第10話 利権の網と、未来への投資
天正十八年(一五九〇年)初頭――大坂。
聚楽第での宴を終えた秀忠は、北政所(寧々)のもとへ足繁く通っていた。
「大政所様や北政所様のお好みに合うような、上等な茶や珍しい唐物を買い求め、献上したく存じます」
十一歳の可憐な少女のごとき無邪気さでおねだりする秀忠に、寧々は目を細め、大坂や堺の町を巡るための護衛と特権手形を快く与えたのだった。
だが、豪商の館へと向かう道中、秀忠(長丸)の隣を歩く後藤庄三郎の目は冷ややかであった。
「……秀忠様。現在の上方商人は、関白様の気まぐれに怯えております。全国の鉱山を直轄化しているものの、長らく軍費を『座』や豪商からむしり取ってきました。表面上は繁栄を誇っておりますが、商人たちは長期の商いの見通しが立たず、冷や汗を流しておりますよ」
「ふふ、だからこそ好機なのだよ、庄三郎」
秀忠は懐の手ぬぐいで口元を隠し、低く笑った。
訪れたのは、大坂・堺の金融と貿易の根幹を握る豪商――末吉孫左衛門の屋敷であった。
重厚な蔵が立ち並ぶ奥の間。通された秀忠と庄三郎の前には、豪奢な茶器と菓子が並べられていた。
孫左衛門は平伏しながらも、ちらりと上方を見やり、十一歳の「徳川の人質」の品定めをしていた。
「徳川の若君様。北政所様のお買い物とは……まことにお心優しいことでございますな」
「世辞はよい、末吉殿」
秀忠は差し出された茶に手を付けず、すっと目を細めた。その一瞬で、幼い子供の空気が消え失せ、部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を孫左衛門に与えた。
「関白様の度重なる征伐の軍費……莫大な臨時徴収に、お主たちも頭を痛めておろう?」
「な……ッ!?」
孫左衛門の背中に冷や汗が流れた。あまりに唐突で、あまりに核心を突いた問いだったからだ。
「秀吉公の世は華やかだ。だが、法ではなく一人の『気分』で動く。今日与えられた免税の特権が、明日には取り上げられるかもしれない。……商人にとって、これほど恐ろしいことはあるまい?」
秀忠は幼さを残す指先で、静かに文机をトントンと叩いた。
「我が父・家康が治める三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の『五国』――東海道の陸路と海路は、すべて徳川が押さえている。三河の高品質な木綿、遠江の塩と上等な茶、海産物や鉱物……上方が喉から手が出るほど欲している物産が、山ほどあるのだ」
「……若君様、それは……」
「わかっておろう? 我らは今、大坂や堺の豪商に『東海道の特権免状(関所通行税の免除と独占販売権)』を与えようと考えている。秀吉公のように気分で奪い取るような真似はせぬ。徳川の領内においては、厳格な掟の下で商人たちの取引と利益を保障することも吝かではない」
孫左衛門は息をのんだ。
単なる物品の売買ではない。これは「東海道全体の流通インフラと特権の切り売り」であり、不確実な豊臣政権下でリスクを抱える商人に対する、「絶対的な安全地帯と莫大な利権」の提示であった。
後藤庄三郎が不敵な笑みを浮かべ、追撃するように口を開く。
「商人にとって真の利益とは、目先の金銀にあらず。『永続する利権』と『それを守れる権力者』との太い絆だ。我が主・秀忠様は、父・家康公より東海道の経済と流通の差配を任されておられる。今、誰に投資すべきか……お解りでしょう」
孫左衛門は床に両手を突き、深く頭を下げた。
「……秀忠様。この末吉、若君様の深いご見識に感服いたしました。東海道の物産の流通、喜んでお引き受けいたします。また、若君様のご入用の資金や情報……いかなるものでも、裏の手配を惜しみませぬ」
「頼もしいな、末吉殿。……この縁、決して忘れぬぞ。まずは北政所様に献上する美味い茶葉を頼む。三河の茶より美味い茶葉を探すのは難しかろうがな。」
秀忠は満足気に微笑むと、再び無邪気な子供の顔に戻り、運ばれてきた菓子を美味しそうに口へ運んだ。
(――よし。これで三河・東海道の物産をテコにした、上方の豪商ネットワークとの極秘パイプが完成した。我が徳川がどこへ行こうとも、この金の流れは追随してくる)
秀吉の派手な「見せ金」の影で、十一歳の秀忠は静かに、そして確実に「日本の経済の血脈」を自らの掌中に収めていたのだった。
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