「第4章 繰り返される日々の中で」
変化というものは、往々にして、それが変化であると自覚されないままに訪れる。
劇的な地殻変動ではない。明確な境界線を引いて、名前を与えられるような大層な出来事でもない。それはもっと、密やかで、微小な位相のズレだった。
気づかないほどに、ゆっくりと。
最初は単なる偶然の重なりだったはずの習慣が、いつの間にか、それなしでは一日が完結しない必然へとすり替わっていく。
俺は相変わらず、昨日と寸分違わない日常を消化していた。
締まりのない時間に目を覚まし、大した目的意識もないままキャンパスへ足を運ぶ。いつもと同じ講義室の、いつもの座席。周囲にいる連中の顔ぶれも、その退屈な空気も、何ひとつ変わりはしない。
世界はただ、昨日と同じ軌道をなぞるようにして回っている。
だが、その平坦な時間の連なりのなかに、ひとつだけ小さな異物が混入し始めていた。
――時間を、意識するようになったのだ。
重要な予定があるわけではない。何かの締め切りに追われているわけでもない。ただ、一日のなかに、無意識のうちに己の針を合わせてしまう特定の「瞬間」が生まれていた。
かつてはただの暇潰しでしかなかった、ゲームの起動時間。
今のそれは、単なる習慣という言葉の枠を、静かに踏み越えつつあった。
夕暮れ時、講義の終わりを告げるチャイムが鳴っても、俺はすぐに帰路につくことはしなかった。
校舎の外にある、いつものベンチに腰を下ろし、ただ夕闇が街を侵食していくのを眺める。
周囲を、名前も知らない学生たちが通り過ぎていく。笑い声。他愛のない雑談。互いを呼び合う声。それらの音波は確かに俺の鼓膜を震わせるが、心層のどこにも引っかかることなく、そのまま背後へと通り抜けていった。
ポケットから、スマートフォンを取り出す。
いつもの位置に、いつものアイコン。
それをタップする指先が、以前よりも僅かに速くなっていることに、俺は気づかない振りをしていた。
[LOGIN]
世界が再構築される。
何も変わらない電子の箱庭。いつもと同じ色をした空。耳に馴染みすぎた合成音の旋律。寸分の狂いもない街並み。
だが、今の俺は、ログイン直後にアバターを動かすことをしなかった。
まず、プレイヤーリストを開く。
捜す名前は、最初から決まっている。
――Tachibana Rei
そこに、あった。
緑色のランプ。ステータスは――Online。
すぐにメッセージを送ることはせず、ただその四文字をじっと見つめる。
すでに確定している事実を、わざわざ確かめるような、数秒の無駄な時間。
『遅い』
液晶の底から、短い不機嫌が弾けた。
俺は小さく息を吐き出し、画面を叩く。
『いま繋いだところだ』
『知ってる』
不自然なほど素っ気ない、けれどどこか、俺が来るのをあらかじめ予期していたかのような、妙に軽い足取りの文字列。
俺たちはすぐにどこかへ出発するわけでもなく、ただ中央広場にアバターを並べたまま、佇んでいた。
周囲を、別のプレイヤーが慌ただしく横切っていく。派手なスキルエフェクトの残像が視界の端で弾け、無機質なシステム音が鼓膜の裏で鳴り響く。
けれど、その過剰な情報の渦のなかにあって、二人の間に流れる短い空白だけは、奇妙なほど静かで、それだけで十分に満ち足りているように思えた。
『今日は何する?』
即座には既読がつかない。
俺は、無意識のうちに次の言葉を待っていた。
『仕事』
『きつい?』
短いラグ。
『それなりに』
具体的なディテールは語られない。そしていつものように、俺もそれ以上は踏み込まない。
やがて、どちらからともなくいつものダンジョンへと足を向けた。
アバターの連携は、以前よりも遥かに滑らかになっていた。完璧な同期というわけではない。だが、互いの呼吸をミリ秒単位で予測し合うような、確かな手応えがあった。
俺が先行しすぎれば彼女がその背後を埋め、彼女の反応が遅れれば俺がその隙間を補う。
言葉による指示など、そこには必要なかった。
乱戦の最中、俺はふと、自分のプレイスタイルが変わっていることに気づいた。以前のように、ただ最速の効率を求めて突っ込むのをやめていた。
ほんの少しだけ、指先を抑える。
彼女のタイミングを待つ。互いの距離感を調整する。
些細な変化だ。けれどそのわずかな手加減が、この退屈だった作業を、まったく別の何かに変質させていく。
中層の通路に差し掛かった頃、彼女の動きが再び途絶えた。
彫像のように硬直したアバターが、何もない空間を見つめて静止する。
俺は進行方向を見据えたまま、その場に立ち止まった。
『離席(AFK)?』
応答はない。
俺は動かなかった。リスポーンした敵が周囲を徘徊し、別のパーティが俺たちの脇をすり抜けていく。時間の流れだけが、歪に引き延ばされていく。
けれど、俺はその場を動く気にはなれなかった。
どうしてだろう。今回の沈黙は、いつもより遥かに長く、重く感じられた。物理的な時間が長かったわけではない。俺が、「自分が誰かを待っている」という事実を、あまりにも明瞭に自覚してしまったからだ。
単なる効率の悪いプレイヤーを待っているのではない。俺は、橘レイという存在の帰還を待っている。
数分が、静寂のなかに融けて消えた。
やがて、アバターが息を吹き返したように微かに身じろぎする。
『ごめん』
『遅いな』
『うん』
それ以上の言い訳はなかった。俺もまた、言葉を重ねるのをやめた。
㠪が、何かを訊ねたところで、返ってくる答えはいつも同じなのだと、何処かで予感していたからかもしれない。
俺たちはそのまま、静かにダンジョンを攻略した。
無駄な会話はなかったが、気まずさは微塵もなかった。ただ、お互いの存在がそこに嵌まり込んでいるというだけで、すべてが完結しているような、奇妙な静謐。
その夜、クリアの報酬を受け取っても、俺はすぐにログアウトする気にはなれなかった。
アバターを街の境界線に座らせたまま、ただ電子の夜を眺めていた。
街灯の光がドットの夜空を微かに照らし、デジタルなグラデーションがゆっくりと色を変えていく。それが元元ゲームに実装されていた仕様なのか、あるいは俺が今まで見落としていただけなのか、それすらも分からなかった。
『まだいるの?』
ぽつりと、ログが跳ねた。
『ああ』
短いラグ。
『寝ないの?』
『まだ眠くない』
『あんまり遅くまで起きちゃダメだよ』
液晶の文字を見つめる。
『お前もな』
返事はすぐには来なかった。
数秒、あるいは十数秒。
『私は、もうちょっとだけ』
何故だろう。その一言が、単に「まだゲームを続ける」という意味以上の、酷く重い未練を含んでいるように聴こえたのは、俺の錯覚だったのだろうか。
数分の後、プレイヤーリストから彼女の四文字が、ふっと掻き消えた。
――Offline
暗転しかけた画面を、俺は必要以上に長く見つめ続けていた。
まるで、そこに彼女の残滓がまだ浮遊しているかのような錯覚。実際には、無機質な硝子板があるだけなのに。
俺は、ゆっくりと接続を切った。
視界が現実の自室へと戻る。しん、とした静寂。
けれど、胸の奥にある澱は、完全には消え去っていなかった。
あの日を境に、俺は認めざるを得なくなっていた。
俺の日常は何ひとつ変わっていない。退屈な講義も、灰色の街並みも、すべてはそのままだ。
けれど、それを受け止める俺の内の輪郭が、ほんの少しだけ歪み始めていた。
一日のなかに、無意識のうちに待ち焦がれてしまう瞬間がある。
ただそれだけの事実が、この代わり映えのない世界のすべてを、決定的に、別の色へと塗り替えつつあった。




