二話
「凛様が来られました」
「入りなさい」
御前様付きの侍女が一礼し、銀の装飾が施された大きな襖を静かに左右へ開いた。
「失礼いたします」
一礼して部屋へ足を踏み入れると、御前様が穏やかな笑みで迎えてくださった。
「久しぶりね。元気そうで良かったわ」
御前様の手で示された場所に腰を下ろし、背筋を伸ばす。
御前様は上座で、艶やかな黒髪を一つに結い、凛とした美しさを纏っていらっしゃる。
朔夜様は御前様に、よく似ている。
鬼らしい白い角はあるけれど、その柔らかな笑みは初めてお会いした日から、少しも変わらない。
緊張でまともに顔も見られなかった私に、膝をついて手を差し伸べてくださった優しさは涙が出るほどだった。
あの日、張り詰めていた心はその笑顔に救われた。
「突然ごめんなさいね」
「とんでもありません」
「……今日で一年になりますね」
御前様は優しく目を細められた。
「はい、お陰様で楽しく過ごさせて頂いております」
「嬉しいわ」
御前様は優しく微笑まれた。
「人の身は、鬼の国の空気や水、食事に馴染むまで一年ほどかかると言われています」
「一年、ですか」
「ですから今日までは、あなたを大切なお預かりものとして迎えていました」
「お預かりもの……」
「そして今日からは違います」
私は思わず姿勢を正した。
そんな私を見て少し笑うと、御前様は穏やかな声で続けられた。
「今日から、あなたは正式に朔夜の妻です」
私は思わず目を瞬かせた。
「正式な……?」
「一年掛けてこちらに馴染んだ貴方の体は、人でありながら人より永い生を手に入れた事になります」
「……ながい、生」
おうむ返しのように言葉を紡ぐ私に、御前様は尚も続けた。
「夫婦なのに床が別な事に、疑問はありませんでしたか?」
「あ……」
婚姻を結んだ日の夜、私は緊張で身を固くしていた。
けれど、朔夜様がそんな私を見て、初夜は今でなくていいと告げた。
こちらに馴染んでからと。
(馴染む……って、体の事でしたか)
てっきり、気持ちの問題だと思っていた。
私の心が伴うまでと。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「そう、だったんですね」
「昔、一年を待たずに体を重ね、命が危うくなった花嫁がいたのよ」
背筋が冷えた思いだった。
初夜を迎えられない自分が不甲斐ないと思ったし、心が伴ってからは一人で寝る事に寂しさも感じていた。
「もしかして朔夜様は……」
「うふふ! かなり我慢しているようね」
その言葉を聞いて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
そしてじわじわと、恥ずかしさが全身に回って顔が熱くなってしまう。
「……貴方は、朔夜が好きかしら?」
御前様の瞳には、ほんの少しだけ不安が宿っていた。
それは、息子を想う母親の眼差しに見えて——
私は背筋を伸ばして、はっきりと告げた。
「心から、お慕いしております」
私を見つめる赤金の瞳は、朔夜様によく似ていた。
その瞳が、ほっとしたように優しく細められる。
「それなら、安心しました。今夜からは、どうか遠慮なく夫婦として歩んでいらっしゃい」
「は、はい」
「白露」
「ここに」
白露が頭を下げた。
「部屋の準備は抜かりなくね。何事もなく無事、初夜を迎えられるように」
「かしこまりました」
(きょ、今日から……?)
ぎこちなくなった私に気付いた御前様が、声を上げて笑いだされた。
今まで見たことの無い姿に驚いていると、御前様が正座から立ち膝に足を崩した。
「今日からは——」
御前様が、にやりと笑う。
その妖艶さに、思わず胸が高鳴った。
「あたしは貴方の母よ」
ぽかんと、私は口を開けていた。
「もう見栄を張らずに済むから、朝からもう嬉しくって! あたしは鬼の女よ? あんなお淑やかな訳ないじゃなーい」
からからと笑う御前様に、私も思わず釣られて笑った。
「御前様呼びは、ここでおしまいにして頂戴。これからは母と呼ぶのよ」
「かしこまり、」
「かたーい!」
「……わ、分かりました」
「よろしい!」
白露や侍女達が一斉に安堵したように笑った。
私もつられて笑ってしまう。
——あぁ。
今日、私は本当にこの国の家族になれたんだ。
「さぁ、あなた達! 『あれ』全部持ってきて!」
お義母様がぱん! と、手を叩くと部屋にいた侍女達が一斉に動き始めた。
隣の部屋から運ばれてきた大きな葛籠は、私なら二人がかりでも持ち上げられるか分からないほど立派なものだった。
それを侍女達は何事もないように運び入れてしまう。
そっと葛籠を開けると、中から一枚の着物を大切そうに取り出した。
「わぁ……」
白露に手渡されたそれは、白を基調に、金糸で桜と流水が織り込まれた美しい着物だった。
私は時を忘れて、見惚れてしまった。
「これ……」
「もちろん、凛様のお着物です。若様が三日間悩みに悩んで決められたものです」
「朔夜様が……?」
恐る恐る伸ばした指先が、小さく震えた。
鼻の奥がつんと痛くなり、視界が滲んでいく。
(そんな素振り……なかったです)
「さ、これに着替えて、小物も化粧も合わせて用意するわよ。みんな急いで!」
そこからは、余韻に浸る間もなく。
気付けば鏡の前に座っていて、髪を結われ、簪が挿されていく。
「目を閉じてください」
「はい!」
返事をするだけで精一杯だった。
あっという間に着物から髪型、小物、お化粧まで数人掛りで綺麗に整えてもらった。
椅子に座った私の後ろにお義母様が立って、一緒に鏡を覗き込んだ。
「良いじゃない! 貴方の名前通り凛とした雰囲気もあるし、その柔らかな髪色にこのお着物がとっても映えてるわ」
「わ、私には少し派手じゃないでしょうか……」
鏡に映る私は、もはや別人ではないだろうか。
今まで使ったことのない色が瞼を彩り、少し濃いめの紅が唇を美しく染めている。
「ぜーんぜん! 目鼻立ちがはっきりしてるんだから、もっと濃い目でも良いくらいよ」
「朔夜様、私って気付いてくれますでしょうか……?」
私の言葉に、お義母様も白露も、他の侍女達も一瞬固まり、すぐに弾けたように笑った。
「あっはははは! 気付かなかったから、私が鉄槌下すわよ〜!」
「その前に、若様が気付かないはずございません」
「白露……本当?」
侍女達は顔を見合わせると、くすくす笑いながら大きく頷いた。
「えぇ、えぇ。瞬時に駆け寄って来られますよ」
「そうですよー。むしろ、隠されるかもしれませんね?」
きゃー、と色めき立つ侍女達。
「隠される、ですか?」
「です、です! 目が離せないですよ、きっと」
「そう、でしょうか」
「「そうです!!」」
白露が側に来て微笑んだ。
「凛様は何も気にしなくていいという事です」
「……ありがとうございます、皆さん。こんなに綺麗にしてくださって」
私は気持ちを込めてお辞儀をした。
「こちらこそ、ありがとうございます」
「今日は若奥様の晴れの日ですもの」
皆が嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ているだけで、私も胸がいっぱいになった。
「今日一番幸せなのは、きっと朔夜ね」
「で、ございますねぇ」
(そうであれば……嬉しいですね)
「あの子ちゃんと夜まで我慢できるのかしら」
「まあ、御前様ったらー!」
お義母様と侍女達の会話に、私は顔を真っ赤にして俯くことしかできなかった。
——その頃、本邸の朔夜の執務室では。
「……朔夜様」
「なんだよ」
「それ、何杯目ですか。水っぱらになって廁から出られないとかやめてくださいよ」
「…………」
そっと湯呑みを置いて、朔夜は耳飾りに手をやった。
指先が触れるたび、黒曜石の耳飾りがしゃらりと澄んだ音を立てる。
「ようやく、白銀の耳飾りを付けられますね」
「……そうだな」
「お揃いですもんねぇ」
「にやにやすんな」
鬼の国では夫婦になると同じ耳飾りをつける習わしがある。
以前、凛と出掛けた際に「綺麗ですね」と目を輝かせた耳飾り。
その意匠を元に、職人へ頼んで夫婦の耳飾りとして仕立ててもらったものだった。
「今からそんな緊張してて、大丈夫ですかー?」
「大丈夫だ」
「凛様、お綺麗でしょうねえ」
「……お前、今想像したな?」
「するでしょう、普通に」
「…………」
「そろそろ行きますか?」
「……先に廁に、行ってくる」
「ほらーー!!」
引き出しから木箱を取り出して蓋を開けると、絹布に収められた二つの白銀の耳飾りが、静かに光を返した。
朔夜は一度だけその耳飾りに触れ、静かに蓋を閉じた。
それを颯に手渡した。
「これは、あの部屋の戸棚に」
「抜かりなく」
そして、朔夜は颯と共に部屋を後にした。




