刺客が来る!? 一揆勢の土民どもか!? わしの首を狙う者はどこにおる!!」
家康の脳裏に焼き付いているのは、甲賀・伊賀の山中で味わった地獄だ。
かつて織田信雄の独断から始まった伊賀攻めから発展した『天正伊賀の乱』の生き残りや土民どもが、織田との同盟者である徳川への逆恨みも相まって、竹槍と刃を手に樹々の中から湧き出し襲ってきた。
逃走の道中、家康たちは手持ちの金銀や着物、名物の茶器を土民へ投げつけ、物欲に群がる隙を突いて死体を踏み越え、命を買うようにして逃げ延びてきたのだ。
「武者修行も、武勇も……土壇場では何の役にもたたん! 命を繋いだのは、土民に投げつけた『銭』と、逃げ道を買い叩いた『算段』だけだったのだ……!」
家康は頭を抱え、床に額を擦り付けて絶望に身を悶えさせた。
「それなのに、我が徳川には後継者がおらん……! 信康はもうおらんのだ! 次男の於義丸(結城秀康)は武芸ばかりに傾倒し、何より……わしを恨んでいるはずだ! あの子に家を譲れば、わしの死後に徳川は必ず分裂する……!」
家康の胸を苛むのは、生々しい死の恐怖。そして後継者不在による「お家瓦解」の焦燥であった。
畳の隅で、三歳になった私はその光景を冷酷に観察していた。
(……父上は完全にトラウマを負ったな。だが、皮肉なものだ。命を救ったのが『銭』と『算段』であったと、父上自身が骨の髄まで理解したのだから)
私は膝を進め、トコトコと家康の前に歩み出た。
「ちちうえ……?」
「近寄るなッ!」と一瞬刀の柄に手をかけた家康だったが、その視線の先にいたのは、鼻水を垂らし、小さな手におにぎりを握りしめた三歳の私(長丸)だった。
「ちちうえ、おなかすいたの? これ、たべて?」
幼子の無垢な声と、小さな手の温もり。
血と泥に塗れた家康の手にそれが触れた瞬間、家康の目から狂気が消え、大粒の涙が溢れ出した。
ガタリと刀を取り落とし、泥臭い体で私を強く、壊さんばかりに抱きしめる家康。
「長丸……! 長丸ぅぅっ……! 生きておった、わしは生きて帰れたのだ……!」
「ちちうえ、痛いの? 長丸が、撫で撫でしてあげる」
泣きじゃくる天下人の背中を、私は幼子のふりをしてポンポンと優しく叩いた。
「よく聞け、長丸……!」
家康は私の肩を掴み、涙と泥でグシャグシャの顔で訴えかけてきた。
「武勇など一瞬の油断で潰える! 信長のようにだ! 国を永続させるのは『法と勘定』なのだ! お前はわしの教えを愚直に守り、徳川を支える『金庫番』となれ!」
「はい、父上! お勉強がんばります!」
私は無邪気な満面の笑みで答えた。
家康の顔に、劇的な安堵が広がる。
(よし……『自分を絶対的に慕い、武に頼らず指示通り動く無害な孝行息子』という印象が、恐怖に怯える父上の脳内に完璧に定着した)
死の地獄を見た天下人を手のひらで転がしながら、私の心には冷ややかな確信が満ちていた。
(やはり武勇など不要。私は『銭』でこの戦国時代を買い叩いてやる)
【天正十年(一五八二年)秋――岡崎城】
本能寺の変から数ヶ月。
私は相変わらず「おとなしく勉強好きな大人しい坊ちゃん」を演じていたが、裏では着々と『手足』を動かしていた。
城の片隅、誰も近づかない古びた蔵の裏手。
「長丸様、お待たせいたしました」
影の中から現れたのは、五歳となった松千代(土井利勝)だった。
泥のついた服を着た不遇な日陰者だが、その瞳には数ヶ月前の悲壮感はなく、鋭い知性が宿っている。
「松千代か。例の件はどうなった?」
「は。城内の兵糧および武具の買い入れ帳簿、すべて裏を洗いました。勘定方の役人が、三河の豪商と結んで米の損耗率を偽り、年に三割もの差額を懐に入れております」
松千代は、懐から細かく書き込まれた紙片を取り出した。
三歳の私が教えた『現代簿記の思想』を飲み込み、わずか数ヶ月で城内の不正を見抜いてみせたのだ。
「見事だ」
私は紙片を受け取り、目を走らせる。
「これでまた一つ、父上の財務の『穴』を掴んだ。この証拠を盾に裏でその豪商を威圧し、我らの秘密の運用資金として流用させる」
「恐ろしいお方だ……」
松千代は感嘆の溜息を漏らした。
「父上は私を『使いやすい金庫番』として育てているつもりだが、実際に徳川の裏の金を回すのは私とお前だ。……だが松千代、ここからが本番だぞ」
「本番、でございますか?」
松千代が首を傾げる。
「信長様が消え、次は恐らく羽柴秀吉が頭角を現す。やがて徳川と秀吉は激突し……最終的に和睦の条件として、秀吉は徳川に『人質』を要求してくるはずだ」
松千代の顔が強張った。
「人質……! では、徳川の正統な血を引く長丸様が、秀吉の元へ送られるのでは……!?」
「まさか。絶対に行かん」
私は静かに首を振った。
「秀吉の目と鼻の先に乗り込んで、不自由な人質生活など送ってたまるか。私はこの三河で、凡愚な息子のフリをしながら徳川の財政を確かなものにせねばならんのだ」
「し、しかし……長丸様が行かないとなれば、一体誰が……」
「……次兄の於義丸(秀康)兄上だ」
私の言葉に、松千代がハッと息を呑んだ。
「於義丸様を……! ですが長丸様、本当に於義丸様を秀吉の元へ追いやるおつもりですか?」
松千代の問いに、私は胸の奥を拳で強く殴られたような痛みを覚えた。
(やりたくてやるわけがないだろう……!)
私はぎゅっと幼い拳を握りしめ、城の奥へと視線を向けた。
あそこでは今も、八歳になる次兄・於義丸兄上が、汗と泥に塗れて木刀を振るっているはずだ。
母(お万の方)の身分が低いというだけで父上に疎まれ、正式な名すら与えられず、まともな師すらつけてもらえなかった哀れな兄。
家中に後ろ盾もなく、教養を授けてくれる者もいない環境で、幼い兄上が「父に認められたい」「己の存在を証明したい」と願ったとき、縋れるものは身一つで磨ける『武』しかなかった。
血を吐くような努力で剣を振るい、かつて剣豪と呼ばれた将軍・足利義輝のごとく、武の凄みで己の立ち位置を掴み取ろうとしたのだ。
(だが……それが皮肉にも父上の恐怖を跳ね上げてしまっている)
信長様の死、信康兄上の切腹、そして伊賀越えの地獄。
『武』の恐ろしさに心を病んだ今の父上にとって、武芸に凄みを増していく於義丸兄上の姿は、救いではなく『いつか自分を脅かす狂刃』にしか見えていないのだ。
認められたくて磨いた武芸が、かえって父の不信感を煽り、冷遇を深めていく――これほど哀しい皮肉があるだろうか。
(このまま三河に留まればどうなる? 父上のトラウマが暴走し、いつか『謀反の疑い』をかけられて処分されるか、冷遇の果てに腐っていくだけだ)
逆に、秀吉の元へ行けばどうだ?
秀吉は子供に恵まれていない。武勇に優れ、徳川の血を引く於義丸兄上を『養子』として歓迎し、破格の領地と名誉を与えるはずだ。
(兄上のその武は、三河の暗がりではなく、天下の表舞台でこそ光り輝く。……兄上の命を救い、武人としての未来を開き、徳川の破滅も防ぐ。これしか、全員が助かる『最適解』がないのだ)
だが、そのためには――。
「……松千代。母上(お愛の方)の『愛』を利用する」
声が僅かに震えた。
母上は、徳川家の中で唯一、身分差別なく於義丸兄上を実の子のように愛し、庇っている聖女のような人だ。
「母上に『於義丸様がこの城にいては、家康様に殺されてしまう』と危機感を抱かせる。我が子のように兄上を想う母上だからこそ、涙を流して父上に『於義丸様を秀吉様の養子に』と訴え出るはずだ」
「お方様の親心すら、盤面の手数としてお使いになるのですか……」
松千代が息を呑む。
私は、幼い自分の小さな掌を見つめた。
(くそっ……! 私がもっと大人で力があれば、こんな回りくどい真似をして母上を泣かせずに済んだのに……!)
現代人としての倫理観と、幼子の身体という無力さ。
認められたくて刀を振るう兄の健気さと、それを恐怖する父の業。
戦国の残酷な構造が、三歳の私の胸を激しく締め付ける。
だが、私は無理やりに口元を歪め、不敵な笑みを張り付けた。
罪悪感を押し殺し、冷徹な策士としての仮面を被るために。
「フッ、善人ぶって全員共倒れになるくらいなら、私は喜んで鬼になろう。……松千代、噂を流せ。兄上の命と……その誇りを救うぞ」
三歳と五歳の幼い影が、夕闇の中に怪しく、そして切なく伸びていた。
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