表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
YOUR LAST SEEN 『ユア・ラスト・ログイン』  作者:
Arc 1: YOUR LAST SEEN

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/65

「第6章:見えないズレ」

 決定的な破綻というものは、何の前触れもなく、突如として牙を剥くわけではない。

 劇的な事件が起きるわけでもない。「ここからすべてが変わってしまった」と、後から指を差して断定できるような明確な起点など、何処にも存在しないのだ。

 けれど、確かに。

 世界の皮膚の下で、何かが静かに変質し始めていた。

 大学のキャンパスも、毎日の通学路も、窓の外を行き交う車の雑音も、すべては昨日と同じ平坦さを保っている。変わったのは、外の世界ではない。

 俺がこれまで考えもしなかった、日々の取るに足らない微小な習慣。

 いや、あるいは――その些細な隙間について、俺が「思考するようになってしまった」からかもしれない。


 その日は、いつもより早い時間にアプリを起動した。

 深い理由はなかった。講義が予定より早く切り上げられ、まだ外の光は白々しく残っていた。半分だけ開けた窓から、生温かい夕風と共に遠くの排気音が流れ込んでくる自室で、俺はスマートフォンの画面を叩いた。

[LOGIN]

 瞬時に再構築される電子の箱庭。

 俺は思考を介さず、ただ手癖のようにプレイヤーリストを開いた。

 ――ない。

 いつもそこにあるはずの特定の四文字が、灰色の沈黙に埋もれている。ステータスランプは消灯したままだ。

 俺は液晶の光を、数秒間、ただ見つめ続けた。

 珍しいことではない。彼女が常にログインしているわけではないことくらい、最初から分かっていたはずだ。

 俺は一人で、いつも通りのダンジョンへ足を向けた。

 誰の歩調に合わせる必要もなく、誰のタイミングを推し量る必要もない戦闘。俺のアバターは、いつもより遥かに素早く、効率的に敵を処理していく。無駄のない軌道。洗練されたスキル回し。

 それなのに、どうしてだろう。世界の効率が上がれば上がるほど、胸の奥の空洞が冷たく広がっていくような錯覚に囚われる。

 ダンジョンを抜け、中央広場に戻る。

 再びリストを開く。――まだ、灯らない。

 ウィンドウを閉じ、数秒の後、何の意味もないのにまた開く。やはり、灰色のままだ。

 俺は小さく息を吐き出し、スマートフォンをごろりとベッドの上に放り出した。

 仰向けになり、染みのついた天井を睨みつける。時間の感覚がじわじわと引き延ばされていく。数分、あるいはそれ以上。

 スマートフォンの筐体きょうたいが、一瞬だけ短く震えた。

 弾かれたように手を伸ばし、画面を覗き込む。


『ログインした?』


 その四文字を見た瞬間、俺の背筋が不自然なほど真っ直ぐに伸びた。

『いま』

『ちょっと待ってて』

 文字の並びを見つめる。

 いつもとは、何かが違っていた。普段の彼女なら、とっくに街の片隅でアバターを座らせているか、あるいは無言でパーティ申請を送りつけてくるはずだった。

㠪、待つのは俺の側だった。

 俺は中央広場でアバターを停止させたまま、ただ液晶を凝視した。行き交う別のプレイヤーたちのグラフィックが網膜を掠め、過剰なエフェクトが視界の端で爆発する。けれど、俺の意識はその狂騒のすべてを拒絶し、ただ一カ所――まだ色の変わらないチャットウィンドウの底だけに、じっと縫い付けられていた。

 数分が経った。新しいパルスは届かない。

『遅いな』と、打ち込みかけて、その文字をすべてバックスペースで消去した。

 やがて。

――Tachibana Rei - Online

 ランプが静かに緑色へと反転する。

 俺はすぐにキーを叩かなかった。彼女が確かにそこに実体化スポーンしたのだという事実を、指先が慎重に確かめるための数秒の猶予。

『ごめん』

『気にするな』

『ちょっと長引いちゃって』

『仕事か?』

 空白。いつもより遥かに重く、引き延ばされた沈黙。

『うん』

 返ってきたのは、見慣れた二文字。

 けれど、そのドットの羅列から伝わってくる手触りは、これまでとは決定的に違っているように思えた。


 いつものようにダンジョンに入った。

 だが、最初の小競り合いの時点で、二人の歩調が不自然に乱れていた。

 スキルの発動タイミングがミリ秒単位で噛み合わず、アバターの位置取りが僅かにズレる。これまでなら、言葉を交わさずとも自然に修正できていたはずの些細な不協和音。それが、どうしても元の旋律へと収束していかない。

 二人の間に、目に見えない「遅延」が横たわっている。

『ラグが酷いのか?』

『かもしれない』

 ひどく軽い肯定。けれど、その不調の理由が、単なるネットワーク回線の不備によるものではないことを、俺の直感が静かに告げていた。

 乱戦の最中、彼女のアバターがまた唐突に静止した。

 彫像のように凍りついたグラフィック。俺は数秒間、彼女の背中を見つめ続けた。

『離席(AFK)?』

 応答はない。

 俺は進行方向を見据えたまま、その場に立ち止まった。リスポーンした敵の足音が耳の奥で鳴り響く。

 以前なら、この沈黙を待つ時間はそれほど苦ではなかったはずだ。むしろ、その空白の居心地の良さに救われていた。

 なのに、今は――その静寂が、剥き出しの刃のように俺の胸を削っていく。いつもより、ずっと長く、ずっと空虚に感じられた。

 数分の後、アバターが息を吹き返す。

『ごめん』

『最近、多いな』

 思考のフィルターを通さず、棘を含んだ文字列が指先から滑り出していた。

 送信ボタンを叩いた瞬間、俺は自分の狭量さに息を詰めた。

 空白。引き延ばされる秒針。

『うん』

 言い訳も、反論もない。ただ、それだけ。

 俺たちはそれ以上言葉を交わすことなく、残りの敵を淡々と処理していった。

㠪のタイムラインには、これまでになく寒々しい静寂が横たわっていた。話すべきことがないのではない。お互いに、これ以上「踏み込んではならない領域」の存在を察知し、頑なに心を閉ざしているのだ。


 ダンジョンを抜け、中央広場に戻っても、二人のアバターは並んだまま動かなかった。

 液晶の向こう側にいる彼女の顔を想像しようとして、俺は自分が彼女の何ひとつとして知らないという事実に、今更ながらに眩暈を覚える。

㠪、どうしても訊ねておかなければならないような、底冷えする予感があった。

『最近、酷く忙しいんだな』

 空白。

 俺は無意識のうちに、液晶の底を睨みつけていた。

『うん』

 ただの二文字。

 いつもなら、その素っ気なさで納得できていた。けれど、今日の俺には、その壁がどうしても高すぎるように思えた。

『大丈夫か?』

 パルスが回線を流れた瞬間、俺は強烈な後悔に囚われた。踏み込みすぎた。これは俺のような画面の向こう側の人間が、彼女のプライベートに対して投げかけていい言葉ではない。

 長い、長いラグ。

 これまでのどんな静寂よりも深く、重い空白が二人の間に横たわる。

 俺は息を詰めて待った。生まれて初めて、俺は画面の向こう側からの応答を、喉を かわかせながら希求していた。

 やがて。

『大丈夫』

 以前と同じ、拒絶に似た肯定。

 けれどその三文字は、こちらの気遣いを受け入れるためのものではなく、これ以上の介入を拒むように、静かに、そして完全に目の前の扉を閉ざすための響きを持っていた。


 それ以上、会話は続かなかった。次のダンジョンへ行くことも、他愛のない雑談に戻ることもない。

 数分の後。

『落ちるね』

『了解』

 いつも通りの、決まりきった記号のやりとり。

 何も変わっていない。はずだった。

 プレイヤーリストから、彼女の四文字がふっと掻き消え、世界は再びモノクロームへと反転する。

――Offline

 俺は、消灯したリストの残像を、必要以上に長く見つめ続けていた。そこにはもう何も存在しないと知りながら、何かのバグで、もう一度緑色のランプが灯るのではないかと、無駄な期待を捨てきれない。

 ウィンドウを閉じ、また開き、やはり空欄であるのを確認して、また閉じる。

 あの日を境に、俺たちのルーティンは、静かに、けれど決定的にその位相をずらしていった。

 噛み合わせの壊れた歯車のように、どこか歪で、不揃いな回転。


 その夜、俺はいつまでもログアウトのボタンを押すことができなかった。

 ゲームをプレイするためではない。ただ、どのタイミングでこの電子の海の底から浮上すればいいのか、その座標を見失ってしまったからだ。

 やがて、重い疲弊と共に接続を切った時、胸の奥に残されていたのは、あのいつもの虚無感ではなかった。

 それはもっと薄く、もっと脆い、皮膚を こじ開けるような微小な摩擦。

㠪まで驚くほど近くに感じられていた二つの世界の間に、いつの間にか、修復不可能な「亀裂」が生まれつつあるという確信。

 そして俺はまだ、知らない。

 そのズレが、いつか元の形へと収束していくのか。

 あるいは、このまま光回線の彼方へと、際限なく広がり続けていくのかを――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ