「第7章 会うということ」
そこには、本来ならひどく単純であるはずの物事があった。
世間の大半の人間にとっては、わざわざ長い時間をかけて思考を巡らせるまでもない、当たり前の営み。
たとえば、人に会うということ。
頻繁に言葉を交わし、同じ時間を共有してきた二人の人間が、ある時、互いの姿を現実の肉眼で確かめようと思い立つ。
それはごく自然な、ありふれた流れのはずだった。
はずだった、のに。
一見すれば単純に見える物事が、いざ自分自身の現実に立ち塞がった時、どれほど底知れない重量を持って牙を剥くか、俺はその時まで知らなかった。
日々は淡々と流れていた。
接続し、待ち、プレイし、そして沈黙する。
劇的な地殻変動などどこにもない。だが、あのインタールードを経て――二人の間に流れるテンポが僅かに狂い始めてから――俺はひとつの事実に気づきつつあった。
俺はもう、単に彼女がオンラインになるのを待っているのではなかった。
ただ作業のようにゲームを消化するためではなく、俺たちは文字通り「言葉を交わす」ために、その空白の時間へ己の針を合わせている。
その夜、俺たちはやはりダンジョンへは足を向けなかった。
アバターの立ち位置は、いつもと同じ広場の片隅。グラデーションのデジタル空が、ミリ秒刻みの仕様に従ってゆっくりと色を変えていく。その光景をまともに視界に収めることもせず、俺の意識はただ一カ所、チャットウィンドウの点滅だけに縛り付けられていた。
数秒の空白。
文字を打ち込み、バックスペースで消去し、また打ち込んでは消す。
ありふれた一言を送信するだけの動作が、鉛のように重い。
やがて、喉を乾かせながら送信ボタンを叩いた。
『レイ』
既読はすぐにはつかない。数秒のラグ。
『うん』
液晶の底から返ってきた二文字を、俺はじっと見つめた。
胸の奥に、伝えたい言葉の塊がある。なのに、それがどんな形をした言語だったのか、喉の奥で冷えてしまって輪郭が掴めない。
『俺たち、結構長いよな』
空白。
『そうでもない』
㠪の唇が、自嘲気味に、ほんの少しだけ綻んだ。
『まあ、それなりに』
『かもね』
拒絶しているわけではない。かといって、肯定しているわけでもない、いつもの平坦な応答。
俺は小さく、胸の空気を吐き出した。
誰かに強制されているわけでも、何かの締め切りに追われているわけでもない。
けれど、強烈な予感があった。今、この瞬間に踏み込まなければ、俺は生涯、その境界線を越えるための言葉を失ってしまうのではないか、という。
『一度、会ってみないか?』
パルスが光回線を流れた瞬間、俺はまばたきをすることすら忘れて画面を凝視していた。世界の秒針が、そこで不自然に凍りついたかのような錯覚。
ラグ。
これまで経験したどんな遅延よりも、長く、重い沈黙。
心臓の鼓動が、耳の奥で嫌な金属音を立てて速度を上げる。五秒。十秒。
俺は、自分の投げかけた問いを消去してしまいたかった。あるいは――何事もなかったかのように、ただの冗談だと笑い飛ばしてしまいたいたかった。
やがて。
『どうして?』
液晶を凝視したまま、俺は知らず知らずのうちに息を詰めていた。
『分からない』
打ち込みかけ、バックスペースで消す。
『ただ、少し気になったから』
少しでも言葉の輪郭を軽く、安全なものに偽装するための文字列。
空白。今度の静寂は、先ほどよりもさらに深かった。
胃の奥をじりじりと焼くような、説明のつかない不快な焦燥感。
『その必要はないよ』
指先が凍りついた。
冷酷な拒絶ではなかった。感情の起伏すら削ぎ落とされた、ひどく静かな、それゆえに決定的な拒絶。
『そっか』
そこで引き下がるべきだった。それで終わりにすれば、すべては元の、居心地の良い平坦な日常へと収束していくはずだった。
なのに、俺の内の何かが、それを許さなかった。
些細な、けれどずっと長い間、見て見ぬ振りをし続けてきた胸の奥の澱。
『一度だけでいい。駄目か?』
送信ボタンを叩いた瞬間、俺は自分の狭量さと強引さに目眩を覚えた。引き返せない一線を、踏み抜いてしまった。
空白。
重く、過酷な沈黙。
生まれて初めて、俺は画面の向こう側の応答に対して、本物の「恐怖」を抱いていた。
やがて。
『……』
ドットの三点リーダー。
言葉はなかった。事情の説明もない。ただ、彼女の思考が、あるいは迷いが、電子の網を伝って微かに明滅している。
時間が流れる。俺の網膜には、もうその発光する硝子板しか映っていなかった。
やがて、システムが新しい文字列を出力した。
『どこで?』
思考が一瞬、白濁する。
数秒の間、自分の目が捉えた文字の意味を信じることができなかった。
『本気か?』
短いラグ。
『うん』
ありふれた、ただの肯定。
なのに、その二文字が持つ質量は、これまでのどんな言葉とも違っていた。
『俺がお前の街まで行くよ』
彼女がどこの誰なのか、どの座標に生きているのかすら知らないというのに、文字列は勝手に指先から滑り出していた。
空白。
『来ちゃダメ』
『なんで?』
『遠いから』
俺は画面のこちら側で、微かに眉をひそめた。
『どこにいるんだ?』
ラグ。長く、引き延ばされる時間。
『東京』
指先が止まる。
その二文字が現実の地名として網膜を叩いた瞬間、二人の間にある物理的な「距離」が、急激な生々しさを持って立ち上がってきた。もう、液晶の内側だけの抽象的な記号ではいられない。
『……』
打ち込み、消し、また入力をやり直す。
『行けるよ。俺は構わない』
簡潔な、それゆえに先ほどよりも遥かに重い本気を含んだ一言。
空白。これまでのどんな対話よりも、果てしなく深い静寂。
俺は無意識のうちに、呼吸を止めて待った。
やがて。
『ううん、いい』
文字が降ってくる。
それは完全な拒絶ではなく、かといって受け入れるわけでもない、微かな躊躇。
もう諦めるべきか、そう迷いかけたその時、タイムラインに新しいパルスが跳ねた。
『私が、そっちに行くから』
俺は、知らず知らずのうちに椅子の背もたれから上体を起こしていた。
『本気で言ってるのか?』
『たぶん』
不確定な、ひどく曖昧な答え。
けれど、その五文字だけで、世界の色が決定的に変質していくのが分かった。
『いつだ?』
短いラグの後、
『来週』
液晶の数字を見つめる。
{その日付は、あまりにも近すぎた。俺の覚悟が形を成すよりも早く、世界は次のタイムラインを用意しようとしている。
『分かった』
それだけだった。無駄な感嘆符も、過剰なリアクションもない。
けれど、俺の内側では、確かに何かが致命的な音を立てて動き出していた。
これまでの平坦だった灰色の日々を、二度と元の形には戻さないための、冷たい歯車の回転。
それ以上、会話は続かなかった。具体的なディテールを詰めることも、約束の場所を決めることもしない。
ただ、ひとつの日付だけが、タイムラインの底に不発弾のように残された。
その夜、俺はいつもより遥かに早い時間に接続を切った。
退屈したからではない。俺の脳細胞が、もう完全にはゲームの内側に収まりきらなくなっていたからだ。
生まれて初めて、俺は画面の向こう側の「肉体を持つ人間」の存在を思考していた。
これまでただのテキストデータに過ぎなかった、橘レイという存在。
そしてどうしてだろう。現実にその姿を現そうとしている彼女の気配は、これまで電子の世界で共有してきたどんな日常よりも――酷く、非現実的な絵空事のように思えた。
その時、彼女が何を考えていたのか、今の俺には知る由もない。
俺と同じ焦燥を抱えていたのか、あるいは――彼女にとっては、ただの気まぐれに過ぎなかったのか。
ただ、ひとつだけ確かなことがあった。
あの日、俺たちの間で、ひとつの約束が確定した。
そして俺はまだ、気づいていない。
その瞬間から、世界はもう、俺の貧弱な意志では到底止めることのできない方向へと、加速を始めていたのだということに――。




