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一年越しの花嫁  作者: 灯影


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4/5

四話



(なんでしょうか……とても良い香りがします……)


 体の内側に染み渡るような香りで、私の意識は浮上した。

 少しの微睡の後、ゆっくりと瞼を開けると、一面橙や赤に染まった空が目に入った。


「……夕空?」

「気付いたか」


 ぼーっと力なく開いていた目は、その声にぱっちりと開いた。


「え!? あの、ここは」

「本邸の一間を借りてる」


 縁側を背に立膝で座る朔夜様に、神々しさすら感じてしまいそうになった。


(……そんな事考えてる場合ではありません! 私もしかして……!)


「朔夜様……あの、私、もしかして……」

「倒れたな」

「あぁ〜!!」

「笑いながらな」

「……も、申し訳ありません〜!」

「……ふ、はは!」


 布団に額を擦り付ける勢いで謝っていた私の耳に、聞き慣れない声が聞こえた。

 思わず顔をあげると、朔夜様がそれは可笑しそうに笑っていた。


「わぁ……」


(笑ってますね……)

 

「あー、悪い。かなり面白かったからな」

「そ、そうですか」


 なんとなく、少し複雑な気持ちにはなったものの、笑っている朔夜様を見ると心が綻んだ。


「凛」

「は、はい」


 急に真剣な顔で名前を呼ばれて、思わず背筋を伸ばした。


「心配した」

「あ……」


(あーーー、私、ほんっと間抜けです!)


「申し訳ありませんでした……」

「あの酒は鬼用の酒だから、それが合わなくて倒れたのかと思った」

「……あ」


 私は不意に、お義母様の話を思い出した。


『命が危なかった花嫁もいたのよ』


「とても……心配をかけてしまいました……」

「うん」


 朔夜様は布団に座る私の隣へ来て、静かに腰を下ろした。

 そして、大切なものに触れるように、恐る恐る私の頬へ指を伸ばした。

 まだ少し熱った頬に、朔夜様の冷たい指先が心地良い。


「……本当に、大丈夫なのか?」

「はい。ただお酒に酔ってしまっただけだと思います。でもその酔いも今はもうすっかり抜けている気がしますけれど」


 私が首を傾げると、少し安心したように朔夜様が笑った。


「それはこの香だ。母上が調香したやつで、酒を体から逃がしてくれるらしい」

「あ、それで……とてもいい香りで目が覚めたんです」


 鼻先をくすぐる穏やかな香りに、ようやく私は、本当に大丈夫なのだと実感した。


「白露を呼ばないと。凛が目覚めたら呼べとうるさかったからな」

「……怒られちゃいますね」

「しっかり叱られとけ」

「うぅ……はい」


それからすぐに部屋に来た白露。


「凛様!!」

「は、はいぃ!」


 私はこってり絞られた。

 そしてそんな私を見て、朔夜様は肩を震わせて笑っていた。


「さ、凛様。お説教の後は湯浴みでございますよ。たっぷり汗をかいて頂きます」

「は、はい!」

「朔夜様、後で颯さんが来られるそうです」

「来なくていいって言っとけ」

「もういまーす」


 襖の向こうから声がして、私と白露は顔を見合わせて笑った。

 もちろん朔夜様は苦い顔で、舌打ちをしていた。


「朔夜様も、湯浴みですよー。ちゃちゃっと入って来てくださいねー」

「……分かってる」

「それでは凛様。我々はここで。あ、凛様はごゆっくり湯浴みなさってくださいね」


 そういうが早いか、颯さんは朔夜様の背を押して部屋を出て行った。


「さ、凛様。離れに戻りましょう」


 簡単な羽織を羽織って私は本邸を後にした。

 離れに戻ると、今朝とは違った違和感を覚えた。


(なんと言いますか……静か?)


「白露……、何か静か過ぎませんか?」

「そうですね。今夜は皆、本邸におりますので」

「あ……そうね?」

「明日の朝餉までは向こうにおりますよ」

「朝餉までみんな飲むの!?」

「それもあります」

「それも?」


 白露の足が止まった。


「さ、着きました。今日の湯は沢山の花が浮かんでいて、とても素敵だと思いますよ」

「わぁ……楽しみ!」


 白露に見送られながら浴室へ入ると、ふわりと花の香りが私を包み込んだ。

 湯船には色とりどりの花が浮かんでいて、白露が言っていた通りとても幻想的だった。


「いい香り……」


 のんびりと湯に浸かっていた私の脳裏に、突然お義母様の声が蘇る。


『部屋の準備は抜かりなくね。何事もなく無事、初夜を迎えられるように——』


「……っは! そうです! 初夜!?」


 私はその事を思い出して、ぶくぶくと湯に沈んだ。


(だから、人払い……! ああぁぁ……!)


 顔が熱いのは、お湯のせいだけではない気がした。

 のぼせそうになった私は、慌てて湯から上がったのだった。

 

 湯浴みを終える頃には、外はすっかり夜の装いに変わっていた。

 湯上がりを待っていてくれた白露が、柔らかな単衣を用意してくれていた。


「白露、この単衣……」

「この日のために、御前様が設えたものです」

「とても……素敵」

「さ、袖を通してください」

「わ……すごく馴染むわ」


 体にしっとりと沿うような単衣に、思わず声が漏れた。

 

「この、薄過ぎない感じがよろしいですね」

「そ、そうなの?」

「はい。きっと殿方は」

「……っ」

 

 私はそれ以上会話を広げない事にした。


 白露の楽しそうな笑顔を見ているだけで、何を言われるのか分かった気がしたからだ。


 私は差し出された椅子に座って、鏡の中の自分と向かい合った。


(普通……ですね、私)


 特別美しいわけでも、可愛らしいわけでもない。

 ここに居るのは、ただ、村長の娘としての矜持だった。


(それが……こんなに幸せを頂けるなんて……)


 白露が濡れた髪を手拭いで挟んで、乾かしながら、鏡越しの私に微笑んだ。


「大丈夫ですよ、何も怖いことはありません。朔夜様はお優しいと思います」

「……そう、ね」


(怖がっていると思わせてしまったのね……本当は、分不相応かもって思っていたのに……いけませんね、こんな事では。一年前の私が見たら怒るでしょうね……)


「私……ここに居られる事がとても嬉しいんです」


 突然の私の言葉に、少しだけ面食らった様子の白露。

 でもすぐにまた笑顔で頷いてくれた。


「こちらの台詞でございますよ」

「ふふ」

「さ、ではお部屋までお送りいたします」

「は、はい!」


 最後に鏡を見ると、その中の私は微笑んでいた。


(もう、揺らぎません)


 部屋までの道のりは短いのに、とても長く感じられた。

 いつもは人の気配が多い時間なのに、虫の声しか聞こえない。

 庭を走る風の音や、池で何かが跳ねる音。

 自然の音がこんなに大きいなんて、気付かなかった。

 そして、思ったよりも冷静な自分にも驚いていた。


(きっと汗と一緒に、恥ずかしさも流れてしまったのね……)


 それよりも、今日からは朔夜様と共に眠れる事に喜びを感じていた。


 新たに用意された二人の寝室の前に着くと、白露が恭しく一礼をした。


「ここから先は、お二人だけのお時間でございます」

「分かりました。ありがとう」


 白露は足音すらさせずに、静かな離れを出て行った。


(ふぅ……流石に緊張しますね)


 そっと襖に手を掛けようとして、震えている事に気が付いた。

 それが少し可笑しくて、笑ってしまった。

 今度こそ襖をそっと開けると、部屋の奥の庭に面した板間で朔夜様が座っていた。


 月明かりを背に静かに座る朔夜様は、昼間とはまた違う雰囲気を纏っていた。

 私は思わず見惚れてしまい、その場で固まった。


「どうした?」

「……あ! い、いえ、何でもありません」


 私は慌てて中へ入ると、何処へ座ろうか逡巡してしまった。

 中央には大きな布団が敷かれている。


(ど、どこに座れば……!?)


「はは、こっちに来ればいい」


 朔夜様が、ぽんぽんと板間を叩いた。

 私はそっとそこに向かうと、同じように隣に腰を下ろした。

 廊下で聞いていたよりも遥かに大きな虫の声に、心が凪いでいった。


「とても……静かですね」

「母上たちが追い払ったからな」

「まぁ!」

「というのは半分冗談だ。こういう日には宴会を催して人を移動させるんだ」

「白露もそう、言っていました」

 

 隣に視線をやると、単衣を着崩した朔夜様が目に入った。

 胸元の合わせが少しはだけていて、片足を立てた座り方をしているので、素足が見えてしまっている。


(め、目に毒な色気です……!)


 視線を別の場所に移すと、今度は湯呑みが見えた。


「お酒……ですか?」

「いや、湯冷しだ」

「飲むか?」

「そうですね……頂きます」


 私の分の湯呑みも用意してあったようで、すぐに手渡されて驚いた。


「颯がな。凛の分も用意するのが気遣いだなんだとうるさくて」

「ふふ、ありがとうございます」


 こくりと一口飲むと、少し柑橘系の香りがした。


「とても美味しいですね……柚ですか?」

「らしい」


 しばらく二人で、言葉もなく庭を眺めていた。


「……なぁ、凛」

「はい」

「ここに来た事、後悔しているか?」


 私は鏡の中の自分を思い出した。

 不安に揺れた瞳で、私を見ていた『私』

 でも、その私はもう居ない。

 

「全く、一欠片も後悔などありません」


 私がここまで言い切ると思わなかったのか、朔夜様が驚いたように私を見た。


「一欠片も?」

「はい」


 私は微笑んでみせた。


「とても、幸せで怖いくらいです」

「それは俺も同じだな」

「朔夜様も?」


 朔夜様は空を見上げた。

 私も釣られて空を見上げた。

 月がぼんやりと浮かんでいる。


「春の月は本当に霞んで見えますね」

「朧月、だな」


 まだ冷たい風が、私達の間をすり抜けるように吹いていく。


「凛」

「はい」

「永く生きる事になるぞ」

「……はい。今朝お義母様から伺いました」

「どう思った?」

「そうなのですね、と」


 朔夜様は弾かれたように振り向いた。


「それだけか!?」

「え?」

「怖いとか……それはちょっととか……」


 私は可笑しくなって笑ってしまった。


「朔夜様?」

「……なんだ」

「私の覚悟を、舐めないでくださいませ」

「酒の席でも、同じ台詞を聞いたな?」

「そうでしたね。では信憑性が下がってしまいましたか」


 朔夜様は小さく息を吐いて笑った。


「……いや」


 ほんの少しだけ表情を緩める。

 

「凛の覚悟は、輿に乗ってきた時から分かっていた」

「え……?」

「あの日、俺はただの興味本位で見に行ったんだ」

「興味本位」

「怒るなよ?」

「怒りませんよ」


 朔夜様は両手を後ろに突いて大きく空を見上げた。

 そして少し楽しそうに、一年前のあの日より、少し前から話を始めた——


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