一話
一話
「私が鬼の国に嫁ぎます」
そう告げて、私は一年前生まれ育った村を旅立った。
百年に一度。
人の国では神の巫女の託宣によって花嫁が選ばれ、鬼の国へ嫁ぐ。
花嫁を送り出した国には、次の百年まで安寧が約束されるという古くからの習わし。
そして鬼の国へ嫁いだ花嫁は、誰一人として帰って来なかったという。
百年前の出来事は、今では曖昧な言い伝えしか残っていないし、詳しい事は何も分からない。
私はこちらに来るまで、鬼も妖も何も見た事なんてなかった。
誰もが生贄と、そう思っている。
だから私は——あの日死すら覚悟して、輿に乗り込んだのだ。
「凛様、お目覚めでしょうか」
静けさを湛えた声に、ゆっくりと瞼を開く。
(……久しぶりに人の国の夢を見ましたね)
差し込む朝日に目を細めながら、大きく息を吸った。
柔らかな朝日が部屋いっぱいに差し込み、春風が薄桃色の花びらを運んでくる。
(綺麗……)
清浄な空気が体に染み渡っていく気がした。
名残惜しい眠気を追い払うように体を起こし、軽く身なりを整える。
「おはようございます」
「おはようございます、凛様。本日は良いお天気ですよ」
障子が静かに開き、銀髪の少女が部屋へ入ってくる。
少女の姿をしているけれど、本当は八十歳を超えているらしい。
私が嫁いだ時から側に居てくれる、白蛇の侍女白露だ。
いつものように優しく微笑み、私もつられるように笑みを返した。
「今日は、何だか皆さん朝から慌ただしいですね」
「ふふ。それは秘密でございます」
「え?」
「お昼になれば分かりますよ」
そう言って白露は意味ありげに笑った。
不思議に思いながら両腕を広げると、白露が慣れた手つきで淡い桜色の着物を羽織らせてくれる。
ここへ来てからは、一人で着付けることがなくなった。
初めの頃は、何となく居心地が悪くてもぞもぞしては、白露にやんわり叱られたものだ。
今ではすっかり慣れて、こうして大人しく任せられるようになった。
「最初は、帯が苦しくて何度も直されていましたね」
「……忘れてください。ここのお着物が人の国では上等すぎて……」
白露は微笑みながら帯を整えていた手を、ふと止めた。
「あら、少し痩せられました?」
「そうでしょうか?」
「若様に知られたら、また心配されますよ」
「大袈裟なんです。昨日もたくさん食べたのに、少食だって」
「鬼は大食漢が多いですからね」
思わず苦笑いが零れた。
着替えを済ませると、私は部屋を出た。
廊下へ一歩踏み出した途端、ひんやりとした朝の空気が頬を撫でる。
磨き上げられた木の床は朝日を受けて淡く輝き、開け放たれた廊下からは色とりどりの花々が咲く庭が見えた。
山々から吹き抜ける風が桜を揺らし、花びらがひらひらと縁側まで舞い込んでくる。うっすら香る桜の匂いが、鼻先を掠めた。
(桜が満開……)
何度見ても飽きることがない景色だ。
鬼の国と聞いた時、岩山ばかりの恐ろしい場所を想像していた私は、初めてこの景色を見た時、しばらく言葉を失ってしまった。
今では、その景色を見ることが毎朝の楽しみになっている。
「若奥様! おはようございます!」
明るい声に振り向くと、大きな角を持つ鬼の庭師が皺くちゃな笑顔で頭を下げた。
「おはようございます」
「今日は庭の花がよう咲いておりますよ。朝露が綺麗ですから、後でぜひご覧ください」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
私が軽く頭を下げると、庭師は照れくさそうに頭を掻きながら去って行く。
その後ろを、小さな鬼火がふわふわと追い掛けていた。
「あら鬼火さん、おはようございます」
そう声を掛けると、小さな炎は嬉しそうに、赤、青、黄色と炎の色をくるくる変えた。 
そして一度くるりと回ってから、私の周りを一周してふわりと天井近くまで昇っていく。
思わず笑みがこぼれた。
「ふふ、可愛い」
「凛様は本当に鬼火達に好かれていますね」
隣を歩く白露が優しく目を細める。
「だと嬉しいのですが」
「ええ。普通はあそこまで懐きません」
「そうなんですね」
私はもう一度鬼火を見上げた。
こちらへ来たばかりの頃は、ゆらゆらと浮かぶ炎が少し怖かった。
それが今では、夜道を照らしてくれる優しい灯りになっている。
朝餉の間へ入ると、既に私の夫——朔夜様が席に着いていた。
深い藍色の髪。
艶やかな黒い角。
鬼らしさを宿す赤金の瞳。
初めて会ったあの日は、その全てが私には恐ろしく見えた。
けれど今は——
「おはようございます、朔夜様」
「おはよう」
今では、その瞳に見つめられると、ほっとしてしまう。
突然、それがすっと細められた。
「……痩せたか?」
後ろで白露が少し笑った気配がする。
「白露にも、言われました」
「若様、あまり女性の体型に口を出し過ぎると嫌われますよ?」
朔夜様の眉間に深い皺が刻まれた。
「……悪い」
思わず吹き出しそうになる。
「大丈夫です」
私は朔夜様の斜向かいに腰を下ろした。
湯気をたたえた御膳が、朝の少ない食欲を刺激する。
「いただきます」
「しっかり……いや、何でもない」
思わずくすりと笑ってしまった。
「ふふ! しっかりいただきますね」
「……」
朔夜様は少し赤くなった顔を隠すように、ふいと視線を逸らした。
耳元で揺れた黒曜石の耳飾りが、しゃらりと涼やかな音を立てる。
私が箸を伸ばすたび、朔夜様の視線がこちらへ向く。
気のせいかと思って顔を上げると、すっと逸らされてしまう。
(……あら、また。最近、こういうことが増えた気がします)
口元が緩みそうになるのを堪えながら、焼き魚を一口頬張った。
「そう言えば、今日は外がいつもより賑やかですね」
庭の方からは、何かを運ぶような掛け声や、忙しなく行き交う足音が微かに聞こえてくる。
朝から屋敷中がどこか落ち着かない。
「そうだな」
朔夜様は視線をすっと逸らした。
白露はにこりと笑うだけ。
(怪しすぎませんか……?)
白露に「何かあるの?」と、尋ねてもまた笑って誤魔化された。
朔夜様へ視線を向ける。
「朔夜様?」
「…………」
一瞬だけ動きが止まる。
「春……だからだ」
「……え?」
(そういうものなのでしょか……)
納得しかけた私を見て、白露は袖口でそっと口元を隠した。
何故か笑いを堪えているように見えたのは、気のせいだろうか。
「凛」
「はい」
「俺は少し仕事があるから先に行く。お前はゆっくり味わえよ」
「分かりました」
立ち上がった朔夜様は、何故か私をじっと見つめたまま動きを止めた。
その時、襖の向こうから声が聞こえた。
「朔夜様、御前様がお待ちです」
そう声を掛けたのは、朔夜様の近侍・鬼の颯さん。
幼い頃から朔夜様に仕えており、兄のような存在なのだと以前教えてもらった。
「今行く」
朔夜様が襖を開けると、片膝を付いた颯さんと目があった。
「凛様、おはようございます。今日もとてもお綺麗ですね」
にこりと微笑む颯さんは、朔夜様より年上なのに、甘い雰囲気でそう見えない。
「おはようございます。いつも褒めていただきありがとうございます」
「……颯」
「はい?」
「行くぞ」
「はいはい」
「では、朔夜様の機嫌を損ねる前に失礼します」
「ふふ。朔夜様、颯さん。行ってらっしゃいませ」
「行ってくる」
私も美味しい朝餉を堪能して、部屋を後にした。
廊下に出ると先程の庭師の姿が見えたので、庭に降りる事にした。
「あ! 凛しゃま!」
「凛しゃまだー! おはよう!」
「桜色の着物可愛いね〜」
子鬼や色んな種族の妖の子が、可愛らしい顔を綻ばせて抱き着いてきた。
「こらー! 抱き着いちゃいかんと言っただろうがー!」
拳を振りあげながら、遠くから走ってくる庭師の姿を見て、子供達は楽しそうにはしゃぎながら、散り散りに逃げていった。
「すみません、若奥様!」
「構いませんよ」
「……そうですかい?」
「ええ。人の私をこんなにも受け入れてもらえて、とっても嬉しいんです」
庭師が大きく笑った。
「人の子を花嫁に迎えると、鬼の国は一層栄えると言われているんですよ」
「……だから、皆さんこんなにも優しいんですね」
「いやいや、違いますよ」
庭師は大袈裟に、首を横に振った。
「え?」
「若奥様だからですよ」
「……ありがとうございます」
(ここの人達は、本当に優しい)
それじゃあと頭を下げて、庭の奥へと向かいかけた時。
「あ! 若奥様、今日はちょいとこの先は通れねぇんですよ」
「どうしてですか?」
「えーっと……その、アレでして!」
と、大きな体で通せんぼを受けた。
「……アレ?」
首を傾げる私に、庭師が目を泳がせている。
「凛様、あちらへ参りましょう」
白露がそっと肩を持って屋敷へと私の向きを変えた。
(……何か、ありますね)
「白露」
「はい」
「私は知らない方が良いですか?」
「はい」
「分かりました」
それ以上は聞かない。
白露がそう言うなら、きっと理由があるのだろう。
私は素直に頷くと、白露はどこかほっとしたように微笑んだ。
「きっと凛様にも、お楽しみいただけますので」
(私も?)
胸の奥で小さな疑問は膨らむばかりだったけれど、皆がこうして隠しているのだから、それをこれ以上突くのは無粋だろう。
そんなことを考えながら歩いていると、廊下の向こうから先程見送った颯さんが近づいて来た。
「凛様」
颯さんは私達の前で足を止め、恭しく一礼する。
その所作は目を奪われるほど美しい。
「御前様がお待ちです」
思わず居住まいを正す。
「私に、ですか?」
「はい。どうぞこちらへ」
白露と顔を見合わせる。
白露は何も言わず、にこりと微笑むだけだった。
(何か粗相でもしてしまったでしょうか)
私と朔夜様が暮らす離れを出て少し歩くと、鬼の国を統べる大君と御前様がお住まいの本邸がある。
私はすっと背筋を伸ばすと、颯さんの後について歩き始めた。
5話完結の短編です。
一日一話、連続更新の予定です。
よろしくお願いします。




