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銭将軍秀忠、金庫番からの成り上がり  作者: エピファネス
第3章 上方人質編

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第16話 大和大納言の遺言

 天正十九年(一五九一年)正月。

 僕――徳川秀忠は、再び豊臣の本拠地である上方へと足を踏み入れていた。


 表向きは「徳川家から豊臣家への人質」。

 だがその実態は、「徳川の最新情報を風魔経由で江戸へ飛ばしつつ、豊臣の心臓部を覗き込む二重隠密」である。


 供には、最高峰の護衛である服部半蔵率いる伊賀忍び。

 そして食客として連れてきたのは、改易されて髪を払い「常真じょうしん」と名乗るようになった元・織田信雄と、その娘で僕の幼き妻・小姫である。


「おお、秀忠! よう戻ったな!」


 大坂城の絢爛豪華な大広間にて。

 関白・豊臣秀吉は、僕を見るなり破顔一笑し、実に機嫌よく迎えてくれた。


「は。関白殿下におかれましては、ご健勝にて何よりにございます」


「うむうむ! 相変わらず素直で可愛い奴じゃ。……時に秀忠、お主にひとつ、極秘の『出張』を命じたい」


 秀吉は身を乗り出すと、声を潜めて言った。


「大和(奈良)におるわしの弟・秀長ひでながのことじゃ。……実は昨年末より病床に伏しており、大和、紀伊、和泉ら百万石とその周辺にある我が豊臣の『蔵入地(直轄領)』の管理や年貢の計算が、完全に滞っておるのだ」


(やっぱり来たか……!)


 史実を知る僕は、心の中で冷や汗をかいた。

豊臣秀長――大和大納言と称され、温厚な人柄と圧倒的な調整能力で、暴走しがちな兄・秀吉を陰で支え続けた「豊臣政権の絶対的要かなめ」である。


「お主は算術が得意と聞いておる。三成(石田三成)を補佐し、大和へ赴いて蔵入地の帳簿を改め、年貢の辻褄を合わせてまいれ」


「……かしこまりました。秀長様の病が癒えるよう、真心を込めて務め上げます」


 人質に直轄領の会計整理を命じるなど、正気の沙汰ではない。

 だが、豊臣政権は拡大スピードに実務官僚の数が追いついておらず、深刻な人手不足に陥っているのだ。

(使われる以上は、豊臣の財政データを根こそぎ抜かしてもらうがね……!)


 大広間を辞し、大和へ発とうとする僕を、奥御殿の回廊で呼び止める声があった。


「秀忠殿、少し待っておくれ」


 振り返ると、気品の中にも温かみを湛えた女性――秀吉の正室である北政所(寧々様)が、小走りで歩み寄ってくるところだった。その表情には、隠しきれない深い憂いが陰っている。


「北政所様……」


「殿下(秀吉)から聞きましたよ。小田原から戻ったばかりだというのに、大和へ赴いてくださるとか。……本当に申し訳ないねぇ」


 寧々様はすまなそうに目を細めると、傍らの侍女から重厚な小箱を受け取り、僕の手へと優しく押し包むように手渡してきた。


「これは……?」


「名医に調合させた気付けの薬と、小一郎(秀長)が好きだった銘菓ですよ。……あの人はね、殿に仕えてからというもの、休む間もなく苦労ばかり背負い込んできた。豊臣の家がこうして保っていられるのも、すべてあの人のおかげなのだから……」


 寧々様は寂しげに微笑むと、僕の肩にそっと手を置いた。


「秀忠殿。小一郎はね、殿にとっても、私にとっても、かけがえのない大切な弟なのです。どうぞ……あの方の力になってあげてくださいね」


「……はい。必ずや、寧々様の温かいお心をお届けいたします」


 政権の頂点に立ちながらも、家族を思いやる寧々様の純粋な情情に、僕は小さく胸を突かれた。

 秀長という「重し」を失えば、この豊臣の家そのものが崩れ落ちていくことを、寧々様もまた本能的に察しているのかもしれない。


 数日後。僕は服部半蔵と伊賀の精鋭を伴い、大和国・大和郡山城を訪れていた。

 通された奥の間に漂うのは、濃厚な薬の匂い。

 夜着に包まれ、病床に伏していたのは、痩せこけた初老の男――豊臣秀長その人であった。


「……お初にお目にかかります、大納言様。徳川秀忠にございます。……それと、北政所様よりお薬とお見舞いの品をお預かりしてまいりました」


 僕が深々と頭を下げて小箱を捧げると、秀長様は途切れ途切れの息の下から、弱々しく、だが嬉しそうに目を細めた。


「……義姉あね上が……そうか、気遣わせてしまったな……。よく来てくれた、徳川の若君……。兄者が無茶を言ったであろう……すまぬな……」


「滅相もございません。大納言様のご負担を少しでも減らせるよう、尽力いたします」


 僕はすぐさま、病床の脇に持ち込まれた膨大な量の「検地帳」と「年貢収用帳」の山に向き合った。

 豊臣の蔵入地会計は昔ながらの単式簿記で記入されており、計算違いや二重計上が山ほど放置されていた。


 僕は現代の「複式簿記」のロジックを脳内で展開し、爆速で算盤を叩き、筆を走らせていく。

 わずか五日で、数ヶ月間停滞していた大和・和泉・紀伊の蔵入地帳簿が、完璧な収支決算書へと姿を変えた。


「……な、なんだこれは……!?」


 報告を受け様子を見に来た石田三成が、完璧に整理された書類の山を見て、目を丸くしてドン引きしていた。


「あ、石田殿。計算が合っていなかった箇所を赤字で修正しておきました。これなら今期の年貢の過不足はゼロになります」


「あ……ああ……。……化け物か、この少年は……」


 三成は呆然と呟き、僕の顔と書類を何度も往復して見つめていた。


 三成が浮き足立って書類を大坂へ報告しに向かった後。

 部屋には、病床の秀長様と、僕の二人だけが残された。


「……秀忠殿」


 秀長様が、震える手で僕の袖をキュッと掴んだ。

 その目には、病人のものとは思えぬ鋭い光が宿っていた。


「……見事な手腕だ。幼子おさなごのフリをしておるが……お主のその頭脳、ただ者ではないな」


「……」


「よい、隠さずとも……。わしはもう、長くない。……だからこそ、頼みたいのだ」


 秀長様はゼィゼィと胸を上下させながら、絞り出すように言葉を繋いだ。


「兄者は……わしが死ねば、たがが外れる。……意に沿わぬものを裁き、無謀な外征(朝鮮出兵)に走り、豊臣の家を自ら壊すであろう……。三成ら文官と、正則(福島正則)ら武頭の溝も、もう抑え込めぬ……」


 豊臣政権の崩壊を、誰よりも予見していたのは、他ならぬ秀長様本人であったのだ。


「秀忠殿……。この文箱ふばこを受け取ってくれ」


 秀長様が枕元から差し出したのは、重厚な漆塗りの文箱であった。


「ここには……わしが管理していた畿内蔵入地の『裏帳簿』と、大和の寺社、上方の豪商たちとの『極秘の連絡網』が全て記されておる。……お主に託す」


「! ……なぜ、徳川の人質である僕に……?」


 僕が絶句すると、秀長様は切なく微笑んだ。


「兄者が暴走した時……天下が再び泥沼の乱世に戻らぬよう、豊臣の毒を呑み込み、この国を平定できるのは……家康殿と、そして恐ろしい才能を隠し持つ、お主しかおらん……。豊臣のためではない……この国の民のために、受け取ってくれ……」


「大納言様……」


「頼んだぞ……徳川の若君……」


 それが、豊臣政権最大の良心と呼ばれた男の、最期の言葉となった。


 天正十九年一月二十二日。豊臣秀長、没。

 この男の死により、天下人・豊臣秀吉の「暴走」を止めるブレーキは、完全に失われたのである。


 秀長様の病状が急変する直前、大和の蔵入地や寺社勢力の最終確認のため、僕が大和の山裾を検分して回っていた時のことだ。


 笠置山の麓、柳生谷に佇む小さな稽古場から、静まり返った山林を切り裂くような鋭い気合いの咆哮が響いていた。


「はぁっ!」


 吸い寄せられるように足を止めると、竹林の中で木刀を構える二人の剣士がいた。

 一人は、鋭い眼光を放つ青年。もう一人は、白髪を湛えながらも隙の欠片もない体躯をした六十過ぎの老人である。


(あの老剣士は……柳生新陰流の開祖・柳生石舟斎(宗厳)! そして青年は柳生宗矩……!?)


 かつて検地で「隠し領地」を糾弾され、領地を没収されて以来、この柳生谷で貧困と戦いながら浪人同然の生活を送っている一族だ。


 気配に気づいた青年――宗矩が、一瞬で木刀の先をこちらに向けた。背後の服部半蔵が影から飛んで出ようとするのを、僕は手で制する。


「怪しい者ではないよ。徳川家康が息、秀忠と申す。……さすがは柳生新陰流、見事な気合いだね」


 僕が少年の笑みを浮かべると、奥で腕を組んでいた老石舟斎が、カッと目を細めた。

 老剣士の直感が、十一歳の子供の皮を被った僕の「異質な気配」を察知したのだろう。


「……徳川の世子様が、このような落ちぶれた柳生谷に何の御用で?」


「ふふ、落ちぶれてなどいないよ。柳生新陰流の剣と……大和・近畿に深く張られた柳生の情報網は、天下の宝だ」


 僕は懐から、ずっしりと重い金貨の詰まった袋を取り出し、宗矩の手元へ差し出した。秀長様の帳簿整理の補佐で、秀吉から正式に与えられた「手当て(賞与)」の一部だ。


「これは……?」


「手付け金だよ。見ての通り、僕は今、大坂で豊臣の人質生活を送っていてね。身の回りを守る確かな腕と、上方の動きを探る『眼』を父上から借りていることもあり、直臣が喉から手が出るほど欲しいんだ。……どうかな、僕に仕えてくれないか?」


 宗矩が息を呑み、父・石舟斎を見る。石舟斎は静かな、だが重みのある声で問うた。


「……我ら柳生は、関白様に領地を奪われた落魄の身。徳川様が我らを雇えば、豊臣に目を付けられかねませぬぞ」


「心配いらないよ。表向きは僕の『個人的な剣術稽古の謝礼』として処理するからね。いずれ僕が江戸(関東)へ帰る日が来たら、君たちを徳川の正式な側近・指南役として召し抱えると約束する」


 十一歳の子供とは思えぬ、理路整然とした提案と圧倒的な先見の明。

 石舟斎と宗矩は顔を見合わせると、やがて同時に膝を突いた。

 老石舟斎が、心底から感服したように深く頭を下げる。


「……幼子と見紛うばかりのお体の中に、なんと頼もしき器量を秘められていることか。……柳生一族、この御恩、決して忘れませぬ。秀忠様のために、影となりて働きましょう」


(よし! 柳生一族を資金援助で完全に繋ぎ止め、将来の将軍家指南役&最高峰の隠密ルートを確保!)


 大和郡山城からの帰り道。

 僕は馬に揺られながら、秀長様から託されたズシリと重い文箱を抱え込んでいた。

(……いやいやいや! 遺言が重すぎるだろ!!)


 心の中で大惨叫をあげる。

(僕はただの人質だし、11歳の子供だよ!? なんで豊臣家の裏帳簿と上方商人の情報網を丸ごと託されてるんだよ……! 秀吉に見つかったら一発で打ち首だよ!!)


 だが、もらってしまったものは仕方がない。

 僕は背後に控える服部半蔵に、密かに文箱を手渡した。


「半蔵。これを伊賀の最速便で、箱根の風魔小太郎へ回せ。風魔経由で江戸の父上と伊奈忠次へ送り、上方の物流情報をすべて徳川の仕組みに組み込め。……それと、柳生家との極秘連絡経路もお前が管理しろ」


「ハッ! 柳生を取り込まれた御手配、実に見事……感服いたしました!」


 半蔵が影のように文箱を受け取り、消えていく。

(はぁぁ……。これで徳川の経済力と情報網はまた跳ね上がるが、僕の胃の痛みも跳ね上がるな……)


 ぐぅ〜〜〜……。

 静かな大和路に、僕の悲痛なお腹の音が盛大に響き渡った。

 豊臣家という巨大な泥舟の真ん中で、11歳の胃痛な暗躍が、本格的に始まったのである。


数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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