三話
白露と共に、廊下を歩く。
ゆらゆらと遊んでいた鬼火達が、くるくると私の周囲を回ってまた消えていった。
昼の日差しと共に、普段なら聞こえる鳥のさえずりや風の音も、今日はどこか遠く感じた。
聞こえるのは、早鐘を打つ自分の心臓の音ばかり。
(落ち着いて……)
そう言い聞かせても、胸の鼓動は少しも静かになってくれない。
そっと胸に手を当てると、滑らかな着物の生地に、先程のやり取りを思い出してしまった。
(逆効果です……)
「白露……」
「はい」
「どうしましょう……どきどきが治らなくて……」
白露が足を止めて、私を見つめた。
「凛様。何も緊張しなくて大丈夫です。今日は、ただのお祝いです。美味しいものを食べ、美味しいお酒を飲んで楽しく過ごせばいいのです。それだけで、私達は嬉しいのですから」
「でも……何か私にも出来ないものかしら。せめてもう少し早く知っていれば、何か用意して出来たのに」
「だから、当日ギリギリまで秘密にしてたんですよ?」
白露の言葉に、え、と言葉を失った。
「そういう貴方様だから。朔夜様が内緒にしろと」
「そう……ですか」
「凛様は、いつも誰かのために頑張ってしまわれますから」
「……そんなこと」
「あるのです」
有無を言わせない目力の白露に、私はそれ以上の言葉を飲み込んだ。
「今日は、素直に甘えてくださいませ」
白露が、笑った。
「私達はもう、『一蓮托生』……でしたか?」
「それは少し違う気がするわ」
「違いましたか」
「……ふふ!」
私達は、大広間に着くまでずっと笑っていた。
大きな襖の向こうからは、人々の楽しげな笑い声や盃の触れ合う音が微かに聞こえてくる。
「凛様」
白露が一歩前へ出て、静かに振り返った。
「皆様がお待ちです」
その一言で、少しだけ緩んでいた胸が、また高鳴る。
「……はい」
私は深く息を吸った。
大丈夫。
もう一人じゃない。
白露が頷く。
それを合図に侍女が襖の前へ進み、静かに声を張った。
「若奥様のお越しです」
音もなく、ゆっくりと襖が左右へ開かれていく。
一斉に集まる視線に、胸がきゅっと締め付けられた。
(足が……震えてしまうわ)
——でも。
その中で、私は真っ先に一人の姿を見つけた。
深い藍色の髪。
凛々しく伸びた黒い角。
そして、赤金の瞳。
――朔夜様。
目が、合った。
(……あれ?)
朔夜様が動かない。
やっぱり似合わなかったのかもしれない、という不安が襲ってきて私は背筋が冷たくなった。
「朔夜様」
颯さんが呼びかけると、朔夜様の肩が跳ねた。
颯さんが何かを話し掛ける。
けれど、その声はここまでは届かない。
(……どうしたらいいのでしょうか)
居た堪れなくて、入り口から動けなくなった私に、朔夜様が大股で近付いてきた。
ずんずんと近付いて、私の目の前で足を止めた朔夜様は、しばらく何も言わなかった。
ただ、赤金の瞳だけが、まっすぐ私を見つめている。
「……あ、あの」
やっぱり朔夜様は黙ったまま。
流石に悲しくなってきた私はどんどん俯いて、きゅっと両手を握りしめた。
「——ってる」
(……え? 何か聞こえた?)
顔を上げると、耳まで赤く染めた朔夜様が口元を押さえていた。
「朔夜様?」
口元を押さえていた手で、前髪を掻き上げると、口をパクパクさせた。
ますます分からなくて、私は首を傾げた。
「……似合ってる!」
「…………ぇえ!」
私は思わず驚きの声を上げた。
「だから……似合ってるし、その……綺麗だな……って、見惚れてた」
次は、私が口元を隠す番だった。
「不安にさせて……あんな、顔をさせて、悪かった」
私はぶんぶんと首を横に振った。
(どうしましょう……泣きそうです)
「顔をよく見せてくれないか……?」
朔夜様がずっと口元にあった両手をそっと離した。
そのまま、私達は両手を繋ぐ形で向かい合った。
「ああ、やっぱり……綺麗だな」
「……っぅう」
「え!? どうした、なぜ泣く!?」
「ご、ごめんなさい……嬉しすぎて」
朔夜様は困ったように眉を下げると、私を優しく抱き寄せた。
ふわりと伽羅の香りに包まれた。
落ち着いたその香りは、いつも不思議なくらい私の心を静かにしてくれる。
「……泣き止んだか?」
「はい……すみません」
「白露」
朔夜様が白露を呼んだ。
泣いてしまった私の顔は、きっと酷いことになっている。
白露が近付くと、朔夜様は私を抱いたまま少しだけ腕を緩めた。
その陰で、白露は手早く乱れた化粧を整えていく。
「さぁ、俺たちの席はあそこだ」
繋いだ手から伝わる温もりが心強くて、私の緊張を解してくれた。
朔夜様が私の手を引いて向かった先には、お義母様と大君が並んで私達を待っていらした。
朔夜様のお父様であり、鬼の国を統べる大君。
初めてお会いした日は、その威厳に息を呑んだ。
けれど今は、その厳しさの奥にある優しさを知っている。
私は繋いだ手をそっと離し、居住まいを正して深く一礼する。
「本日は、お招きいただきありがとうございます」
「はっは! 何を言う! 凛の為の祝いの席だぞ!」
「そうよー? 私達がそれに参加してるのよ」
大君は豪快に口元を緩めた。
「……息子よ。一年、よく我慢したな」
「おい!」
「はっはっは!」
「ほらほら。揶揄うのはもうやめて、座りましょう。お腹減ったわ」
お義母様が大君の腕を取ると、大君も自然な流れでお義母様の腰に手をやった。
(わ、わぁ〜!)
なんとなく気恥ずかしくて目を逸らすと、朔夜様と目があってしまった。
「いつもこうだから、気にするな」
「え!? あ、は、はい!」
朔夜様は小さく笑うと、もう一度私の手を取った。
私の席は朔夜様の隣。
こうして並んで座ることにも、まだ少しだけ慣れなくて、胸がそわそわする。
目の前には、巨大な皿に盛られた数々のお料理が並んでいる。
特に肉系のお料理は、山盛りを通り越している気がする。
(みなさん、凄すぎます……)
見ているだけでお腹が一杯になりそうだった。
私達の席は大広間の一番奥、上座に用意されていた。
そして私の左斜向かいに、お義母様が。
朔夜様の右斜向かいに、大君が座られた。
大君が自身の大きな体に見合う、とても大きな盃を片手で掲げた。
「皆、聞けい! 今日は鬼の国にとっても、朔夜たちにとっても祝いの日だ!」
「「「おー!!」」」
「存分に食って、飲んで、祝ってやってくれ!」
一斉に盃が掲げられる。
「「「おめでとうございます!」」」
「「「鬼の国に繁栄を!!」」」
そこからはもう、本当に大広間が熱気に包まれる程の、騒ぎ具合だった。
私達の元へ、皆さんが入れ替わり立ち替わり祝いの言葉をくださる。
そのたびに盃を交わしているのは、ほとんど朔夜様だった。
(いけませんね……私ももう少し頑張らなくては!)
『次に盃を交わすのは私!』という強い決意の元、待つこと数分。
「若様、若奥様。本日は本当におめでとうございます。これで鬼の国もますます栄えますな! どれ、一献」
「……あ! 私が頂いても宜しいでしょうか?」
私は自分の乾いた盃をぐいっと突き出した。
「凛?」
隣で朔夜様が目を丸くする。
「おや、若奥様が! しかし、この酒は人間には些か強いと……」
「大丈夫です! 私が!」
「お、おい、凛」
「朔夜様」
止めようとする朔夜様の手を掴んだ私は、体ごと朔夜様に向き直った。
「舐めないでくださいませ。これまで私、一度も、酔い潰れたことはありません」
ふふ、と笑う私に、朔夜様は疑わしそうに目を細めた。
「まぁまぁ、物は試しですからな!」
とくとくと、注がれるお酒。
お酒が溢れるほどに、並々と注がれた盃を口元にそろそろと持っていく。
「……では、失礼して」
私はぐいっといった。
一口。
二口。
(……あら?)
三口、四口。
(……あらあら? 飲みやすいですね)
気付けば盃は空になっていた。
(すいすい飲めてしまいました)
「……凛、大丈夫か?」
「え? 大丈夫ですよ?」
(少しほろ酔いでしょうか……? とても気分がいいです)
にっこりと笑う。
——そこから先の記憶が、ぷつりと途切れていた。




