第1話 暗闇の選択と、隠された血
【元和二年(一六一六年)――江戸城・大広間】
「御前様! また勝手に勘定方の予算を削りましたね! 律儀なのも結構ですが、少しは将軍としての威厳をお持ちなさい!」
大広間に、正室・お江のけたたましい怒声が響き渡る。
「す、すまんお江……だが、金の計算だけはきっちりしておかねばならぬのだ……」
徳川第二代将軍・徳川秀忠は、冷や汗をかきながら頭を掻いていた。
世間からの秀忠の評価は散々なものだ。
『妻の尻に敷かれる戦下手』『恐妻家で真面目なだけの金庫番』――。
居並ぶ家臣たちもまた、「また上様が叱られている」と苦笑交じりに視線を逸らしている。
その時であった。
ドタバタと騒がしい足音が廊下を駆け抜け、身繕いも乱れた使者が大広間へ雪崩れ込んできた。
「急報! 急報――っ! 駿府の大御所様が……大御所様(家康)が、薨去されました!!」
静寂が座を包み、次の瞬間、お江が息を呑んだ。
「父上様が……!?」
「父上ぇぇぇっ……! なんということだ、父上ぇっ……!」
秀忠は床に伏し、子供のように声を上げて号泣した。
肩を大きく揺らし、畳にボタボタと涙をこぼすその姿に、家臣たちは目頭を押さえた。
「上様……お可哀想に……」
「どこまでも父想いで、律儀で孝行なお方だ……」
誰もが、心から将軍の悲しみに同情していた。
――その夜。
月明かりすら届かない江戸城の静寂な廊下を、
一人歩く影があった。
秀忠であった。
先ほどまでの涙は、跡形もなく消え去っている。
その瞳には、影のように冷酷で知的な光が宿っていた。
(……ようやく逝ったか、狸親父)
秀忠の口元が、歪んだ笑みを刻む。
秀忠の脳裏には、全国の金銀山、兵糧の物流網、そして幕府の巨大な財務機構が完璧な図面となって浮かび上がっていた。
(あなたが天下を取れたのは、私が裏で兵糧と貨幣を支配していたからだ。私が「戦下手な金庫番」を演じてやったからこそ、あなたは安心して表舞台で狸を演じられた。……今日から、この国のすべては私のものだ)
秀忠は闇の中で、静かに、そして不敵に暗躍の過去を振り返る。
(私は最初から、こうなるために動いていた――)
【天正七年(一五七九年)――岡崎城】
世は織田信長が天下布武へとひた走る激動期。
織田への服従を示すため、徳川家康は妻・築山殿を処刑し、長男・信康を切腹させた。
三男・長丸(後の徳川秀忠)が生まれて、わずか五ヶ月後の惨劇であった。
視界が揺れていた。
重苦しい空気と、城内に満ちる絶望の気配。
(徳川家康の三男・長丸(秀忠)として生を受けて、わずか五ヶ月……)
転生者である私は、揺りかごの中で天井を見つめながら冷徹に思考を巡らせていた。
歴史は、私に猶予など与えてくれなかった。
徳川家を揺るがす最悪の惨劇――長兄・信康の切腹と、母・築山殿の処刑が執り行われた直後であった。
長兄・信康は優秀であったらしい。武芸に秀で、徳川の未来を担う絶対的なエースだった。
だが、だからこそ殺されたのだ。
信長が恐れたのは、信康兄上の優秀さだけではない。母方の「旧今川家」という、徳川内部における血統の格の高さと信長の娘を娶っており嫡男としての立場は盤石なはずたった。
当時、信長は長篠の合戦で武田に勝利後、武田勝頼は凋落するかと思われたが、急転直下上杉謙信と同盟が結ばれた。だが、その謙信もすぐに病没し、上杉家では御館の乱が勃発。信長にとって目の上のたん瘤であった上杉、武田両家が同時に転がり落ちていく豪運に見舞われていた。
そんな中、上杉と武田の同盟を恐れた北条が徳川との同盟を画策しているとの知らせを信長が聞けばどうなるか。
しかも嫁いだ徳姫からは不穏な文は届いたことで不信感は確信に近いものになったのであろう。
対武田の役割を終えようとしていた徳川に対し、
信長は、家康(父上)が本当に自分に服従しているか試す『踏み絵』として、妻と長男の命を要求するのも戦国の世であればやむを得ないことなのかもしれない。
父上は、泣く泣く我が子を切り捨てたと、ひそひそ話していた乳母から聞えてくる。
(……恐ろしい世界だ)
赤ん坊の私は、小さな拳をそっと握りしめる。
この家で「目立つ優秀さ」や「強すぎる血統」を見せれば、織田にも、そして生き残りに必死な父上にすら見捨てられ、消される。
赤ん坊のいま、下手にチートを発揮して無双するなど論外の自殺行為だ。
(生き残る道はただ一つ。史実の通り『戦下手で妻に頭が上がらない、無害で使いやすい息子』を徹底的に演じ切ること)
武力など誇示しない。戦に出るなど以ての外。
私は「銭」でこの戦国時代を買い叩いてやると心に決めた。
(……だが、私自身が表立って動けば目立つ。私自身は『凡愚な幼子』の仮面を被り、影で私の手足を動かす『相棒』が必要だ)
【天正十年(一五八二年)――岡崎城】
それから三年。私は三歳となっていた。
「おい松千代! お前のような寄子の小僧が、なぜ上様のお近くをウロウロしている!」
城の片隅、納屋の裏手で怒号が飛んでいた。
数人の小姓や家臣たちが、一人の幼い少年を取り囲み、泥のついた服を押しのけて嘲笑っている。
少年は、五歳ほどの土井松千代(後の土井利勝)。
唇を固くかみ締め、じっと地面を見つめて耐えていた。
「真面目なだけで能のない小僧め! どんな手を使って殿に取り入ったのか……。ほれ、さっさと消えろ!」
突き飛ばされた利勝は、土の上に手をついた。悔しさに体を震わせながらも、一切の反論を口にしない。
物陰からその光景を、私は静かに見つめていた。
(土井利勝……史実では後に我が幕府の『大老』となり、徳川の体制を盤石にする男。そして――父・家康の『落胤(隠し子)』と囁かれる男だ)
利勝の母は、家康父上が若い頃に手をつけた女性とされる。だが、政治的な理由から表向きは土井家の養子(寄子)として扱われ、徳川の血を引きながら「日陰者」として不当に扱われていた。
(利勝は徳川の血を引きながら、決して徳川を名乗れない。一方、私は徳川の男だが、表舞台で目立つ気は毛頭ない……)
私の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
(見つけたぞ。私の最初の『手足』を)
家臣たちが去った後、利勝は一人で立ち上がり、服の泥を払うと、木の枝を使って地面に数字や文字を書き始めた。城内の物品や兵糧のやり取りを、独学で計算して心を落ち着かせているようだった。
「松千代ー、なにしてるのー?」
舌っ足らずな声を上げながら、三歳の私がテコテコと歩み寄る。
利勝は慌てて枝を捨て、深く頭を下げた。
「長丸様……! お戯れでしたら他へ……私のような不遇な者に関わると、長丸様まで周囲から笑われます」
「松千代は、数字が得意なの?」
私は無邪気な子供の振りをしながら、利勝が地面に書いていた不揃いな計算式を覗き込んだ。そして、拾い上げた小枝で、利勝が書いていた数字の横にちょこんと新しい数字を書き加えた。
「ここ、ぽんぽんって計算すると、数字がそろって楽しいよ?」
「え……?」
利勝は呆れたように地面を見たが、次の瞬間、その顔が激しく強張った。
「な……!?」
利勝は目を剥いた。
私が書いた拙い数字の並び――それは、単式簿記ではどうしても辻褄が合わなかった「輸送中の米の損耗率」と「商人の隠蔽手数料」を一瞬で見抜き、完璧に辻褄を合わせる『魔法の計算』だった。
「長丸様……これは、一体……」
震える声で尋ねる利勝に対し、私はヘラヘラとした幼子の表情をふっと消した。
幼子の小さな体から発せられたとは信じがたい、冷酷で重重しい威圧感が、その場を支配する。
「松千代。……お前は父上の血を引きながら、徳川の姓を名乗れないのだろう?」
「っ――!?」
利勝の全身が雷に打たれたように硬直した。顔から血の気が引き、息を吸うことすら忘れたように私を見つめている。
「な、なぜ……それを……」
「知っているさ。お前の悔しさも、その優秀さも」
私は静かに歩み寄り、立ち尽くす利勝の肩に小さな手を置いた。
「私は徳川の三男だが、表で武功を誇示する気はない。目立てば信康兄上の二の舞だ。だから私は『使いやすい凡愚』を演じる」
「長丸様……」
「お前は徳川の血を引きながら表舞台に立てない。私は徳川の男でありながら表に出たくない。……松千代、私とお前で徳川の『表と裏』を分かち合おう」
利勝の瞳に、激しい動揺と、それを上回る熱量が宿る。
「私が表で凡愚を演じる間、お前は私の『手足』となれ。お前が日陰で溜め込んだその知恵と忠義を、すべて私に預けろ。徳川の裏の頂点に、お前を立たせてやる」
幼子とは思えぬ凄みに圧され、居場所のなかった少年・利勝の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
利勝は吸い寄せられるようにその場に膝をつき、泥も気にせず額を地面に擦り付けた。
「……この命に代えましても! 長丸様のお手足となって働きましょう……!」
「良い返事だ」
私はニヤリと笑った。
(最初の『影』は手に入った。次は……私を後継者として認めさせるための盤面づくりだ)
翌日。
長丸の部屋では、私が鼻水を垂らしながら積み木を倒して「きゃっきゃ」と笑っていた。
そこへ、重苦しい面持ちの父・家康が通りかかる。
信康を失った傷が癒えぬ父は、無邪気に遊ぶ私を見て、ふっと目元を緩めた。
「長丸は相変わらずおとなしい奴だな。まあよい……信康のような危うさもなく、実に手のかからぬ子だ。将来はせいぜい徳川の使いやすい金庫番にでもなればよい」
父上は満足そうに頭を撫でると、そのまま去っていった。
去っていく父の背中を見送りながら、部屋の陰に控えていた利勝と私は、静かに目配せを交わした。
(かかったな、父上。……『凡愚の仮面』と『隠された血の相棒』。まずは第一歩だ)
幼い私の口元に、誰にも見えない不敵な笑みが浮かんでいた。
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