四話
(なんでしょうか……とても良い香りがします……)
体の内側に染み渡るような香りで、私の意識は浮上した。
少しの微睡の後、ゆっくりと瞼を開けると、一面橙や赤に染まった空が目に入った。
「……夕空?」
「気付いたか」
ぼーっと力なく開いていた目は、その声にぱっちりと開いた。
「え!? あの、ここは」
「本邸の一間を借りてる」
縁側を背に立膝で座る朔夜様に、神々しさすら感じてしまいそうになった。
(……そんな事考えてる場合ではありません! 私もしかして……!)
「朔夜様……あの、私、もしかして……」
「倒れたな」
「あぁ〜!!」
「笑いながらな」
「……も、申し訳ありません〜!」
「……ふ、はは!」
布団に額を擦り付ける勢いで謝っていた私の耳に、聞き慣れない声が聞こえた。
思わず顔をあげると、朔夜様がそれは可笑しそうに笑っていた。
「わぁ……」
(笑ってますね……)
「あー、悪い。かなり面白かったからな」
「そ、そうですか」
なんとなく、少し複雑な気持ちにはなったものの、笑っている朔夜様を見ると心が綻んだ。
「凛」
「は、はい」
急に真剣な顔で名前を呼ばれて、思わず背筋を伸ばした。
「心配した」
「あ……」
(あーーー、私、ほんっと間抜けです!)
「申し訳ありませんでした……」
「あの酒は鬼用の酒だから、それが合わなくて倒れたのかと思った」
「……あ」
私は不意に、お義母様の話を思い出した。
『命が危なかった花嫁もいたのよ』
「とても……心配をかけてしまいました……」
「うん」
朔夜様は布団に座る私の隣へ来て、静かに腰を下ろした。
そして、大切なものに触れるように、恐る恐る私の頬へ指を伸ばした。
まだ少し熱った頬に、朔夜様の冷たい指先が心地良い。
「……本当に、大丈夫なのか?」
「はい。ただお酒に酔ってしまっただけだと思います。でもその酔いも今はもうすっかり抜けている気がしますけれど」
私が首を傾げると、少し安心したように朔夜様が笑った。
「それはこの香だ。母上が調香したやつで、酒を体から逃がしてくれるらしい」
「あ、それで……とてもいい香りで目が覚めたんです」
鼻先をくすぐる穏やかな香りに、ようやく私は、本当に大丈夫なのだと実感した。
「白露を呼ばないと。凛が目覚めたら呼べとうるさかったからな」
「……怒られちゃいますね」
「しっかり叱られとけ」
「うぅ……はい」
それからすぐに部屋に来た白露。
「凛様!!」
「は、はいぃ!」
私はこってり絞られた。
そしてそんな私を見て、朔夜様は肩を震わせて笑っていた。
「さ、凛様。お説教の後は湯浴みでございますよ。たっぷり汗をかいて頂きます」
「は、はい!」
「朔夜様、後で颯さんが来られるそうです」
「来なくていいって言っとけ」
「もういまーす」
襖の向こうから声がして、私と白露は顔を見合わせて笑った。
もちろん朔夜様は苦い顔で、舌打ちをしていた。
「朔夜様も、湯浴みですよー。ちゃちゃっと入って来てくださいねー」
「……分かってる」
「それでは凛様。我々はここで。あ、凛様はごゆっくり湯浴みなさってくださいね」
そういうが早いか、颯さんは朔夜様の背を押して部屋を出て行った。
「さ、凛様。離れに戻りましょう」
簡単な羽織を羽織って私は本邸を後にした。
離れに戻ると、今朝とは違った違和感を覚えた。
(なんと言いますか……静か?)
「白露……、何か静か過ぎませんか?」
「そうですね。今夜は皆、本邸におりますので」
「あ……そうね?」
「明日の朝餉までは向こうにおりますよ」
「朝餉までみんな飲むの!?」
「それもあります」
「それも?」
白露の足が止まった。
「さ、着きました。今日の湯は沢山の花が浮かんでいて、とても素敵だと思いますよ」
「わぁ……楽しみ!」
白露に見送られながら浴室へ入ると、ふわりと花の香りが私を包み込んだ。
湯船には色とりどりの花が浮かんでいて、白露が言っていた通りとても幻想的だった。
「いい香り……」
のんびりと湯に浸かっていた私の脳裏に、突然お義母様の声が蘇る。
『部屋の準備は抜かりなくね。何事もなく無事、初夜を迎えられるように——』
「……っは! そうです! 初夜!?」
私はその事を思い出して、ぶくぶくと湯に沈んだ。
(だから、人払い……! ああぁぁ……!)
顔が熱いのは、お湯のせいだけではない気がした。
のぼせそうになった私は、慌てて湯から上がったのだった。
湯浴みを終える頃には、外はすっかり夜の装いに変わっていた。
湯上がりを待っていてくれた白露が、柔らかな単衣を用意してくれていた。
「白露、この単衣……」
「この日のために、御前様が設えたものです」
「とても……素敵」
「さ、袖を通してください」
「わ……すごく馴染むわ」
体にしっとりと沿うような単衣に、思わず声が漏れた。
「この、薄過ぎない感じがよろしいですね」
「そ、そうなの?」
「はい。きっと殿方は」
「……っ」
私はそれ以上会話を広げない事にした。
白露の楽しそうな笑顔を見ているだけで、何を言われるのか分かった気がしたからだ。
私は差し出された椅子に座って、鏡の中の自分と向かい合った。
(普通……ですね、私)
特別美しいわけでも、可愛らしいわけでもない。
ここに居るのは、ただ、村長の娘としての矜持だった。
(それが……こんなに幸せを頂けるなんて……)
白露が濡れた髪を手拭いで挟んで、乾かしながら、鏡越しの私に微笑んだ。
「大丈夫ですよ、何も怖いことはありません。朔夜様はお優しいと思います」
「……そう、ね」
(怖がっていると思わせてしまったのね……本当は、分不相応かもって思っていたのに……いけませんね、こんな事では。一年前の私が見たら怒るでしょうね……)
「私……ここに居られる事がとても嬉しいんです」
突然の私の言葉に、少しだけ面食らった様子の白露。
でもすぐにまた笑顔で頷いてくれた。
「こちらの台詞でございますよ」
「ふふ」
「さ、ではお部屋までお送りいたします」
「は、はい!」
最後に鏡を見ると、その中の私は微笑んでいた。
(もう、揺らぎません)
部屋までの道のりは短いのに、とても長く感じられた。
いつもは人の気配が多い時間なのに、虫の声しか聞こえない。
庭を走る風の音や、池で何かが跳ねる音。
自然の音がこんなに大きいなんて、気付かなかった。
そして、思ったよりも冷静な自分にも驚いていた。
(きっと汗と一緒に、恥ずかしさも流れてしまったのね……)
それよりも、今日からは朔夜様と共に眠れる事に喜びを感じていた。
新たに用意された二人の寝室の前に着くと、白露が恭しく一礼をした。
「ここから先は、お二人だけのお時間でございます」
「分かりました。ありがとう」
白露は足音すらさせずに、静かな離れを出て行った。
(ふぅ……流石に緊張しますね)
そっと襖に手を掛けようとして、震えている事に気が付いた。
それが少し可笑しくて、笑ってしまった。
今度こそ襖をそっと開けると、部屋の奥の庭に面した板間で朔夜様が座っていた。
月明かりを背に静かに座る朔夜様は、昼間とはまた違う雰囲気を纏っていた。
私は思わず見惚れてしまい、その場で固まった。
「どうした?」
「……あ! い、いえ、何でもありません」
私は慌てて中へ入ると、何処へ座ろうか逡巡してしまった。
中央には大きな布団が敷かれている。
(ど、どこに座れば……!?)
「はは、こっちに来ればいい」
朔夜様が、ぽんぽんと板間を叩いた。
私はそっとそこに向かうと、同じように隣に腰を下ろした。
廊下で聞いていたよりも遥かに大きな虫の声に、心が凪いでいった。
「とても……静かですね」
「母上たちが追い払ったからな」
「まぁ!」
「というのは半分冗談だ。こういう日には宴会を催して人を移動させるんだ」
「白露もそう、言っていました」
隣に視線をやると、単衣を着崩した朔夜様が目に入った。
胸元の合わせが少しはだけていて、片足を立てた座り方をしているので、素足が見えてしまっている。
(め、目に毒な色気です……!)
視線を別の場所に移すと、今度は湯呑みが見えた。
「お酒……ですか?」
「いや、湯冷しだ」
「飲むか?」
「そうですね……頂きます」
私の分の湯呑みも用意してあったようで、すぐに手渡されて驚いた。
「颯がな。凛の分も用意するのが気遣いだなんだとうるさくて」
「ふふ、ありがとうございます」
こくりと一口飲むと、少し柑橘系の香りがした。
「とても美味しいですね……柚ですか?」
「らしい」
しばらく二人で、言葉もなく庭を眺めていた。
「……なぁ、凛」
「はい」
「ここに来た事、後悔しているか?」
私は鏡の中の自分を思い出した。
不安に揺れた瞳で、私を見ていた『私』
でも、その私はもう居ない。
「全く、一欠片も後悔などありません」
私がここまで言い切ると思わなかったのか、朔夜様が驚いたように私を見た。
「一欠片も?」
「はい」
私は微笑んでみせた。
「とても、幸せで怖いくらいです」
「それは俺も同じだな」
「朔夜様も?」
朔夜様は空を見上げた。
私も釣られて空を見上げた。
月がぼんやりと浮かんでいる。
「春の月は本当に霞んで見えますね」
「朧月、だな」
まだ冷たい風が、私達の間をすり抜けるように吹いていく。
「凛」
「はい」
「永く生きる事になるぞ」
「……はい。今朝お義母様から伺いました」
「どう思った?」
「そうなのですね、と」
朔夜様は弾かれたように振り向いた。
「それだけか!?」
「え?」
「怖いとか……それはちょっととか……」
私は可笑しくなって笑ってしまった。
「朔夜様?」
「……なんだ」
「私の覚悟を、舐めないでくださいませ」
「酒の席でも、同じ台詞を聞いたな?」
「そうでしたね。では信憑性が下がってしまいましたか」
朔夜様は小さく息を吐いて笑った。
「……いや」
ほんの少しだけ表情を緩める。
「凛の覚悟は、輿に乗ってきた時から分かっていた」
「え……?」
「あの日、俺はただの興味本位で見に行ったんだ」
「興味本位」
「怒るなよ?」
「怒りませんよ」
朔夜様は両手を後ろに突いて大きく空を見上げた。
そして少し楽しそうに、一年前のあの日より、少し前から話を始めた——




