「第6章:見えないズレ」
決定的な破綻というものは、何の前触れもなく、突如として牙を剥くわけではない。
劇的な事件が起きるわけでもない。「ここからすべてが変わってしまった」と、後から指を差して断定できるような明確な起点など、何処にも存在しないのだ。
けれど、確かに。
世界の皮膚の下で、何かが静かに変質し始めていた。
大学のキャンパスも、毎日の通学路も、窓の外を行き交う車の雑音も、すべては昨日と同じ平坦さを保っている。変わったのは、外の世界ではない。
俺がこれまで考えもしなかった、日々の取るに足らない微小な習慣。
いや、あるいは――その些細な隙間について、俺が「思考するようになってしまった」からかもしれない。
その日は、いつもより早い時間にアプリを起動した。
深い理由はなかった。講義が予定より早く切り上げられ、まだ外の光は白々しく残っていた。半分だけ開けた窓から、生温かい夕風と共に遠くの排気音が流れ込んでくる自室で、俺はスマートフォンの画面を叩いた。
[LOGIN]
瞬時に再構築される電子の箱庭。
俺は思考を介さず、ただ手癖のようにプレイヤーリストを開いた。
――ない。
いつもそこにあるはずの特定の四文字が、灰色の沈黙に埋もれている。ステータスランプは消灯したままだ。
俺は液晶の光を、数秒間、ただ見つめ続けた。
珍しいことではない。彼女が常にログインしているわけではないことくらい、最初から分かっていたはずだ。
俺は一人で、いつも通りのダンジョンへ足を向けた。
誰の歩調に合わせる必要もなく、誰のタイミングを推し量る必要もない戦闘。俺のアバターは、いつもより遥かに素早く、効率的に敵を処理していく。無駄のない軌道。洗練されたスキル回し。
それなのに、どうしてだろう。世界の効率が上がれば上がるほど、胸の奥の空洞が冷たく広がっていくような錯覚に囚われる。
ダンジョンを抜け、中央広場に戻る。
再びリストを開く。――まだ、灯らない。
ウィンドウを閉じ、数秒の後、何の意味もないのにまた開く。やはり、灰色のままだ。
俺は小さく息を吐き出し、スマートフォンをごろりとベッドの上に放り出した。
仰向けになり、染みのついた天井を睨みつける。時間の感覚がじわじわと引き延ばされていく。数分、あるいはそれ以上。
スマートフォンの筐体が、一瞬だけ短く震えた。
弾かれたように手を伸ばし、画面を覗き込む。
『ログインした?』
その四文字を見た瞬間、俺の背筋が不自然なほど真っ直ぐに伸びた。
『いま』
『ちょっと待ってて』
文字の並びを見つめる。
いつもとは、何かが違っていた。普段の彼女なら、とっくに街の片隅でアバターを座らせているか、あるいは無言でパーティ申請を送りつけてくるはずだった。
㠪、待つのは俺の側だった。
俺は中央広場でアバターを停止させたまま、ただ液晶を凝視した。行き交う別のプレイヤーたちのグラフィックが網膜を掠め、過剰なエフェクトが視界の端で爆発する。けれど、俺の意識はその狂騒のすべてを拒絶し、ただ一カ所――まだ色の変わらないチャットウィンドウの底だけに、じっと縫い付けられていた。
数分が経った。新しいパルスは届かない。
『遅いな』と、打ち込みかけて、その文字をすべてバックスペースで消去した。
やがて。
――Tachibana Rei - Online
ランプが静かに緑色へと反転する。
俺はすぐにキーを叩かなかった。彼女が確かにそこに実体化したのだという事実を、指先が慎重に確かめるための数秒の猶予。
『ごめん』
『気にするな』
『ちょっと長引いちゃって』
『仕事か?』
空白。いつもより遥かに重く、引き延ばされた沈黙。
『うん』
返ってきたのは、見慣れた二文字。
けれど、そのドットの羅列から伝わってくる手触りは、これまでとは決定的に違っているように思えた。
いつものようにダンジョンに入った。
だが、最初の小競り合いの時点で、二人の歩調が不自然に乱れていた。
スキルの発動タイミングがミリ秒単位で噛み合わず、アバターの位置取りが僅かにズレる。これまでなら、言葉を交わさずとも自然に修正できていたはずの些細な不協和音。それが、どうしても元の旋律へと収束していかない。
二人の間に、目に見えない「遅延」が横たわっている。
『ラグが酷いのか?』
『かもしれない』
ひどく軽い肯定。けれど、その不調の理由が、単なるネットワーク回線の不備によるものではないことを、俺の直感が静かに告げていた。
乱戦の最中、彼女のアバターがまた唐突に静止した。
彫像のように凍りついたグラフィック。俺は数秒間、彼女の背中を見つめ続けた。
『離席(AFK)?』
応答はない。
俺は進行方向を見据えたまま、その場に立ち止まった。リスポーンした敵の足音が耳の奥で鳴り響く。
以前なら、この沈黙を待つ時間はそれほど苦ではなかったはずだ。むしろ、その空白の居心地の良さに救われていた。
なのに、今は――その静寂が、剥き出しの刃のように俺の胸を削っていく。いつもより、ずっと長く、ずっと空虚に感じられた。
数分の後、アバターが息を吹き返す。
『ごめん』
『最近、多いな』
思考のフィルターを通さず、棘を含んだ文字列が指先から滑り出していた。
送信ボタンを叩いた瞬間、俺は自分の狭量さに息を詰めた。
空白。引き延ばされる秒針。
『うん』
言い訳も、反論もない。ただ、それだけ。
俺たちはそれ以上言葉を交わすことなく、残りの敵を淡々と処理していった。
㠪のタイムラインには、これまでになく寒々しい静寂が横たわっていた。話すべきことがないのではない。お互いに、これ以上「踏み込んではならない領域」の存在を察知し、頑なに心を閉ざしているのだ。
ダンジョンを抜け、中央広場に戻っても、二人のアバターは並んだまま動かなかった。
液晶の向こう側にいる彼女の顔を想像しようとして、俺は自分が彼女の何ひとつとして知らないという事実に、今更ながらに眩暈を覚える。
㠪、どうしても訊ねておかなければならないような、底冷えする予感があった。
『最近、酷く忙しいんだな』
空白。
俺は無意識のうちに、液晶の底を睨みつけていた。
『うん』
ただの二文字。
いつもなら、その素っ気なさで納得できていた。けれど、今日の俺には、その壁がどうしても高すぎるように思えた。
『大丈夫か?』
パルスが回線を流れた瞬間、俺は強烈な後悔に囚われた。踏み込みすぎた。これは俺のような画面の向こう側の人間が、彼女のプライベートに対して投げかけていい言葉ではない。
長い、長いラグ。
これまでのどんな静寂よりも深く、重い空白が二人の間に横たわる。
俺は息を詰めて待った。生まれて初めて、俺は画面の向こう側からの応答を、喉を 乾かせながら希求していた。
やがて。
『大丈夫』
以前と同じ、拒絶に似た肯定。
けれどその三文字は、こちらの気遣いを受け入れるためのものではなく、これ以上の介入を拒むように、静かに、そして完全に目の前の扉を閉ざすための響きを持っていた。
それ以上、会話は続かなかった。次のダンジョンへ行くことも、他愛のない雑談に戻ることもない。
数分の後。
『落ちるね』
『了解』
いつも通りの、決まりきった記号のやりとり。
何も変わっていない。はずだった。
プレイヤーリストから、彼女の四文字がふっと掻き消え、世界は再びモノクロームへと反転する。
――Offline
俺は、消灯したリストの残像を、必要以上に長く見つめ続けていた。そこにはもう何も存在しないと知りながら、何かのバグで、もう一度緑色のランプが灯るのではないかと、無駄な期待を捨てきれない。
ウィンドウを閉じ、また開き、やはり空欄であるのを確認して、また閉じる。
あの日を境に、俺たちのルーティンは、静かに、けれど決定的にその位相をずらしていった。
噛み合わせの壊れた歯車のように、どこか歪で、不揃いな回転。
その夜、俺はいつまでもログアウトのボタンを押すことができなかった。
ゲームをプレイするためではない。ただ、どのタイミングでこの電子の海の底から浮上すればいいのか、その座標を見失ってしまったからだ。
やがて、重い疲弊と共に接続を切った時、胸の奥に残されていたのは、あのいつもの虚無感ではなかった。
それはもっと薄く、もっと脆い、皮膚を 抉開けるような微小な摩擦。
㠪まで驚くほど近くに感じられていた二つの世界の間に、いつの間にか、修復不可能な「亀裂」が生まれつつあるという確信。
そして俺はまだ、知らない。
そのズレが、いつか元の形へと収束していくのか。
あるいは、このまま光回線の彼方へと、際限なく広がり続けていくのかを――。




