「第5章 画面の向こう側」
そこには、決して目には見えない距離が存在していた。
物理的な空間の隔たりではない。時間のズレでもない。それはもっと薄く、もっと脆い、皮膚一枚ほどの境界線。
言葉を交わし合ってはいても、決して同じ地平には立っていない二人の人間を分かつ、見えない硝子の壁。
今までは、そんなことを深く考えもしなかった。
ゲームはただのゲームであり、他人はただの他人だ。液晶のなかで起きた出来事を、わざわざ現実の領域まで引きずり出す必要などどこにもない。それが、俺の身に染みついた処世術だったはずだ。
けれど、彼女の存在が日常に溶け込み始めてから――その冷淡な確信は、少しずつ形を変えていた。
明確な答えが出たわけではない。ただ、思考の端々に、小さな疑問の棘が刺さるようになった。
その夜、俺たちはやはりダンジョンへは向かわなかった。
中央広場の片隅、ここ数日の定位置となった場所に、二つのアバターを並べて佇んでいる。
目的も、計画もない。ただ、接続を維持している。
『今日は静かだね』
ぽつりと、ログが跳ねた。
『ああ』
俺は、いつもより必要以上に長く画面を見つめ続けていた。
タイムラインに流れる空白の質が、これまでとは違っている。気まずさはない。むしろ、何かを話し始めてもいいような、静かな許しがそこに漂っていた。けれど、どこから言葉を切り出せばいいのかが分からない。
『毎日、仕事なのか?』
空白。数秒のラグ。
『毎日じゃない』
『でも、よく繋がってるな』
『うん』
俺はキーボードの十字キーに指をかけ、アバターの位置を数ドットだけ横にずらした。意味のない、ただの手癖の動作。
『疲れるか?』
今度の躊躇は、いつもより少しだけ長かった。もう返事は来ないかもしれない。そう思いかけた矢先、文字が降ってくる。
『ときどき』
俺はその四文字を、じっと凝視した。
付け足された言い訳も、飾り気もない。だからこそ、その短い記号は、いつもの素っ気なさよりもずっと生々しく、彼女の剥き出しの真実に触れたような錯覚を俺に抱かせた。
街を満たすデジタルな風は、いつもと同じパターンで吹いている。NPCたちは決められた軌道を歩き、光源エフェクトは一定の周期で繰り返される。
すべてが生き生きと描写されているが、ここにあるものは何ひとつとして本物ではない。
『俺も』
どうしてそんな言葉を打ち込んだのか、自分でもよく分からなかった。この対話を途切れさせたくなかったのか、あるいは――それが、俺の偽らざる本音だったからか。
二人の間には、依然として沈黙の余白が横たわっていた。けれど、その空白はもう冷たくはなかった。誰かが足を踏み入れるのを静かに待っている、空き部屋のような静謐。
『一人で暮らしてるの?』
思考が形を成すより早く、指先が文字列を送信していた。
パルスが回線を流れた瞬間、微かな後悔が胸を 掠める。踏み込みすぎた。少なくとも、今の俺たちの距離感では、触れてはならない領域だったはずだ。
長い、長いラグ。
彼女からの返答を期待するのをやめ、諦め混じりに画面から目を逸らしそうになったその時、液晶が更新された。
『うん』
ただ、それだけ。
俺は胸の奥で、小さく息を吐き出した。安堵でも、落胆でもない。ただ、彼女が引いた見えない境界線が依然としてそこに厳然と存在しており、彼女自身もそれを消し去るつもりはないのだという事実を、再確認しただけだった。
『俺も同じだ』
その文字列は、先ほどの質問よりもずっと軽い足取りでタイムラインに滑り込んだ。何も求めず、何も暴かない。ただ、互いの距離をほんの少しだけ等しくするための記号。
数分の後、今度は向こうの文字が跳ねた。
『大学生?』
『まあね』
『専攻は?』
『大したことないよ』
指先を止め、入力をやり直す。
『つまらない学問だから、訊いても面白くない』
『ふーん』
それ以上、追及してくる気配はなかった。無理に暴こうとはしない。まるで、言葉にされない理由の存在を、そのまま受け入れているかのように。
椅子の背もたれに深く身体を預け、発光する硝子板を見つめる。
何かが、確実に変質し始めていた。交わされる言葉は相変わらず他愛のないものだったが、それはもう完全には「ゲームの内側」に収まりきっていなかった。現実世界の破片が、電子の隙間からぽつぽつと漏れ出している。
ただそれだけのことで、二人の距離が、目眩がするほど近くに感じられた。
『どんな絵を描いてるんだ?』
空白。今度の沈黙は、これまでになく深かった。
無意識のうちに、俺は息を詰めて応答を待っていた。
『いろいろ』
『漫画とか?』
短いラグ。
『似たようなもの』
俺の唇が、微かに綻ぶ。以前と同じ答え。まるで見えない壁の向こう側を、意図的に 隠蔽しようとするかのような、頑ななまでの防御。
『発表したことは?』
すぐには既読がつかない。いつもより引き延ばされた秒針。また踏み込みすぎただろうか。そんな不安が脳裏を過った頃、
『まだない』
『きっと、いい絵なんだろうな』
送信ボタンを叩いてから、俺は我に返った。
軽率だった。あまりに確信めいた言い回しだ。俺は彼女の絵を一枚たりとも見たことがないというのに。
数秒の静寂の後、
『そうでもないよ』
謙遜しているような声音ではなかった。むしろ、それが冷徹な事実であると、彼女自身が深く信じ込んでいるような、そんな乾いた手触りの文字列。
再び、重い沈黙がタイムラインを支配した。
けれど、その余白を言葉で埋める必要は感じなかった。
画面の外側では、夜が静かに深さを増している。時計の針を見ることはしなかったが、身体の節節に、重い疲弊が蓄積していくのが分かった。
『まだ寝ないのか?』
『うん』
『また仕事?』
短いラグ。
『そう』
『あまり、無理はするなよ』
打ち込んだ後で、ひどく奇妙な感覚に囚われた。普段の俺なら、他人に向けた試しもないような、酷く手垢のついたお仕着せの台詞。
空白。
『いつも通りだから』
俺はその文字列を、網膜の奥にじりじりと焼き付けるように見つめ続けた。
ありふれた一言。なのに、どうしてだろう。それが決して「いつも通り」であってはならない何事かを孕んでいるような、底冷えする予感が胸を突いた。
数分の後、タイムラインが静かに更新される。
『あなた、先に寝なよ』
『お前は?』
短いラグ。
『私は、もうちょっとだけ』
俺はすぐには指を動かさなかった。ただ、ドットの羅列を見つめ、そこに書かれていないはずの「声」を聴き取ろうとしていた。
『長引かせるなよ』
思考を介さず、ただ指先が動いた。
それに対する応答はなかった。
数秒の後、プレイヤーリストから、彼女の名前がふっと掻き消えた。
――Offline
俺は画面を閉じなかった。いつもより長い時間、無機質な硝子板の輝きを凝視し続けていた。
そこに、彼女の残した何かがまだ浮遊しているかのような錯覚。交わされた会話はどこまでも単純で、特別ドラマチックな内容でもない。
なのに、どうしてだろう。接続を切るための指先が、石のように重かった。
アプリを終了させると、自室に元の静寂が戻ってきた。
けれど、俺の脳細胞は、簡単には凪いでくれなかった。
あの夜――俺は生まれて初めて、その顔すら見たことのない見知らぬ誰かのことを、暗闇のなかで延々と思考し続けていた。
そしてその存在は、現実世界のどんな人間よりも、酷く生々しい実体を持って俺の胸に居座っていた。




