「インタールードⅠ 彼女の側」
室内の暗がりのなかで、ただ一カ所、発光する液晶の画面だけが静かに世界を照らし出している。
天井の主照明は消されたままだ。故障しているわけではない。ただ、その明かりを灯す必要性を、今の彼女が感じていないだけだった。
作業机の上は、おびただしい数の紙切れで埋め尽くされていた。あるものは規則正しく整頓され、またあるものは順序を失ったまま乱雑に積み重なっている。白い地の上に、黒いインクの線が幾重にも走っていた。
コマ割り、ネーム、未完成の表情。
中途で凍りついたような、躍動の残像。
橘レイは椅子に深く腰掛け、僅かに前傾姿勢を取っていた。液晶タブレットの上で、専用のペン(スタイラス)が微かな摩擦音を立てて滑っていく。
急いではいない。かといって、弛緩しているわけでもなかった。
あまりに長い時間、同じ動作を反復し続けてきたせいで、もはや彼女の肉体は思考を介さずとも、自動化された機構のように線を紡ぎ出すことができるようだった。
画面の隅で、デジタル時計の数字が無音のまま更新されていく。夜はとっくに深まり、あるいはもう「夜」と呼ぶには遅すぎる時間帯に差し掛かっているのかもしれない。レイはその推移に、大した関心を持っていなかった。
ただ、液晶の片隅。
メインの作業領域の隣で、ひとつの小さなウィンドウが常に開かれたままになっていた。
起動したままのゲーム。
彼女のアバターは、街の片隅で微動だにせず、ただそこに佇んでいる。何もしていない。何のクエストを消化するでもない。ただ、ひとつのドットの塊として「存在」し続けていた。
時折、そのウィンドウが淡く明滅する。光源エフェクトの揺らぎ。前を通り過ぎていく、見知らぬ他人のグラフィック。
レイは、その光の明滅へ、ほんの一瞬だけ視線を泳がせた。
それだけ。数ミリ秒の後には、再び目の前の未完の線画へと意識を埋没させる。
先ほど引いたばかりの線が、僅かに歪んでいた。コントロールキーを叩き、入力を取り消す。もう一度、引き直す。気に入らない。また消す。
何度も、何度も。
彼女の呼吸は静かだった。重くはないが、決して軽くもない、細い糸のような呼気。
机の脇には、いつからそこにあるのか分からない、空のマグカップが放置されていた。底のほうで、乾ききった珈琲の残渣が黒い輪を作っている。
すぐ傍らに横たわるスマートフォンは、液晶を暗転させたまま沈黙していた。いくつかのプッシュ通知が画面を掠めた気配はあったが、レイがそれに触れることはない。
ふっと、彼女の手が止まった。
スタイラスの先端が、硝子板の数ミリ上で宙吊りになる。
視線が、再び隣のゲームウィンドウへと吸い寄せられていく。アバターは、相変わらず寂寞とした電子の街にいた。
レイはチャットボックスを開いた。新しいログはない。
数秒の沈黙。ただ、カーソルが点滅するのを眺めていた。
やがて、指先が数回、静かにキーボードを叩く。
『ログインした?』
パルスが送信される。
即座の応答はない。レイは待つことをせず、すぐに元の作業へと意識を引き戻した。
一本の線を引く。影を落とし込む。おそらくは、誰も気づかないであろう微小なディテールを、執拗なまでの手つきで削り出していく。
時間はただ、淡々と流れていく。部屋のなかの、淀んだ空気のように。
数分の後、机の上のスマートフォンが一度だけ短く震えた。
レイは視線だけでそれを捉える。画面に、一ノ瀬直哉からの文字列が浮かんでいた。
『いま』
彼女はそれを一度だけ網膜に焼き付けると、今度は躊躇なくウィンドウへ指を滑らせた。
『遅い』
表情に変化はなかった。笑うでもなく、怒るでもない。ただの、習慣。
これまで何度も、何百回も繰り返してきた、お決まりの符牒を交わすようなトーン。
けれど、そこで再び彼女の手が止まった。
スタイラスが机の上に、ことりと軽い音を立てて置かれる。
レイは自分の細い手首を、もう片方の指先で静かに揉みほぐした。小さな、けれど深く染みついた日常の仕草。
小さく息を吸い込み、吐き出す。
彼女の瞳が見つめているのは、もはや未完のイラストではなかった。隣の小さなウィンドウ。冷たい電子の箱庭。
いくつかのキーを叩くと、画面のなかのアバターが、ゆっくりと歩調を狂わせて動き始める。
緩慢な、急ぐ理由を持たない歩行。
それはまるで、自分がまだその世界の境界線に「実在している」のだという事実を、自ら確かめるための儀式のようでもあった。
やがて、また動きが止まる。
チャットウィンドウ。明滅を繰り返す、一本のカーソル。
レイはそれを見つめ続けた。何かを、書き込もうとしているかのように。言葉を、その歪なプロトコルの隙間から漏らし出そうとするかのように。
けれど、システムが新しい文字列を出力することはなかった。
彼女は静かにウィンドウを閉じた。そして、再びイラストのキャンバスへと戻っていく。
机の隅には、別の原稿用紙が転がっていた。
描きかけの、ひとつのコマ。
そこには、ただ一人のキャラクターが、何もない空白のなかにぽつねんと立っていた。背景はない。他人の姿もない。ただ、粗い鉛筆の描線だけが、その輪郭を辛うじて維持している。
レイはその未完の孤独を、必要以上に長く見つめていた。
やがて、逃れるように視線を外す。
秒針は、無情な速度で進んでいく。
主照明は消されたまま。液晶だけが、彼女の横顔を白々しく照らし続けている。
その過酷な静寂のなかで、たったひとつだけ、変質しないものがあった。
画面の隅の、小さなウィンドウ。
そこに、時折思い出したように現れては、ふっと掻き消えていく、特定の四文字。
レイは何も言わない。自身の内情を暴くような言葉は、何ひとつとしてタイピングしない。
けれど、この底冷えする暗闇のなかで、その微小なデータの明滅だけが――彼女を、完全な「一人」から救い出していた。
そして、今の彼女にとっては。
ただそれだけの事実が、世界のすべてであるかのように、十分すぎるほどだった。




