第20話 名護屋の狂躁と海上の蜘蛛の糸
文禄元年(一五九二)夏。
肥前名護屋の街は、潮の臭いではなく、焦げた脂と銭の臭いがした。
半年前まで貧疎な一本の網を引いていた名護屋浜は、いまや三十万の人間が蠢く巨大な蟻塚と化している。全国から掻き集められた大名陣屋の瓦屋根が連なり、陸には絢爛たる金箔の屏風が立ち並び、沖には無数の軍船と南蛮の黒船が揺れていた。
後方では秀吉が自作の能に興じ、大坂から呼び寄せた茶々を陣中に侍らせ、狂躁のバブルに沸いている。
「米一石に、銀三十両……。正気の沙汰ではございませんな」
徳川陣屋の奥、潮風の吹き抜ける板敷きで、常真――かつての織田信雄は、朱塗りの扇でパチンと膝を叩いた。
膝前には、四天王寺の財務を仕切る僧侶と、博多商人から届いた帳面がうずたかく積まれている。
「京の三倍、東国の五倍の値段です。名護屋に群がる大名どもは、兵を食わせるために家財を売り払い、領地の田畑を質に入れている。太閤殿下が朝鮮で天下の威光を示そうとすればするほど、この町で銭を撒き散らすことになる」
常真は可笑しそうに目を細め、脇に座る十三歳の少年に視線を投げた。
「秀忠よ。その方が仕掛けた四天王寺の米、飛ぶように売れておるようですぞ」
秀忠は朱筆を止め、静かに帳面から目を上げた。その瞳には、十五万の軍勢を呑み込んだ名護屋の熱狂など、微塵も映っていない。
「売るのではございません、義父上。……お貸しするのです」
「貸す、とな?」
「ええ。米をそのまま売れば、得られるのは一度きりの銀銭に過ぎません。ですが『渡海で兵糧が届かず、窮地に陥った大名』に高利で貸し付け、返済の担保に『領地の年貢徴収権』や『鉱山の採掘権』をとる。……名護屋の熱狂は一時の幻ですが、彼らが差し出す借状は、永久に我らの血肉となります」
常真は一瞬だけ息を呑み、次いで「くくっ」と腹を揺らして笑った。元・天下人の息子としての品格の裏に、底知れぬ凄みが滲む。
「恐ろしい息子殿だ。……だが、その足元が揺らぎ始めておりますぞ」
常真が差し出した一枚の破状。そこには「肥後・梅北一揆」の文字があった。
「過酷な兵糧徴発と、この名護屋の物価高騰に耐えかね、島津の家臣・梅北国兼が挙兵したぞ。肥後の城が落とされ、九州全体が大揺れだそうだ」
「島津殿は、いま朝鮮の陣におられますね」
「そのようじゃ。留守居の家臣どもは青ざめておったわ。『太閤殿下に知れたら島津は改易だ』と、名護屋の陣屋で震え上がっておる。……そこで言われた通り、少しばかり助けてやったわ」
常真は扇子で己の胸を軽く叩いた。
「能興行の舞納めと称して島津の留守居を陣屋に招き、『一揆の鎮圧資金と、太閤殿下への弁明工作の金、四天王寺が立て替えてやろう』と囁いてきたわ。……島津の足元、がっつりと四天王寺の金で縛り付けておいたぞ」
「見事な手際です、義父上」
秀忠の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
秀吉が能や茶会に興じている裏で、常真は「落ちぶれた織田家の名物男」として大名たちの懐に入り込み、秀忠の金融網へ誘い込む最高の営業マンとして機能していた。
「ですが――」と、秀忠は外の海を見やった。
「本番はここからです。肥後の一揆は、奉行所の補給網が破綻した最初の悲鳴に過ぎません」
その言葉通り、崩壊はすぐに訪れた。
朝鮮半島からの知らせは絶望的だった。李舜臣率いる朝鮮水軍によって玄界灘の補給線は脅かされ、ソウルや平壌に及んだ豊臣軍から「兵糧が底をついた」「凍死者が続出している」と悲鳴の文が殺到したのである。
名護屋城の本丸。三成は激怒する秀吉の前に平伏していた。
「三成! なぜ米が届かんのだ! 奉行衆は何をしておる!」
秀吉の怒号が響き渡る。六十を過ぎ、痩せ衰えた太閤の眼光は、老いてなお周囲を凍りつかせる狂気を孕んでいた。
「は、ははっ! 玄界灘の風浪激しく、また瀬戸内海からの輸送船が手配できず……毛利家の水軍も過酷な動員で船頭が尽きかけており……!」
「言い訳など聞きたくないわ! 兵糧が届かねば、渡海した諸将が餓死するのだぞ! 奉行失格だ!お主、どうなるかわかっておろうな?」
胃を押し潰されるような沈黙が広間を支配した。三成の額から冷や汗が床に滴り落ちる。
その時。かさりと畳を擦る音がした。
末席に控えていた常真が、すっと前に進み出たのである。
「太閤殿下。奉行衆ばかりを責められるのは、少々酷というものにございます」
秀吉がギラリと目を向ける。
「常真か……どういうことだ?」
「実は……徳川の若、秀忠殿が、前々より太閤殿下の御陣を案じておられました。東国および四天王寺の伝路を使い、すでに大坂の倉庫へ大量の兵糧米と防寒具を回送させております」
「何……? 東国の米だと?」
「左様。さらに毛利家とも話をつけ、疲弊した毛利の領国を痛めぬよう、四天王寺の米を瀬戸内海経由で毛利船団に『委託輸送』させる手はずを整えております。……三成殿の手が回らぬところを、『わしの息子である』秀忠が陰ながら支えておりました」
座の一角で、毛利家の安国寺恵瓊が「は、ははっ、真にございます!」と慌てて追従した。毛利にとっても、四天王寺から輸送手数料を受け取り、自領の米を奪われずに済むこの案は、地獄に垂らされた蜘蛛の糸だったのだ。
秀吉の視線が、常真の隣で深々と頭を下げている十三歳の秀忠に注がれる。
「秀忠……それは真か。自腹を切り、そこまで手回しをしていたというのか」
秀忠は顔を上げず、緊張に声を震わせるフリをしながら言った。
「……差し出がましき振る舞い、何卒ご容赦ください。三成殿が不眠不休で励まれるお姿を拝見し、少しでも太閤殿下の天下の御偉業をお助けしたい一心で……私の独断にて動き申し上げました」
しばしの静寂。
やがて、秀吉の顔に笑みが広がった。
「でかした! でかしたぞ秀忠! 徳川の忠義、誠に天晴れである!」
秀吉は手を叩いて絶賛し、冷や汗を流す三成を睨みつけた。
「三成! 見よ、これが真の忠義だ! お前は秀忠の手回しを見習い、直ちに四天王寺の米を名護屋へ運び込め!」
「……ははッ! 謹んで……お言いつけに従います……」
平伏する三成の顔は、屈辱と敗北感で土色に変色していた。
三成は命拾いをした。だが、この瞬間、豊臣軍の命脈である「兵糧と物流の蛇口」は、完全に秀忠の手中に落ちたのである。
その夜。徳川陣屋の暗がりで、秀忠と常真は静かに杯を交わした。
「三成殿のあの顔……見ものであったな」
常真が満足そうに酒を煽る。
「これで太閤殿下からは『至高の忠義者』と称えられ、毛利には恩を売り、豊臣の補給線を合法的に握った。……四天王寺の金庫は、もう溢れんばかりじゃ」
「ですが義父上、これで終わりではありません」
秀忠は冷めたお茶に視線を落とした。
「いずれ……大坂から『あの報せ』が届きます」
「あの報せ……?」
秀忠が予見していた通り、名護屋で秀吉の子をその身に宿した茶々は出産のため大坂に戻されていた。
そして、季節は巡り、文禄二年(一五九三)八月。
その大坂から一通の早馬が届き、名護屋城に激震が走った。
大坂城の茶々が、男児である拾、後の「秀頼」を出産したという報せである。
名護屋城は狂喜乱舞した。我が子の誕生に涙を流して歓喜し、すぐさま大坂へ戻る支度を始める秀吉。
だが、その裏で、新関白である豊臣秀次の顔からは完全に血の気が引いていた。
大坂城の奥。誕生したばかりの我が子を抱く茶々は、窓の外を見つめて冷たく微笑んでいた。
かつて名護屋へ発つ直前、秀忠に「孤独と血の匂い」を見抜かれた日のことを思い出す。
(見なさい、秀忠……。この子が私の光。豊臣を、内側から塗り替えてやりますわ)
名護屋の徳川陣屋。報せを聞いた常真が、静かに息を吐いた。
「……関白(秀次)殿の命数が、これで縮まったな」
「ええ」
秀忠は算盤の玉を一つ、パチンと弾いた。
「豊臣は、内側から勝手に裂けていきます。……我らは四天王寺の金と物流を握り、ただその崩壊を見届けましょう」
朝鮮出兵の泥沼、尾張派と近江派の決裂、そして秀次事件へのカウントダウン。
豊臣滅亡への歯車が、狂躁の名護屋で、静かに音を立てて噛み合わさった。
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