第11話 名胡桃の引き金と、二〇万の特需
時間は少し遡る――。天正十七年(1589年)十一月、大坂城の空気は凍りついていた。
「ぬははははは! 北条めが、わしの裁定を反故にしおった……!」
真田昌幸からの緊急報を得た豊臣秀吉の下卑た笑いが、広間に響き渡る。
北条方の猪俣邦憲が、真田領の名胡桃城を騙し討ちで奪取したという。秀吉が発した「惣無事令」――大名同士の私闘を禁ずる天下の法――に対する、露骨な挑戦であった。
秀吉は直ちに全国の大名へ小田原征伐の下知を発した。
大坂屋敷にてその報を聞いた徳川秀忠は、静かに目を細めた。傍らには、小姓として付き従う松千代(土井利勝)と、実務を仕切る本多弥八郎(正純)が控えている。
「松千代、弥八郎。ついに動いたぞ」
「はい、若君。関白様は、北条を叩き潰す気満々にございます」
弥八郎が低い声で応じる。秀忠は、文机の上に広げた地図を指で撫でた。
「表向き、我らは関白様に恭順する。父上(家康)を助け、徳川の律儀さを示すため、私も陣中に従軍すると申し出よう。……だが、ただ戦について行くだけでは芸がない」
秀忠の目が、怪しい光を帯びる。
「東海道を、豊臣方の二〇万を超える大軍が怒涛のごとく下るのだ。兵糧、薪炭、馬の糧秣、草鞋、塩、味噌……どれほどの物資が消費されると思う? 生半可な調達では、天下の大軍とて立ち往生する」
松千代が膝を乗り出した。
「まさか……我らがその兵站を引き受けるのでございますか?」
「左様。徳川領内の代官や商人、国人らに命じ、豊臣軍の進軍経路に沿って大規模な物資の集積所と販売拠点を大至急作らせよ。価格は跳ね上がる。諸大名から吐き出される莫大な戦時資金(金銀)を、すべて徳川の懐に吸い上げるのだ」
「なるほど……! 表向きは『豊臣軍の円滑な進軍を助ける忠義の兵站協力』。しかし実態は『豊臣の軍費を徳川領内に還流させる大商い』というわけですな」
弥八郎が感嘆の溜息を漏らす。だが、秀忠の暗躍はそれだけに留まらなかった。
「それだけではないぞ、松千代。物資を売りつける際、帳簿を極密に付けさせよ。どの大名がどれだけの糧秣を買い、どれほどの金を出したか。それを分析すれば、諸大名の本当の財政状態と動員能力(実力)が丸裸になる」
さらに秀忠は、冷徹な笑みを浮かべた。
「そして商人や街道の者に命じ、関東の街道、水路、宿場、北条領内の物資流通経路を細かく記録・地図化させよ。豊臣の金を使って、将来、『関東を治めるための経済・地理情報』を集約し後に備えるのだ」
「――ははっ! 直ちに取り計らいます!」
松千代と弥八郎は目を見開き、深々と平伏した。秀吉の圧倒的な威圧感の陰で、十歳の少年・秀忠は二〇万の大軍すら己の手駒として利用し始めていた。
天正十八年(1590年)三月。
東海道を進軍する豊臣の大軍勢は、箱根の険に差し掛かっていた。
秀忠は人質兼徳川の代参として陣中にあったが、その目の前で、北条方の絶対の要衝とされた山中城の戦いが始まった。
「かかれーっ!」
豊臣方の先鋒・中村一氏や一柳直末らの軍勢が、山中城の凄惨な濠へと突撃する。城壁からは鉄砲が雨あられと注ぎ込まれ、血飛沫と悲鳴が山間に響き渡った。
だが、兵力の差は圧倒的であった。豊臣軍は多大な損害を出しながらも、わずか半日で山中城を全滅させ、陥落せしめた。
「これが……実戦か」
松千代が青ざめた顔で呟く。城から立ち上る煙と、転がる骸の山。
しかし、秀忠の視線は戦場の惨状から離れ、後方へと向けられていた。そこには、徳川の手配した街道沿いの物資集積所に、豊臣方の後方部隊が群がり、高値で兵糧や馬の餌を買い漁る光景があった。
(山中城の落城は、豊臣の圧倒的な『力』。だが、その力を維持させているのは、我が仕掛けた『物流』だ)
秀忠は確信した。城を落とすのは武力だが、天下を支配するのは「物流と経済の掌握」であると。
三島にて、秀忠は父・家康との対面を果たした。
「秀忠、よくぞ無事におった。陣中での振る舞い、関白様も褒めておられたぞ」
家康は息子の無事を喜び、その肩を叩いた。秀忠は生真面目な顔つきで深く頭を下げる。
「父上、恐縮にございます。……なお、関白様への忠義を示しつつ、算術を用い、徳川の領国に莫大な金銀を吸い上げる仕掛け、また諸大名の資金力と関東の裏街道の記録、すべて松千代と弥八郎に命じて集計させております」
秀忠が差し出した一冊の秘帳をめくった家康は、絶句した。
そこには、豊臣軍の兵站を支えた膨大な利益と、豊臣諸将の懐事情、そして北条領内の詳細な物流網が緻密に記録されていたのだ。
「……これを、お前が仕組んだというのか」
「はい。豊臣の軍費で、徳川の懐を潤し、次の備えを進めております。かつて父上が『算術を極め、銭と米を蓄え、無駄な戦を避ける仕組みを作ること』を第一とせよと仰られましたので、その通りにいたしました」
我が子の常軌を逸した実務能力と冷徹な遠謀に、家康は驚愕すると同時に、背筋が寒くなるほどの頼もしさを覚えるのであった。
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